第一章 第五話 マリアの虎の穴
【前回までのあらすじ】
四年前、十四歳のマリアは皇后テオドラに直談判し、「ルクタ・フェミナ」の全面的な支援を取り付けることに成功する。
しかし、テオドラがプロレス興行を「民衆の目を政治から逸らすための独裁の道具」として冷徹に利用していることを知り、マリアは戦慄する。
今から、三年前……
「……だめよ!胸張って!
相手の攻撃に怯むことなく立ち向かう姿勢が重要なのよ!」
黒髪をポニーテールに結い上げ、汗だくになりながら叫ぶ。
プロレスラーになるためには、気が遠くなるような血と汗の滲むトレーニングが必要だ。
前世の道場では、来る日も来る日もヒンドゥースクワット千回、プッシュアップ数百回、そして首を鍛えるためのブリッジを限界まで繰り返した。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、乳酸で体が動かなくなる恐怖。
それを乗り越えた者だけが、過酷な「プロテスト」のリングに立つことを許される。
プロテストとは単なる技術の試験じゃない。
「何があっても立ち上がる不屈の精神」があるかどうかを、先輩レスラーたちの厳しい目で見極められる神聖な儀式なのだ。
せっかく高貴な身分に生まれ変わって、贅沢な白い小麦のパンやお肉を食べられる幸せな環境にいるのに、私はじっとしていられなかった。
この世界には、闘技場で血を流し、命を奪い合う残酷な剣闘士の歴史の残滓があった。
だけど、命を奪わない神の信仰が広がりつつあり、時代が後押しをしてくれた。
「命を獲るのではない、観客のハートを獲る新しい闘技・劇が必要だわ!」
前世のオタク知識とレスラー経験のすべてを注ぎ込み、私は「ルクタ・フェミナ(女子プロレス)」という奇跡の興行をこの世界に普及させていったのだ。
「いい?
みんな、よく聞きなさい!
四角いジャングルの四隅にある、あの赤と青のコーナー。
あれはね、ただの色分けじゃないのよ!」
私は十四歳の時、最高の理解者である皇后テオドラ様からの支援を取り付けることに成功した。
そして、私たちが立ち上げたサーカス(ユニット)である「祝祭」のグラディアトリクス養成所――「ルドゥス」で、未来のスター候補生たちを前に熱弁を振らっていた。
「古代の戦車競走が行われる巨大な競技場ヒッポドロームでも、青党と緑党という派閥が激しくぶつかり合っているわよね。
プロレスの赤と青のコーナーも同じ。
情熱と闘志を燃やす赤コーナー、冷静沈着に相手をコントロールする青コーナー。
この対比こそが、観客を熱狂させるドラマの起点になるの!」
ロマニア帝国の歴史において、肉体闘技の源流にはパンクラチオンという、打撃と関節技が入り乱れる過酷な格闘技が存在する。
そこに私は少しずつ、前世の知識で得た総合格闘技の打撃やサブミッション(関節技)、プロレスの派手な投げ技を教えていった。
だけど、ルクタ・フェミナが目指すのは、単なる強さの証明じゃない。
これらすべての格闘技術を網羅した上で、女子プロレスに最も重要なこと。
それこそが『受けの美学』なのだ。
「相手の得意技を、逃げずに真正面から肉体で受け止める!
バチーンと胸元に響く逆水平を食らっても、歯を食いしばって胸を張る!
その絶望的なピンチから立ち上がる姿に、観客は自分の人生を投影し、涙を流して応援してくれるのよ!」
「さあ、おしゃべりはここまで!
まずは基本の受け身からいくわよ!
ドーンとマットに背中を叩きつけて、顎をしっかり引く!
はい、ワン、ツー、スリー!」
私は手取り足取り、少女たちの肉体を鍛え上げていく。
だが、プロレスはリングの上の戦いだけで完結するものではない。
その熱狂を言葉で何倍にも増幅させる「実戦の語り部」が必要だ。
私は、皇帝が管理する養成機関から選りすぐりの実況・解説者を呼び寄せ、徹底的に叩き込んだ。
「キケロ!
貴方の実況は正確だが真面目すぎるわ!
もっと目の前の攻防を『これは魂の弾丸トラベラーだ!』みたいに、リズミカルでアテンション・スパンに響く高密度な言葉で捲し立てなさい!」
「スパル!
貴方はもっとエモーショナルに、まるでお母さんが我が子を心配するような温かさと興奮を持って、『マリアがんばれ!負けるな!』と絶叫するテイストを混ぜるのよ!」
「そして、マルコ!
貴方は言葉の魔術師になりなさい。
ただのロックアップを『きらめく銀河のランデブー、肉体と肉体が織りなす万華鏡の如き攻防!』と表現して、闘いを神話的体験にまで昇華させるの!」
彼らは私の熱血指導に目を白黒させながらも、ノートにびっしりとプロレス実況の極意を書き留めていく。
さらに、試合の「格」を守る上で最も重要なのがレフェリーの存在だ。
私は前世で尊敬していた伝説の名レフェリーたちのイメージを必死に思い出しながら、指導を行った。
ある時は、どんな激しい肉体衝突も厳格にカウントし、毅然とした態度で試合を引き締める、誠実でタフなレフェリーのスタイル。
またある時は、悪役ユニットと結託してわざと凶器攻撃を見逃し、会場のブーイングを一手に浴びてベビーフェイス(善玉)の魅力を限界突破させる、極悪レフェリーのスタイル。
「バル!
貴方はどれだけ荒れた試合でも、厳格な毅然とした態度を崩しちゃダメ。
カウントの瞬間は、力強く、誰もが納得する説得力を持ってマットを叩くのよ!」
「逆にクィン!
貴方は悪役ユニットが反則行為を始めたら、わざとらしく他の選手に気を取られて見逃すような、あの絶妙な『お約束』のサスペンスを演じきりなさい。
会場から大ブーイングを浴びて初めて、一人前のレフェリーよ!」
こうして、リングの上の闘士、言葉の魔術師、そして試合を司る審判まで、プロレスというエンターテインメントのすべてが、この「虎の穴」で同時に育成されていったのである。
「ふぅ……今日もいい汗をかいたわね」
訓練を終え、養成所の裏手にあるテラスで、私は特製のおやつを口に運んでいた。
それは、大好物の「パステリ」。
蜂蜜の速効性エネルギーと胡麻の持続的な脂質が絶妙に組み合わさった、前世のプロテインバーにも勝る理想的なスタミナフードだ。
それを、甘酸っぱい、疲労回復に抜群の「ポスカ」で流し込む。
ゴクゴク、ぷはぁーっ!
細胞の隅々にまで栄養が染み渡っていくのがわかる。
ふと見渡せば、夕暮れ時のコンスタンティノープルの街並みが、美しい茜色に染まっていた。
遠くからは、東西交易の結節点として栄えるメーゼ通りの賑わいや、ボスポラス海峡から吹いてくる心地よい潮風が香る。
振り返れば、養成所のマットの上では、バステトやデーメーテールといった「祝祭」の仲間たちが、未だに熱心に技の研究に励んでいる姿が見えた。
時には喧嘩もするし、ファイティングスタイルの違いでぶつかり合うこともあるけれど、彼女たちの目には、私が伝えた「プロレスの光」が確かに灯っている。
「最高。
本当に、毎日が楽しすぎるわ」
前世では観客席から見上げることしかできなかった、あるいは新人として這いつくばることしかできなかったプロレスの世界。
それを今、私はこの手で、ゼロから作り上げている。
名門貴族としての社会的地位や権力を利用して、女の子たちが命を落とさずに輝ける場所を守る。
大衆が私たちのプロレスを「推し」、熱狂してくれることで、この歪な社会のパワーバランスさえも変えることができるのかも知れない……
今の私には、共に汗を流した最強のサーカスの絆がある。
そして、どんなに激しい攻撃を受けても、カウント二・九で必ず肩を上げる『不屈の精神』を学んだ肉体がある。
私は、沈みゆく夕日を眺めながら、心地よい疲労と満足感に浸っていた……
【次回予告】
マリアが提唱する「ルクタ・フェミナ」やコスモロジーコロッセオとは?
女子プロレスラーステータスを見ることができるチート能力に加え、その設立経緯が明かされる。
次回、第二章 第一話「女子プロレス『ルクタ・フェミナ』」
流転する運命と、不変の矜持。
時代が移ろおうとも、彼女が刻む足跡だけは、誰にも消させはしない。
不滅のゴングまで、あと……




