マリア
「どうして…」
私のつぶやきに、お嬢様は答えてはくれませんでした。
居なくなった室内、呆然としていた私は、持っていた絵を元の場所にしまいます。
何がどうかは分かりません。この絵が、お嬢様と私が描かれていた意味も、分かりません。
けれどそれは他人には見せられないものだということは分かります。
厳重に封印をして、お嬢様の後を追いかけようとした私は、気づきます。
「これは…」
それは、お嬢様が落としていかれたものでした。
先ほどまで私が見ていた卑猥な絵と同じ封筒が使われています。
いけないことなのでしょう。けれど私は自然とそれを手にとっていました。
お嬢様の言葉が本当かどうか分かると思ったのです。
しゅるる…と紐を解いて、封筒の中身を見ると、そこには。
「ぁ…」
ーー本当でした。
そこには、私とお嬢様が手を取り合って街中を走っている絵がありました。
どの場面をモデルにして描かれたのかは、考えるまでもありません。
手を手を取り合い、絵の中のお嬢様は幸せそうな笑みを浮かべています。
それを見た私の瞼から、涙が溢れてきます。
「私、私、なんてことを…」
お嬢様を傷つけてしまった。その罪悪感が、胸を締め付けました。
なんでと、どうしてと、問いかける前に、お嬢様を信じてお守りするのが私の努めなのに。
最後に去っていた時の泣き顔が、目に焼き付いて離れませんでした。
あんな顔をさせてしまった自分が、本当に憎たらしいです。
「追いかけないと…!」
疑問も疑念も、その幸せな絵の前には無力でした。
胸が苦しいです。その絵を見ていると、切なくなります。
居なくなってしまったお嬢様を追いかけて、私は屋敷を飛び出しました。
「ハァ、ハァ…」
息を切らして走っていると、これまでの記憶が呼び起こされて来ました。
お嬢様と私の始まりは、私が七歳の時でした。
「はじめまして。マリアともうします」
「…はじめまして。よろしくね」
初めて出逢った時、消えてしまいそうな儚げな人だと思いました。
七歳になり、それまで行儀作法を覚えこまされた私はお嬢様に対面したのです。
陽の光と同じ髪で、透明感のある透き通った瞳、人形のように整った顔立ち。
その全てがお嬢様の儚さを加速させ、掴んでいないと消えてしまいそうでした。
「ねぇ、遊びましょう?」
「だめです。イリスさま。私はメイドで…」
「いいじゃない。ここにはウテナもいないわ」
悪戯に微笑まれて、母がいない事を確認した私は心動かされました。
正直言って、メイドの仕事は退屈で、遊びたい盛りだったのです。
「し、仕方ないですね。イリスさまがおっしゃるのなら…」
「えぇ。私が言ったのよ。誰も文句は言わないでしょう」
責任をなすりつける発言をした私をお嬢様は笑って許してくださいました。
その嬉しそうな笑みを見て、私は初めてお嬢様が年下の女の子である事を理解したのです。
お人形遊びをしました。本を読みました。本を聞かせてもらいました。
絵を描いて遊んだり、一緒に勉強して、一緒にお布団で寝たりもしました。
不敬だったかもしれませんが、私は嬉しかったのです。
幼い頃からメイドとして教育を受けてきた私は、同世代の子供と遊ぶこともありませんでしたから。それはお嬢様も同じだったのでしょう。私たちが仲良くなるのは時間の問題でした。
「マリア、私たち、友達になりましょう?」
「ともだち、ですか…?」
「そうよ。ここまで一緒に遊んだんだもの。いいでしょう?」
正直に言って、この時の私はお嬢様の言葉を受け入れられませんでした。
母はことあるごとに、メイドとしての分別と主従の線を引けと言っていたからです。
けれど、幼い私はそれに反骨心を抱いてもいました。
お嬢様の言っていた通り、ここまで一緒に遊んだのです。今更というものでしょう?
それに、友達がいなかった私にとってお嬢様と一緒に居られる時間は楽しかったのです。
言い訳になりますが、お嬢様に潤んだ瞳で上目遣いで見られたら、誰が断れるでしょうか。
「二人だけの時、なら…」
「本当!?嬉しいわっ!」
だから私は条件付きで、お嬢様の言葉に頷いていました。
嬉しそうに微笑んだお嬢様には、初対面の時のような空気はありませんでした。
「ねぇマリア。お外はどんなところなのかしら?」
けれど、こうして外へ目を向けた時に限って、その儚さが顔を出すのです。
目を離せばどこか遠くに行ってしまいそうになる雰囲気に、私は息を詰めます。
「それは…」
「行って見たいわ…」
お嬢様は生まれてからこのかた、平民の街に降りたことがありませんでした。
王城に閉じ込められ、舞踏会や勉強会に日々を費やし、遊びなどーー私と遊ぶくらいしか。
この生き方はまるで鳥かごのようだと、お嬢様は常々におっしゃっていました。
外を見つめる時の瞳はどこまでも憧れと羨望で溢れていて。
その有様が痛々しくて、私はなんとかしてあげたいと思ったのです。
「内緒、ですよ…?」
私はお嬢様を連れ出して、こっそりと王城を抜け出しました。
衛兵や使用人たちに見つからずに済んだのは、今思うと奇跡ですね。
「わぁ…!」
お嬢様はきらきらとした目で、感嘆の息を漏らしました。
胸の前に手を組んで周りを見渡すそれは、田舎から出てきた生娘のように無邪気です。
「お嬢様、これがお金で、これを、こうして…」
私は得意げになって、外の世界の先輩としてお嬢様を導こうとしました。
今に思うと恥ずかしい限りではありますが、この時の私はどうかしていたのです。
屋台や噴水広場、高台など、お嬢様を連れ回していた私は気づけませんでした。
「おい、何してやがんだ。餓鬼」
「ぇ、ぁ…」
この世には、綺麗だけでは済まない事もあることに。
食べ物を持って歩いていた時でした。私の不注意で、前方の男にそれがぶちまけられたのです。後から調べたことではありますが、その男は豪商の息子で、当時まだ戦争の影響が色濃く残っていた商会の中で影響力がある人物でした。
「ご、ごめんなさい…!」
「謝って済むなら騎士団はいらないんだよ。この服、どうしてくれる」
「ぁ、その…」
その男の純白の服には私が持っていた食べ物がへばりついています。
きっと、洗濯をしても簡単には取れないでしょう。シミになること請け合いですよ。
慌てた私はなんとかしようと考えを巡らすよりも、大の男に恐喝される恐怖で萎縮していました。
「やめなさい。その服は弁償するわ。それでいいでしょう」
そこに、お嬢様が割って入ってきたのです。
毅然とした様子で男に立ちふさがるお嬢様は胸を張りました。
「私はイリス・オルタミア=エルヴァン。この国の第一王女よ!」
「…王女、だと?」
目を見開いて、豪商の息子はお嬢様の身体を上から下まで眺めます。
舐めるような視線は徐々に驚きに染められて、お嬢様は胸を下ろして。
「こんなところに王族がいるわけがねぇだろ。ふざけんじゃねぇぞ。餓鬼が」
「ぇ…?」
豪商の息子は、全く信じようとはしませんでした。
唇をふるわせて、事態を飲み込めないお嬢様に取り合わず、男は私を引っ張ろうとします。
「いや、やめて、やめてください!」
「やめなさい!私は王族よ!その子に手を出せばどうなるか分かってるの!?」
「てめぇらこそ、王族の名前を騙ってどうなるのか分かってるのか?」
その言葉にお嬢様と私は息を詰めました。
王城を抜け出してきたことは誰にも言っていない秘密。
それを知られれば、どうなるか分かったものではありません。
しかも、私たちは商人の娘のような服装に身をやつしていたのです。
「この服の落とし前はつけてもらう。お前、来いっ!」
「いや、いやです、やめて、助けて、助けてぇぇぇ!」
助けを求めても誰も来ませんでした。戦争の影響が抜けきらず、未だ雰囲気がぎすぎすとしている王都では、村娘が襲われることなどざらにあったのでしょう。
腕を引っ張られて、呻く私を男は強引に引っ張ろうとします。
痛くて、怖くて、腰が抜けて、私は嫌なのに、動くことができませんでした。
「マリアを、離しなさいっ!がぷっ!」
「ーー痛っ!?この、餓鬼ぃっ!」
腕を引っ張っても拉致があかないことを見て取ったお嬢様は豪商の息子に噛み付きました。
ただ一人、私を助けようと動いたのです。思いっきり噛まれて、痛みに目を剥いた男はお嬢様を突き飛ばしました。
「きゃッ!」
「やってくれたな、お前ッ!俺に楯突いたらどうなるのか、教えてやるッ!」
男は突き飛ばしたお嬢様に向けて腰に差していた剣を抜きました。
銀色の艶めきが恐怖を呼び起こし、私もお嬢様も動けません。
「傷モノにするにゃ惜しいが、言うこと聞かせるためだ、しょうがねぇよなぁ?」
「や、やめて…」
下卑た目を浮かべた男に私は首を振り、男は私を一瞥しました。
それに標的を変えたと見て取ったのかお嬢様は私の前に盾になるように立ちます。
「美しい友情じゃねぇか、なぁ?ぉい!」
「あ"ぁぁぁぁああああッッ!!」
舌なめずりをした男がお嬢様に向けて剣を振るい、胸に傷を入れました。
力なく倒れていくお嬢様から飛び散った鮮血が私にもかかりました。
「いや、いや、お嬢様…!」
「はっははは!!これから、たっぷり言うこと聞かせて…」
「居ました!あそこです!」
「おい、何をしている!?」
男が笑った直後、広場の向こう側から衛兵が飛び出して来ました。
その先頭には、私の母の姿があり、衛兵たちは男を取り囲みました。
「な、なんだ…餓鬼一人に…まさか、本当に…!?」
男はお嬢様の正体を知り愕然としました。それが、その男を見た最後の表情です。
倒れ伏したお嬢様はすぐさま医者のところへと連れていかれて、幸い、軽い切り傷で済みました。
気絶して居たのは、あまりの恐怖とショックで心が耐えられなかったのだろうと。
もちろん私はこっぴどく、えぇ、それはもうこっぴどく怒られました。
人生の中で、あれほど怒られたことは、振り返って見てもないでしょう。
一時はお嬢様のそばに近づくことを禁止されかけましたし、処刑した方がいいとの声も出ましたが、お嬢様の嘆願によりそれは無くなりました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、イリスさま、わたし…」
「いいのよ、マリア、私が勝手にやっただけなんだから」
「お嬢様、私、なんで、どうして…!」
使用人といっても、私の身分は平民で、お嬢様のような王族とは住む世界が違います。
本来なら見捨てて逃げてくれても良かったはずです。
実際、貴族の中にはメイドを道具として扱う人間も少なくありません。
それなのにどうしてと。問いかけた私に、お嬢様は薄く微笑みを浮かべました。
「私は貴女のご主人様なのよ。助けるのは当たり前じゃない。それに…貴女は、私の初めて出来た、大切なお友達だもの」
「お、じょうさまぁ…!」
私はわんわんと泣き散らかしました。
お嬢様は私の頭をずっと優しく撫でてくれて、慰めてくれました。
私は、その時に悟ったのです。
お嬢様と仲良くしようと思ったのが、間違いだったのだと。
メイドであることこそが、この人について行ける唯一の手段なのだと。
嫌だった武術も、行儀作法も、全て真剣になりました。
これからどんなことがあってもお嬢様のメイドでいられるように。
お嬢様を信じ、守り、お嬢様にお仕えするために生きていけるように。
この時から、私は決めていたのです。
一生かかっても返しきれない恩かもしれないけれど、この方についていこうと。
お嬢様のメイドであり続ける為に、あらゆる努力は惜しまないと。
———決めて、いたのに。




