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アスセーナの聖女

 

「急いで、急ぎなさい!」

「分かってらぁぁあッ!」


 マリアが戦っていることを聞かされた私は屋敷を飛び出していた。

 避難民たちが順調に領主の館へと集まっているのを横目に、馬に乗り続ける。


 誰もが『剣聖』の顔を見て期待に満ちた目をして、次に私を見て驚愕していた。


『領主様ッ!?』


 だけど今の私はそれに答えている暇はない。

 他ならぬマリアが戦っていると言うのだ。私が行かなくてどうする。


「ーーーッ!」

「走れ走れ走れ走れぇぇぇぇぇええぇぇええッ!」


 リディルの叱咤に馬は歓喜するかのように嗎声をあげて駆け抜ける。

 乗り心地が悪くて、視界が揺れて吐き気のこみ上げる私は、必死にリディルにしがみついた。


「振り落とされんじゃねぇぞぉッ!」

「分かってるわよ!」


『剣聖』が参戦すると分かった人々の表情は明るい。

 対照的に、私の心は焦りと不安で満たされていた。


「あいつは強ぇえ。大丈夫だ!信じろ!」

「ーーッ」


 心を見透かされたかのようにリディルに言われて。

 唇を噛み締めた私は必死に前を見た。


 いつか見た細工店を通り、服飾店を通り、怪我をした騎士たちが運ばれて行く。

 風となって駆け抜ける馬の姿に、人々は慌てて道を開けていた。


「お願いッ!どいてッどきなさいーー!」

「門を開けろぉぉぉおおおおおッッ!!」


 一瞬だ。その一瞬に外に出て、マリアを探し出す。

 その決意の叫びに騎士団たちは気圧され、身体を退けるけど、風となった馬はあまりにも速く、叫びが間に合わない者達もいた。


 馬が通ると同時に、ガシャァンッと鉄が擦れるような音が耳に届く。

 一瞬目を向ければ、鉄色の籠をつけた檻から何かの獣が逃げ出していた。


「あ、くそ、待て、待ちやがれーー!」


 その叫びを背に受けて、私が前を向いた時にはすでに城門前だ。

 馬が通れるほどの隙間を開けた門番達は、剣聖と頷きを交わしていた。


「どけどけどけどけぇぇぇぇええ『剣聖』のお通りだぁぁぁああッ!」


 昂ぶったリディルの叫びは耳鳴りがするほど響く。

 私のことを気にせずに叫んだ彼に思うところはあるが、今回は不問だ。

 …いや、やっぱり一発だけ殴る。そう決めて、私は戦場を見やる。


 死屍累々のありようが、アスセーナの街の城門前に広がる。

 目を切られた猛獣が暴れまわり、人間の肋骨が飛び出し、内臓が零れ落ちている。

 死臭と血潮に満ちた戦場には、騎士達の奮戦がありありと見えた。


「領主様、なぜここに!?」


 声が私を呼び止める。そちらに馬首を向けてもらうと、騎士の一人が目を見開いていた。

 彼は私がこの街に来た時に最初に出会った人物だ。

 若い顔立ちを見た私は、しかし真っ先に疑問を投げつける。


「マリアはどこッ!?」

「あの人なら、あの中にッ!」


 彼の隣にいた騎士が、門から離れた場所に剣を向ける。

 そこには、白銀の大狼が鎮座し、猛獣がひしめいた場所があった。

 円を描くように布陣された場所の中に、マリアがいるというのか。


「リディルッ!」

「分かってらぁぁぁ!」


 大熊の腕を切り落とし、大猪の角を叩き潰し、大剣を抜いたリディルが奮戦する。


「騎士団長だッ!騎士団長が来たぞッ!!」

「うぉぉぉぉぉおおおぉぉぉおおおッ!!」


 騎士たちの士気が上がり、熱が戦場に広がって行く。

 残された騎士たちは常の半数といったところか。

 だけど、私には騎士たちの顔は目に入らない。

 それよりも、離れたところにいるマリアの方へ、一歩でも速く。


 猛獣を叩き伏せながら進行するリディルに、今度は獣たちが恐れをなした。

 怯えた目で飛び退きながら道を開けて、それは前方まで伝わる。


「…ッ!」


 白銀の大狼がこちらを向いた。視線だけで殺すかのような鋭さに私の身体に悪寒が走る。

 金色の瞳はどこまでも冷たく、残酷で無慈悲、森の王者たる威容だ。

 けれどその一瞬で、私は見た。確かに見た。


 森の王者に対抗するかのように短剣を握る、一人の女の姿を。


「ーーマリアぁぁぁあああぁぁぁああッ!!」


 喉が裂けるほど声を張り上げる。しかし彼女は振り向かない。

 引き伸ばされて行く一瞬、駿馬の足がやけに遅く感じる。

 急げ、間に合え、もう少しと、焦燥感ばかりが先走る。


 白銀の大狼が足を曲げる。


 風が吹き付ける。身体を打つ冷風に抗い、馬は辿り着いた。


「おい、お嬢サマッ!」


 私は馬が止まるよりも速く飛び降りた。地面を転がり、私はマリアのところへ駆け寄る。


「だめぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇッッ!!」


 転んで、立ち上がって、転んで、立ち上がって。

 泥にまみれた私は、全身から血を流すマリアを突き飛ばし、両手を広げる。


「ーーーーーーッ!」


 白銀の大狼の目が見開いているのが見えた。

 一瞬だけ動きが遅くなる。けれど、振り上げられた爪は止まらなくて。


「ぁ…」


 致命的なまでに抉れた胸から鮮血が迸る。

 強烈な熱と衝撃に身体の力が抜けて、倒れこみそうになるのを堪えて。


「お、じょう、さま…?」


 声が聞こえて。最後にもう一度だけ顔が見たくて。

 血を吐きながら、私は少しだけ後ろを振り返った。


 戸惑いに満ちた目。まあるいエメラルドの瞳が見開かれている。

 全身の咬み傷や切り傷は、並みの騎士にも劣らぬほど夥しい。

 だけど生きてる。彼女が生きていたことが、何よりも嬉しかった。


「ょか、…た」


 私の身体から力が抜けて、崩れ落ちて行く。


「お嬢様ぁぁぁぁぁあああぁぁぁああああああッッ!!!」


 声が耳に溶けて行く。鈴のように軽く、暖かな光のように染み込んで。


 巨大な銀狼に爪で裂かれた私は、マリアに抱き起こされていた。

 まあるい瞳から、ぽろぽろと涙が溢れていく。


「お嬢様、お嬢様、お嬢様、しっかり、しっかりしてください…!」

「ま、り、ぁ…」

「喋らないで、喋らないでください、お願いですから…!」


 あぁ、泣かないで。


 そんな顔をさせてたかったんじゃない。だけど貴方が生きていた事が嬉しくて。

 胸が高鳴って、何も言えない私を、どうか許して欲しい。


「いや、いや、いやですッ!私は、また…ッ」

「ごめん、ね…」


 かろうじてマリアの頬に手を当てる。


 熱くて暖かくて、私はそれだけで、嬉しさが込み上がって来る。

 最後に、どうしても伝えられなかったことを、口にしようとするけれど。


「ま、り……ぁ、……き」

「聞こえません、聞こえません、お嬢様…だれか、だれか助けてぇ…!」


 喉奥から込み上がって来る血に声を遮られて、言葉は届かない。


 …ねぇ、お願い。聞いて。ずっと言いたかったの。私の想いを、聞いて。


「…き…なの…し…る」

「ぃゃあ"…」


 …たった一言なのに、たった一言、伝えるだけなのに。


 それすらも許してくれない死の無情は、私とマリアを引き裂いていく。

 その時、泣き咽ぶマリアの前に、二つの巨軀が立った。


 一つはここ最近で見慣れた顔、『剣聖』リディル・アウストロス。

 一つは私を切り裂いた巨大な銀狼。


 悔しそうに唇を歪めて私を見やったリディルは、巨大な銀狼に視線を移す。

 銀狼は私とマリアを見ろしている。隠しきれない敵意と不理解が金色の瞳に浮かんでいる気がする。


「ぁ…」


 瞼が重たくなってきて、視界が徐々に暗くなっていく。

 マリアがなにかを言っている。けど、聞こえないわ。ねぇ、何を言っているの。

 もっと聞かせて。貴女の声を、貴女が思っていることを、聞かせて欲しい。


 身体から力が抜けて、マリアの頬に当てた手も、降りていく———。


「くぅん…」


 悲しみに溢れた鳴き声が、私の耳朶を揺さぶった。

 ざらざらの舌で頬を舐められている。それに気づいた時、巨大な銀狼が足を踏み出した。

 対するリディルは大剣を抜こうとするけれどーー動かない。


 私の頬を舐めていた正体は腹の上に乗って、目が合う。


「ぁ…」


 それは、アスセーナの街に最初に来る時に見た小さな狼だった。

 金色の瞳と目が合う。星粒の煌めきのような光が、瞼を濡らしていた。

 薄れゆく視界の中で、その光が私の傷口に滴り落ちていく。


「これ…」


 じゅぅぅぅと、音を立てながら、切り裂かれていた傷が消えていく。

 一滴、二滴と、涙が私の傷口に落ちるほど、傷は塞がり、血は止まった。

 いつの間にか、身体中を駆けずり回っていた痛みも消えている。


 暗闇に誘われていた意識は、しっかりと現実を認識している。

 呆然とした私は自分の身体を眺めて、直後に、状況を思い出す。

 まともな言葉を交わせずに、拒絶されて別れた女の子が、私を抱いていてーー


「ぁ、あれ、マリア…?」


 直後に、私は他ならぬマリアに抱きしめられていた。

 首元に顔を埋める彼女からは、嗚咽が漏れている。


「ょ"かった、よ"がった、よがっ、たです…お嬢様ぁ"ぁあ…」

「マリア…」


 マリアの温もりが、冷え切った私の身体を暖めていく。

 涙を流しているマリアが愛おしくて愛おしくて、堪らなくて。

 けれど拒絶された記憶も忘れられずに、私は恐る恐る背中に手を回した。


「ごめん、ごめんね、私の為に戦ってくれて、ありがとう。マリア…」

「そん、な。私も、私もお嬢様に酷いこと…ッ!」

「いいのよ。貴女は悪くない。私が、弱かっただけだから」

「ぐす、ちが、う"ぅ…う"ぅぁぁぁぁぁああん……」


 首を振りながら、感極まったマリアは子供のように泣き出した。

 声を上げて泣いているマリアを見るのはいつぶりだろう。

 懐かしい気持ちになりつつ、私は私を癒してくれた小さな銀狼を見た。


「助けてくれたの?ありがとう」

「ウォンッ!」


 四本足で座り、まっすぐにこちらを見つめて吠えた銀狼に私は微笑む。

 恐る恐る頭に手を伸ばすと、小さな銀狼はくすぐったそうに目を細めていた。


「森の主に助けられたみてぇだな」


 安堵したリディルの呟きを拾って、私は周りを眺めた。

 いつの間にか、街に侵攻しようとしていた猛獣たちは動きを止めている。

 騎士たちもまた、攻撃しようとしない猛獣たちに唖然としていた。


 私は猛獣たちを率いていた巨大な銀狼へと目を移す。

 神々しく艶めく銀色の体毛に、金色の瞳はまっすぐに私を見つめていた。

 文献でしか見たことがなかったけど、これが、森の主。まさしくといった感じだ。

 私を助けてくれた小さな銀狼は森の主の子供といったところか。


「ーー」


 と、目が合った銀狼は、視線を街の方へと移した後、小さな銀狼を見て、次いで私を見た。

 何を言いたいのか掴みかねる私だったけど、小さな銀狼の首筋についてる鎖跡を見て息を呑む。


「そう…助けに来たのね」


 誰かが森の主の子供を捕まえて、アスセーナの街に持ち込もうとしたのだろう。

 思えば、私がマリアを救出に向かう際も、獣を捕らえた檻を見かけた。

 つまりこれは完全に仕組まれたことーー間違いなく、公爵の仕業だ。


「ごめんなさい…私たちの…違う人間の不始末だわ」

「ーー」


 巨大な銀狼は頭を下げた私に頷くように顎を引いて、言葉の続きを待つ。

 一つ間違えば殺されてもおかしくはない。そう分かるほどの威圧感。


「…私たちが不始末をつける。貴方の子供を狙った敵には心当たりがあるわ。そいつをどうにかして…もう貴方達の家族には手を出さないように誓わせる。償いになるか分からないけど…」


 失ったものは戻らない。私たちも、猛獣達も、多くが傷ついた。

 けれどこれ以上被害を出さなくていい。第三者の悪意には相応に報いをくれてやる。

 言葉を切った私に、森の主は頷かずに、尻尾を振りながら森の方へと歩いていく。


 小さな銀狼もまた、私の手に甘噛みをくれた後、親の背中を追って歩いていた。

 猛獣の波はゆっくりと動き出し、森の主に従って古き森へと帰っていく。


「おぉ…ッ!」


 状況を見守るしか出来なかった騎士達は歓喜の声を上げる。

 生き残ったことに喜び、抱きしめあい、負傷者を運び出した。


「行こうぜ。お嬢サマ。そいつは…」

「寝ちゃってるみたい。私が運ぶわ」


 泣き疲れたのか、意識を失ったのか。ともあれ、マリアの傷は浅くはない。

 体重を感じさせないマリアを抱きかかえつつ、私はリディルが連れてきた馬に乗り込む。

 いつの間にか雨は止んでおり、雲の切れ間から光が差し込んできた。


「空はこんなに、蒼かったのね」


 ランプがついた灯りでもなく、豪奢な天井でもなく。

 澄み渡る空は地平線が続く限りどこまでも続いていて。

 眠っているマリアに語りかけた私は、頬を緩めながら馬で進んでいく。


「ーーーーーーーーッ!」


 溢れんばかり歓喜の声が、城壁から放たれた。

 見上げればいつの間にか城壁の上に領民や騎士や商人達がいて、街の無事を喜んでいる。


「彼らは…」

「領主様が向かわれたと聞いて、居ても立っても居られなかった者達ですよ」


 呟きに、騎士の一人がそう言って誇らしげに鼻を掻く。

 怒ればいいのか、喜んでいいのか分からない私は言葉が継げず、その一瞬で。


「アスセーナの聖女、イリス・オルタミア様、万歳ーーーー!」

「ーー聖女!?」


 聞き逃せないことを耳に捉えた私は目を見開く。

 何もしていないはずなのに、どうしてそのようなことを言われなければならないのか。

 むしろ、猛獣達の真っ只中を突っ切ったマリアこそ讃えられるべきだろう。


「贅の限りを尽くしていた財務長官を追放し、アスセーナの街に唯一の商会を立ち上げ、『剣聖』と呼ばれた男を騎士団長にして荒れ果てていた街を復興しさせ、滅びゆくアスセーナを救いました」


 私の戸惑いをよそに、衛兵は誇らしげに胸を張り、尊敬の眼差しを向けてきた。


「初めて会った時は、本当に申し訳ありませんでした。領主様」

「それは、別にいいのだけど…聖女って」

「いいじゃねぇか。むしろ、俺たちにとっちゃ都合がいいだろ」


 リディルはそう言って顎をしゃくる。そこには、万雷の歓声をあげる民衆達がいた。


『聖女様、万歳!』聖女様、万歳!』聖女様、万歳!』聖女様、万歳!』


 皆が私たちの帰還を喜んで迎えてくれる。

 生きる歓びを分かち合い、抱き合い、人々の表情は笑顔で満ち溢れていた。


「…ま、それもそうね」


 聖女という柄ではないし、気恥ずかしい限りだが、これはこれでいい。

 街の傷は浅くなく、やらなければならないことがてんこ盛りだけれど。


「ぉじょ…さまぁ…むにゃぁ…」


 最も大切な人を喪わずに済んだのだから、ひとまず、良かった。



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