9.嵐の前の静けさ
一度部屋に寄って着替えてから執務室へ向かうと、シュワルツ王子は私を待っていたかのように紙束を差し出してきた。そこに書かれている字体を真似するのはもう慣れたものだし、お手本なんてなくても、まるで自分の字と同じように書くことすらできるようになっていた。
「ねえ、これは一体何に使うつもりなの?」
王子以外誰もいないので、私は気兼ねなくエドワードとしての仮面を外した。彼に悪態をつきながらも渡された紙にスラスラと文字を連ねていく。
「あー、誰の文字だか予想はついているのか?」
話し半分に手を動かしながらシュワルツ王子が私に問いかけてくる。質問に質問で返されて少し腹が立ったけれど、こんなことでイライラしていたら彼の下では働けない。こんなことは序の口なのだ。
「そうね、少なくともステンターの関係者ではないでしょう。それと、私や貴方は直接関係していないけれど目を光らせておかなければいけない、または弱みを握ればいいように利用できる相手、ってとこかしら?」
筆跡を真似するなんて、一歩間違えれば法に触れるのだ。それをこの王子がわざわざ私に習得させるというからには、それ相応の価値があるのだろう。思い付いたことをそのまま口に出すとシュワルツ王子は面白そうに口角を上げた。
「後者であれば楽だったんだがな。正解は前者、最も注意すべき敵だ」
「敵、ねぇ?」
全てを見透かしたような物言いに私はしばし考え込む。彼には結末が見えている、ということなんだろう。そしてその結末を迎えるための最善策を実行している。
私にはまだ分からないけれど、確かに彼の中にはその道筋が出来上がっているのだ。
「私、貴方の駒になる気はさらさらないわよ」
「当然。クイーンにはぜひとも自分から働いてもらわないといけないからな」
シュワルツ王子は片手で弄んでいたチェスの駒を私に放ってくる。投げ付けられた黒のクイーンに、私は彼の意図が分からず首を傾げるばかりだった。
たまには運動をしたほうがいいというルシフェルさんの勧めによって、その後の仕事を早めに切り上げさせられた私は、剣を携え、訓練場に向かっていた。アルフレッド団長やエリスに心配をかけたことをきちんと謝らないと。
迷うことなく訓練場に辿り着いた私だったが、その近くから甲高い声が聞こえてきて思わず歩みを止めた。とっさに建物に身を寄せ、顔だけ出してみると、どうやらあのアルミラさんと取り巻きたちが訓練場にやってきているようだった。
取り巻きたちは言わずもがな、アルミラさんもあのときの冷たい態度とは打って変わって、にこやかに騎士団の皆と会話している。
(どれだけ暇なんだ、あの人たち……)
歓声や拍手が微かに聞こえてくる。予想するに、彼女らは良家の生まれであり、王宮に来て未来の理想の嫁ぎ先を探しているのだろう。王家直属の騎士団に所属する彼らは、下級貴族よりも将来高い地位に就くことが多いのだ。
それにしても、いい年をしたご令嬢が男漁りとは、なんとも馬鹿らしい。貴女方が舞踏会で憧れの目で見ているはずのヴィスケリ侯爵令嬢は、嫌みな上司と戦いながら男装して王宮を駆け巡っているというのに。
(あの人たちと比べたら、随分充実した毎日を送れてるはずね)
自嘲ぎみに笑い、少し待とうと訓練場に背を向けた。
そのままぶらぶらと歩いていると馬小屋の近くから、みゃあと鳴く声が聞こえる。興味をそそられ近付いてみると木の箱に白い子猫が入っていた。
「か、かわいい!」
子猫を拾い上げ抱き締めると、ふわふわとして気持ちがよかった。小さな頃から遠乗りを繰り返し、アルと共に森へ繰り出していた私は、動物が好きなのだ。
毛並みに顔を埋める。伝わってくる温もりやつぶらな瞳になんだか癒されたような気がする。
「可愛いなあ……。ねえ、ねこちゃん。君のことは誰かが飼っているの? それとも一人?」
「みゃあー」
「あは、伝わらないか」
思わず子猫に語りかけていた自分が面白くて、ついつい笑ってしまう。
すると、腕の中にいた子猫がするりと抜け出て、私の背後へと走っていってしまった。
「逃げられた……」
ショックを受け、振り返ると、子猫は誰かの足元にじゃれついていた。ミルクの入ったお皿を持った男は、空いている手でわしゃわしゃと子猫の頭を撫でる。見慣れすぎたその行動に、私は一瞬にして彼が誰なのか分かってしまった。
「──団長?」
「あーもうお前は可愛いなぁ。もふもふしててあったかいし、もうほんと……って、エドぉ!?」
「頼むからな、これは内密にだな」
「分かってますってば! 誰にも言いませんから!」
頭を抱えたアルフレッド団長がもう何度目かも分からない懇願を繰り返している。そう、彼は類を見ないほどの動物好きなのだ。犬や猫に始まり、挙げ句の果てには猪、鹿、熊まで。動物を目の前にすると目尻が下がり、本人いわく「みっともない顔」になってしまうそう。
この情けない顔を騎士団の面々に知られてはならないと、彼は必死で動物と関わることを避けていたのだが、偶然こ猫に出会ってしまったそうだ。子猫の可愛さに勝てず、まるで通い妻のように毎日食べ物を持ってきて寝床を整えている、という。
「それに僕も動物好きですし! みっともない顔なんて思いませんよ。むしろそこまでちゃんとお世話できるだなんてカッコいいと思います!」
「でもなぁ~。エドはそう言ってくれるが、皆が皆、そう思うとは限らないじゃねぇかよお……」
──ごめんなさい団長。貴方が大の動物好きだってことは騎士団の皆さん、知っているんです。
初めて食堂で会ったときに、面白半分に「団長の秘密」として話されたのだ。彼自身は秘密にしているらしいが、遠征先で犬と戯れていたり鹿の群れを追いかけていたりする姿がたびたび目撃され、皆の知るところとなってしまったという。騎士団の皆は、「まあ、そこも含めて俺らは団長が大好きっす」と言っていた。
それでも落ち着かない様子の彼に真実を告げる気にはなれず、私は言葉を飲み込んだ。
「あーもう、秘密にしますから! 絶対言いませんって! 誰でも言いたくないことの一つや二つあるなんて分かってます! だからほらもうウジウジしないっ!」
大きく手を叩き、彼を引っ張り上げる。静かになったことだしアルミラさんたちも立ち去っているだろうから訓練場に戻って、皆に手合わせしてもらいたい。
「そうだ。なー、エドぉ」
「ん? なんですか?」
後ろから団長に声をかけられ、振り向いた。団長は似合わないほどひどく真剣な顔で私と目を合わせる。
しかしそれは錯覚だったのか、一瞬にして彼の表情はいつもの笑顔に戻っていた。
「あー、すまん。何言うか忘れちまった!」
「なんなんですか! 気になりますっ!」
わりぃわりぃ、と頭を掻く彼に憤慨しながら訓練場へ向かう。躊躇しているのか、動きの遅い彼を引っ張るためにつかんだ手は、一瞬驚いて手を引いてしまうほど冷たかった。





