第一話 ある日少女は現れて
幸せで残酷な、罪を背負う男と歌を持つ少女の物語――。
いつからだろう。こんな生活をするようになったのは。ふとそんなことを考えてみる。あの日のことを、忘れられるはずもないのに――
朝起きたら近くの小川で顔を洗って、果物と動物を狩り、食べ、あとは寝る。そんななんの変哲もない退屈という感情を忘れた日々を、男は繰り返していた。ひっそりと、心のないロボットのように。ただ生きるためだけに生きていた。
この薄暗い森の中に入るものはいない。男を知るものは誰もいなく、また男自身も森の外には出ようとしなかった。ただただ孤独に過ごしていた。
だがその日々ももうすぐ終わる。このまま過ごし続けて、あの日が来たら自分は消えるのだ。この罪と共に。
そう思っていた。そのために自分はここにいるのだから。
けれど、その思いや続けてきた日常が壊れるのは一瞬のことで。
いつものように過ごしていたある日、変化は訪れる。
一人の来客者が現れた。
それは幼き少女だった。いや、一般的に見れば幼くはないのかもしれない。しかし背が高く、数十年以上も人間と接していなかった男にはその少女は小さく見えた。
少女は透き通った紅色の瞳に男を映すと、驚いたように目を丸くした。
「人がいた……」
それからよかったあぁぁ……と深く息を吐き、ぴょこぴょこと跳ねるように男に近付いてきた。
「すみません! 町への行き方教えてくれませんか?」
迷っちゃって、と困ったように口にする少女。
男は久方ぶりの人間にしばし呆然とし、それから彼女の言葉を反芻させて一言放った。
「知らん」
びくっと彼女が肩を震わす。ふえぇと涙目になった。
けれど男の方も自分の声に戸惑っていた。久しぶりに出したそれは思っていたよりも低く、冷たい響きをしていた。自分はこんな声だっただろうか。
考えている間に少女が足元まで寄ってくる。潤んだ目で見上げられた。
「そんなこと言わないでぇ……教えてくださいぃぃ帰れないんですぅぅ……」
今にも泣き出してしまいそうな表情に男はうっと声を詰まらす。
泣かす気はなかったのだが……今度は男の方が困って頭に手をやった。なるべく声が硬くならないように意識して彼女に言う。
「いや、悪い。ほんとに知らないんだ。俺はずっと、ここで暮らしているから」
「……ここで?」
ピタリと彼女の涙が止まった。男から離れ、キョロキョロと辺りを見渡す。そしてほんとに? という疑惑の目を向けてきた。
男は頷いてみせる。
「ああ。家はこっちだ」
話すより見せた方が納得してもらえるだろう。
男は少女を連れて森の奥へと歩いた。
程なくして木で作られた小さな家が姿を現す。森の中に隠された、こじんまりとした小屋だった。
焚き火の跡や近くに作られた池を目にして理解してくれたのだろう。少女の警戒心が解ける。感嘆の声をあげられた。
「すごい。ほんとにここで暮らしてるんだ」
興味津々といったように小屋を見て回り、男と共に家の中まで入り込んできた。そしてその目に林檎を映すと、ぱっと顔を輝かせた。彼女のお腹が鳴る。
「あ……」
「腹減ってるのか」
「うん……朝森に入ってから何も食べてなくて……」
今は昼過ぎ。なるほど、腹も空くだろう。
男は林檎を一つ手にすると少女に放り投げた。
「ほら」
「え、食べていいの?」
「食いたかったんじゃないのか」
「食べたかった! いただきます!」
豪快にかぶり付く。美味しそうに頬を緩め、もぐもぐと口を動かしながら少女はお礼を口にした。
「……そんなに急いで食べるな。あと、食べながら話すな」
食べたら出て行ってくれよ。そんな思いを抱きながら少女を待つ。
お腹をいっぱいにした彼女は律儀にごちそうさま、と手を合わせた。それから男が何か言う前に好奇心旺盛といった目をして身を乗り出してきた。嫌な予感がして男は目を逸らしたが、気づかれなかったらしい。いや、単に無視しただけなのか。
「ねえ、あなたはここで何してるの?」
「何もしていない。暮らしているだけだ」
「こんなところで独りなんて寂しくないの? 町の方が過ごしやすいよ?」
「俺はこのままでいい」
「なんで?」
「……お前には関係ない」
その答えに少女がむう、と何故か不満げに口を尖らせる。かと思うと、その表情がぱっと明るいものに変化した。
「名前は? わたしはリナリア。あなたの名前教えてよ」
「…………カール」
答えないと出ていきそうにない彼女に、仕方なく男は名を口にする。
少女――リナリアは満足そうに頷いた。
「カールさんだね! これからよろしくね!」
「これから?」
訝しげに訊くと大きく首を縦に振られてしまった。にこにこと無邪気な笑みが向けられる。
「わたしがお友達になってあげるね! また遊びに来るから!」
「は? おい待て!」
勝手なことを言ってどうしてか嬉しそうに駆けていくリナリア。その後を追おうと手を伸ばしたカールだったが、少女の姿はもう見えなくなっていた。諦めて腕を下ろす。
まあ、出て行ってくれたのだから良しとしよう。また来る気しかしないが、その時はその時だ。
しかし。
「友達、ね……」
その響きは久しく聞いてなかった。そんなもの、今の自分には必要ない。いや、自分に友達なんて作る資格などないのだ。
だって俺は――。
ふと視界に薄紅色が入って、カールは顔を上げた。
リナリアが戻ってきていた。上目づかいでこちらを見る彼女に眉を潜める。
まだ何かあるのか……?
しかし彼女は先程とは打って変わって眉をふにゃんと下げながらカールの前まで来ると、弱々しい声を発した。
「うぅ……わたし道に迷ってたんだった……カールさん、一緒に町への出口探してくれない?」
「……ふはっ」
思わずカールは笑ってしまった。
あんなに意気揚々と駆けて行ったのに、自分がどうして目の前の男に声をかけたのか忘れていたのか。
コロコロ変わる表情も面白く感じて肩を震わす。
リナリアはぷくーっと頰を膨らませた。
「あーっ! 笑ったねー!? わたしだって、迷いたくて迷ったわけじゃないもん!」
「ふっ……あー、わかったわかった。そんなに怒るな。落ち込んだり怒ったり忙しいやつだな」
吹き出しそうになるのを堪えながらカールはリナリアの頭をポンポンと撫でる。まだ不機嫌そうに顔を赤くしている彼女を宥め、一緒に森の出口を探してあげることにした。なんだか彼女の表情をもっと見ていたいと思った。
そのうち彼女は機嫌を直し、森の中に潜む動物を見つけて目を輝かせ、純粋無垢な笑顔で話しかけてきた。その顔はやはり見ていて楽しい。カールは気づけば走り回る彼女を目で追い、寄り道に付き合うようになっていた。
足取りは軽いのに対して進まず、視界を上げたときには葉の隙間から橙色の光が零れ落ちていた。
けれどそのタイミングで二人の視界が唐突に開ける。周りを囲んでいた木々はなくなり、緩やかな下り坂が目に入った。道を下ったところには町が見える。ようやく森を出られたらしい。それも運がよく町側だ。リナリアが歓喜の声を上げる。
カールは彼女から町へと視線を巡らせた。
長らく目にしてなかった町はずいぶんと変わっていた。あんなに大きくなっていたのか。
リナリアが振り返る。
「ありがとうカールさん! 夜になる前に帰れそう!」
「それはよかったな」
思ったよりも素っ気ない声が出てしまった。別れの気配を無意識に惜しんでいる自分に気づき、慌てて訂正しようとする。が、その前にリナリアが手を握ってきた。
「はい、これお礼」
言葉と共に手のひらに何か固いものが乗せられる。見るとなんとそれは金貨だった。一般人はめったに手にできない大金だ。
驚くカールにリナリアが今日初めて、陰のある笑みを浮かべる。
「わたしにはもう、必要なくなるものだから。カールさん、いつか町に来て何か欲しいもの買ってね、それじゃ!」
「おい! リナリア!」
ふわりと薄紅色の髪を揺らしてリナリアは去っていく。カールの呼びかけに答えないまま。
だけど途中でふっとこちらを振り返り、腕を上げた。
「また遊びに行くからー!」
明るい声。ぶんぶんと手を振ってくる。カールが応じるように手をひらりとさせると満足して町に戻っていった。
また遊びに行く。その言葉にカールは笑みを零し……ハッとして口元を抑えた。
寂しいと思っていた心が温かくなるのも感じて、複雑な気持ちになる。
こんな感情、忘れたと思っていた。もう抱くまいとしていたのに。
長い年月手放していたものが、一人の少女によっていとも簡単に戻ってきてしまっていた。
町の方向を見て、カールは苦笑する。
「大した奴だな、お前は」
森の中へと戻る。
頑なだった心もいつの間にか砕けてしまっていた。それに気づいたが取り戻す気力もなくて、カールは今日だけはいいかと肩の力を抜く。
あと少しの間だけは、許してほしい。
だってもう、俺には時間が残されていないのだから――。