死後転生 その2
こんな形で人生を何度も過ごしているせいか、自分には二つの思考方法が生まれた。大きく分けて「人といる時」「人といない時」の二つ。前者は人間としての作法を身に着けていて、後者は人間としてではなく人として存在する。人間と人とを使い分けるのには個人的な理由がある。人間は人の間と書いて人間としている。つまりは人と人という点をそれぞれの言語能力などで線にして繋いでいる状態。これが幾重にも重なって社会が出来る。人間とはある意味複数形のような状態に近い。反対に人は個を成立させるもの。個である証のようなものだ。だから私は人間であり人である。これを両立させるのが最も人生を上手く生きる方法だったような気がする。
人間であるときの私は他人との距離感に重要性を求めた。人間社会は一度嫌われてしまうとどうしても修復するのが難しい。
反対に、人である時の私にとっては明確な評価基準があり、他人の評価が最初の段階で幾ら低くても、その後の行動で評価が変動しやすい。二人の自分を確立させることで、感情の波もある程度、自分の思いのままに操ることが出来た。人をもって人間を制することは素晴らしいことであり、人間をもって人を制することがあってはならない。人間による支配は争いを生むが、人による支配はそもそも成立せず存在しない。人は個であり、群れとはならないからだ。人間は群れてその大きさによって自分たちの生きる場所を増やそうとする。だから争いが生まれる。自分たちが生きるために他者を追い詰める。人は美しく、人間は醜い。
人間は色々な物事に関して固定することが好きなようで、これはこうだと決めつけやすい。そこに集団意識も混じってくれば、それはもうさながら一つの正解であるが如く、多数決のような、浅はかな終幕を迎える。
右を向けと言われれば右を向き、上を向けと言われれば上を向く。それが一番楽な道であり、他人との比較を生まないように平和に過ごせるからだ。誰かと一緒の行動をしていれば不安にならずに済む。
逆に、人間は自分たちと違う行動をする人を忌み嫌う。自分が出来ないことをやり遂げる人を嫌う。自分が納得できないことを、人間は否定する。
人間の私は従順だ。何故なら、否定さえしなければ周囲に荒波を立てることがないのだから拒否する理由がない。やる理由も無ければやらない理由も無いということだ。
仮にやらなかった場合、指摘を受けて説教というとてつもなく無駄な時間を過ごすことになってしまう。死後すぐに転生してしまう私が「時間の無駄」というのは皮肉だが、自分と他人の二人の時間、加えてはそれを見届けるか、終わるまで待たなければならない周囲の時間の無駄なのだ。物事は効率よく行わなければならない。何が必要で何を切り捨てれば最善なのか、それさえ考えていればある程度の人生は平穏に終わりを迎えていく。要領よく生きる為に私が見つけた人生の最善策だ。
生きとし生けるもの、全ては平等に朽ち果てていく。いくらその進行を遅らせたとしても、やがては消えゆく。時間も平等に分け与えられ生を謳歌する。
この死後転生という運命の輪を知る前はそんな当たり前の概念に縛り付けられていた。だが、いざ死んでみたらこの有様だ。死んでいるのに死ぬということは許されず、喜怒哀楽、混沌に塗れた世界にまた戻されて一から人生を始めなければならない。死ねば楽になれるなど、人間にそんな安全装置のようなものは存在しなかったということだ。自分であり、自分ではない生を始めなければならないのだ。道端ですれ違う人間も実は既に死人だったかもしれない。過去に生きてきた英雄や極悪人の魂がそこには鎮座しているかもしれない。そう考え始めると何もかも疑わしく思えて仕方がない。人間は信用に値しない。
だってそうだろう、こうして自分が繰り返し生きているということは、知らない場所で誰かが死んで再び蘇ってきているのかもしれないのだから。神様という存在が平等にこの行為をしているのなら、極悪人が絶えず世界に溢れるのも頷けるというものだ。そうすれば、何故、善人が少ないかなんて考えなくても答えが出る。
この世界は死後転生、まあ輪廻転生、つまりはやり直しを前提とした世界だ。魂の練度によって次の段階へと進める。つまり、善人が少ないのはそういうこと。利己主義の枠から外れ、利他主義の精神に生きている者が次の次元へと進める。まあ、これも勝手に私が考えた仮定だ。実際どうなのか、神様が居るなら是非教えて頂きたい。
生まれ変わりを繰り返す中で、一度だけ、人間以外に生まれ変わったことがあった。それもまあ、生まれて一ヵ月くらいの子犬だった。私は人間の言葉が理解できる分、飼い主に喜ばれることをするのは造作も無いことだった。お手もおかわりも一風変わった芸もやってみせると、その飼い主は決まって、褒めては頭を撫でて餌を与えてくれた。ドッグフードやペット用のおやつを食べるのにはかなりの抵抗を感じたが、いざ食べてみるとこれが美味しかった。犬用に感覚も切り替わっているのか、逆に人間の食べ物の味の濃さと匂いに鼻が折れ曲がりそうになることが多かった。
犬になって一番慣れないことは便所だった。シーツの上で、外でと開放感と罪悪感、色々なものがごちゃ混ぜにされ自分が犬であるということを自覚させられた。誰かが見ている所で用を足さなければならないという不快感もあり、私はなるべく家族の寝静まった時を見計らって事を済ませていた。それでも、自分の尻を拭けない感覚と全裸で常に過ごすという感覚は解放感もあれば不愉快さもあり、人間以外の動物に生まれ変わるのはあまり良いものではないことを思い知らされた。人間も動物も、生きている間は本当の解放感なんて味わうことは出来ないのかもしれない。
解放した先に誰も居ないのなら、自分一人としての世界ならば、真の解放感に包まれることが可能だろう。人目を気にすることも無い、誰かに阻まれることも無い、自分の好きなことを好きなだけ出来る。他人による評価を望まず、己が信念のみを追求する性格の人ならば、それが楽園、理想郷だろう。
生まれて十数年が経って、これで何度目の成人式なのだろうか。そもそも成人の基準とは何なのだろうか。年齢で成人したと認めるには、あまりにも人間は未熟すぎる。人に成ったと認めるだけならばいつでも成人式をすればいい。どの世界でも、どこの国でも、人間はあまりにも醜すぎる。
人が人であるためには数えきれない、目に見えない無数の条件が存在する。規律に秩序、法律、色々な縛りを作らなければ人は人間に追い詰められる。それの代表が戦争だ。領土を奪い、人間を殺し、武器で脅し、相手国の人間を動物以下の存在に格下げする。戦争地域の場所にも生を受けたことがあるが、あれも思えば悲惨なものだった。一人で歩けるときには既に銃を持ち、敵国の兵士だろうと一般人だろうと飢えを凌ぐ為に殺した。血肉や脳みそ、肉片が飛び散る、そんな凄惨な場所に送られた時はさすがに神を呪った。
人が人で存在しようとすることがこんなにも難しいとは思いもしなかった。日本という国に居た時には考えられない現状だった。
そんな動物とも人間とも区別の付けられないような無意味な世界の終りは、思っていた以上に早かった。歩いている時に何かカチッという音がしたと思い、足を上げた瞬間には体が飛び散っていた。即死じゃない分質が悪い。無くなったであろう体の部分から大量に血が流れ出てはすぐに眠くなった。痛みなんてものはもう機能していなかったのだろう。頭に送るための血は地面に吸い込まれて視界は暗転する。痛みを感じなかったにしても、さすがにもう爆散して死ぬのは勘弁だ。分かるかな、あったはずの肩、腕、手、指先を動かそうとしているのに、その神経が断線しているような感覚だ。
人間は人間を己の自己満足の為に殺すことがある。子どもだろうが成人していようがそれは関係なく行われる。己の感情に突き動かされて行動を起こす。さあ、動物と何が違うと言えようか。結局人間は国に飼われている動物と変わらない。動物園は人間が動物を飼育し、それを見世物に人間を呼び収益を得る。国は人間に場所を提供して税金を貰う。旅行なんて言葉は実際には国という動物園の行き来をしているようなものに近いように感じる。
上流階級の人間は貧困地域には目もくれず、己に利益をもたらすものだけを追い求める。本当に苦しんでいる者に手を差し伸べる者など居ないのだ。国境を越えて、己の自己満足の為に他人を救う人間たちも、無償で被災地を訪れて支援を行う者も、これでもかという程支援金をたらふく食べて飲み干しているのだ。個人としては無償だろうが、団体として動く者には金が流れ込む。世界は、人間は、汚い所を上手に隠して生きている。吐き気がするくらい素晴らしく醜い生き物だ。
いくら心の清い者たちが利他主義の精神で他人を救おうとも、何処かでその善意は利己主義の悪意に飲み込まれてしまう。本当に世界は穢れてしまった。
親を殺す、友人を殺す、妻を家族を親戚を、他人を殺す。己の限界を超えた境地に立たされると、人間は人間らしからぬ行動を起こす。いや、これが本当の姿なのかもしれないが、私が思う人間とは程遠いように思う。どのような気持ちになるのか、一度試してみようかと思い、全く知らない人間を襲おうとしたことがあった。だが、その人間の後ろに立った時に色々な思いが脳裏を過ぎった。私がもしこの人間を襲った場合に起こるであろう出来事を逆算していく。殺した後、警察が動く。(完全犯罪もやろうと思えば出来るが、それは今回の知りたい結果とは異なるため、ここはあえて見つかりやすいようにすることが前提条件だ。)私が犯人として捕まる。知人友人、家族が標的にされ、狼のような、ハイエナのような悪趣味をしている他人の行動を知りたがる記者や報道陣が過去を洗いざらい暴こうとする。私の周りの人間は精神的に追い詰められていくことだろう。そして、御馳走のような情報を報道し暴露し人々の視線を自分に集めようと必死になる利己主義的なメディア。私は拘束されて事実と異なることを幾ら述べられようと、反論する余地も場所も与えられない。
生きることにあまり意味を持てない人生が何度も続いているが、生きること自体が危ぶまれるのは後処理が面倒になるからやりたくないのだ。死ねば死後転生出来るが、牢屋に閉じ込められれば単純に時間の無駄になってしまう。
社会も会社も人間もそうだ。どこの世界でも出る杭は戻され、権力の養分を得られる者はどんどん肥大化していく。成長せずただ肥え太るだけで何の意味も成さない。何も成してはくれない。考えずに生きてきた能天気な思考回路をそこで掃き出し、危険を顧みずに、他人を巻き込んでは負の連鎖をもたらす。全てがそういう人間というわけではないが、自己中心的な人間の欲深さは計り知れないのだ。人は人間に食い潰されていく。
特にやりたいことが無かったため、自分以外の人の為に我が身を捧げてみようという思いで生きてみたことがある。親の為、兄弟の為、友人の為、会社の為、困りごとがある人を見過ごさずにどうしたのかと尋ね続けた。何に困っているのか、何をすれば解決するのか、目的は、目標は、達成の為の条件を考えて提案していった。




