第三章 第五話 ブルーブラッド
【前回までのあらすじ】
ニカの乱は正規軍によって無慈悲に鎮圧され、帝都の半分が灰塵に帰した。
そして、大衆に祭り上げられただけの最愛のフィアンセ・ヒパティウスは、反逆の首謀者として死刑を宣告されてしまう。
帝都コンスタンティノープルを焼き尽くした史上最大の暴動「ニカの乱」。
私の愛するヒパティウス様は、ユスティニアヌス皇帝への不満を爆発させた群衆によって、本人の意思とは無関係に「次期皇帝」として祭り上げられてしまったのである。
私は彼の体に必死にしがみつき、泣き叫んだが、暴虐の嵐の前に力ずくで引き離されてしまった。
結果、乱は正規軍によって無慈悲に鎮圧された。
約三万人もの命が競技場で泥のように押し潰され、帝都の半分が灰燼に帰した。
そして、私のフィアンセであるヒパティウス様は、反逆の首謀者として死刑を宣告されてしまったのだ。
「これで、伝統ある名門派閥は完全に終わりだとでも言うの……!?」
ニカの乱が鎮圧された後の帝都は、まるで重苦しい鉄のカーテンが下りたかのようだった。
農民出身の成り上がりであるユスティニアヌス皇帝と、元舞台女優のテオドラ皇后は、この危機を「絶対的な独裁権力」を確立するための絶好のチャンスとして利用したのだ。
二人は大衆の目をそらすために大衆迎合主義を加速させ、邪魔な名門貴族の粛清へと一気に舵を切った。
その粛清の刃が、ついに私の最大の支援者へと向けられる。
アニキア・ユリアナ様。
五十六歳になられる彼女は、西ローマ皇帝を父に持ち、その家系をテオドシウス大帝やコンスタンティヌス大帝にまで遡ることができる、ローマ正統貴族の「青血」の象徴だ。
農民出身のユスティニアヌス一家にとって、彼女の存在そのものが、超えられない格式の壁であり、最大の目の上のタンコブだったのである。
皇帝は、ニカの乱への関与をでっち上げ、ユリアナ様の莫大な財産を没収しようと国庫への献金を迫った。
現代のプロレス風に言えば、悪徳プロモーターが王座の権威をカサに着て、インディー団体の至宝を強奪しようとする、最悪の権力闘争の横暴である。
だが、そこは百戦錬磨のブルーブラッド。
ユリアナ様はただ大人しくマットに沈むようなタフマッチを演じたりはしなかった。
「時間を稼ぎなさい。
我が家の誇りを、あの強欲な豚飼いの甥に渡してなるものですか」
ユリアナ様は皇帝の要求に対し、「財産を目録にまとめる時間が欲しい」と優雅に微笑んで時間稼ぎを敢行。
その裏で、邸宅に眠るすべての金貨を集め、なんと鋳潰させて金板へと変えさせたのだ。
そして、それらをすべて、自身が建立した教会の屋根を飾る装飾として貼り付けさせてしまったのである。
数日後、何も知らない皇帝を教会へ招いたユリアナ様は、神々しく輝く黄金の屋根を指差し、毅然と言い放った。
「私の財産はすべてこの通り神に捧げられました。
お好きなようになさい」
これには皇帝も、完全に一本取られた形となった。
ここで財産を剥ぎ取れば、皇帝自身が「神への不敬を働く強欲者」として衆目に晒されてしまう。
まさに、相手の必殺技をスカし、逆に自滅に追い込む極上の切り返し。
気高く、機知に富んだブルーブラッドの執念のカウンターであった。
しかし、いくら財産を守り抜いたとはいえ、独裁の嵐の中で受けた精神的・肉体的消耗は計り知れない。
ユリアナ様はその後、激しい心労から体調不良を訴え、大邸宅の奥にある豪華なベッドに寝込んでしまった。
部屋の窓からは、ボスポラス海峡を望む美しい景色が見えるが、室内の空気はひどく沈んでいる。
私はユリアナ様の娘であるガラと共に、彼女の寝室へと見舞いに訪れていた。
ガラは当時のトップエリート層から最も婚姻を望まれるほどの美貌の持ち主だが、今はその白い顔を涙で濡らしている。
ポンペイウスの妻マグナも、旧勢力の社交界の中心として心を痛めていた。
「マリア……
ヒパティウス殿の処刑が、正式に決まってしまったのね……」
ベッドの上で上体を起こしたユリアナ様が、枯れ木のような手で私の手を優しく包み込んだ。
その瞳には、かつてソロモン王に匹敵すると称えられた知恵の光が、微かに、だが確かに灯っている。
「可哀想に、マリア。
あなたがどれほどあの人を愛し、必死に群衆から守ろうとしていたか、私は知っています。
けれど、今のロマニアは狂っているわ。正統なる血筋が踏みにじられようとしている」
「ユリアナ様……」
「でもね、マリア。
私たちはブルーブラッド。
誇り高き青い血の守護者です。
たとえ肉体が滅びようとも、その魂の闘い――
いいえ、貴族の矜持だけは、あの新興の貪欲な悪魔たちに屈してはなりません。
私とガラは、いつだってあなたの味方です」
ガラの細い手が、私の肩にそっと置かれる。
「マリア様、
お母様の言う通りです。
伝統ある私たちの家系を、ここで完全に終わらせるわけにはまいりませんわ。
何としても、ブルーブラッドの再興を……!」
二人の温かい言葉が、私の冷え切った心にじわりと染み込んでいく。
ここで諦めてタオルを投げ入れるわけにはいかない。
前世のプ女子の魂が、そして今世のフラウィア・マリアの愛が、私の胸の奥でゴゴゴゴゴ……と音を立てて燃え上がり始めていた。
自宅に戻った私は、フィアンセの奪還とブルーブラッド再興のために、どのような戦略を組み立てるべきか思案に暮れていた。
現状の戦力分析をしてみよう。
相手は国家権力を握るユスティニアヌス皇帝と、冷酷で復讐心に満ちたテオドラ皇后という、絶対王者の最凶ヒールユニット。
対するこちらは、婚約者を人質に取られ、支援者も寝込んでいる没落寸前の伝統派貴族。
普通に考えれば、ゴングが鳴る前に勝負がついているレベルの絶望的な実力差だ。
政治の土俵で戦っても、こちらの身体が切り刻まれて終わるだけ。
司法決闘を挑むにしても、相手には去勢奴隷から軍の最高司令官にまで上り詰めた、あのチート級の将軍ナルセスがいる。
「何か、合法的に……
いや、大衆を巻き込んで、この最悪のバッドエンドを引っくり返すウルトラCの返し技はないの!?」
頭を抱えていたその時、私の元に宮廷の動向に詳しい隠密からの情報が飛び込んできた。
なんと、皇帝と皇后は、ニカの乱を契機に一気に集中させた権力を民衆に誇示するため、ある大規模な興行を計画しているというのだ。
その名も、貴族代理戦争「花の戦争」。
驚いたことに、そのベースとなっているのは、私が普及させた「ルクタ・フェミナ」だったのだ!
テオドラ皇后は、大衆が熱狂するこの女子プロレスのシステムを改良し、各貴族が所有する「サーカス(ユニット)」同士を激突させるポイント制のトーナメントを立ち上げるらしい。
「勝って大衆からの支持が得られれば、貴族の階級や領土などを変えることができる……!?
強さのみならず、推しの多さや興行的な成功が必要とされるポイントシステム……」
書類を読み進める私の手が、興奮でブルブルと震える。
これだ。これしかない!
これこそが、ルール無用の独裁国家において、唯一残された「逆転のリング」だ!
皇后の狙いは明白。
この「パンとサーカス」を提供することで民衆のガス抜きをし、同時に自分たちの飼い犬とする新興勢力のサーカスの勝利をもって、私たち伝統的名門派閥「ブルーブラッド」の息の根を止めようとしているのだ!
そして何より恐ろしいのは、その「花の戦争」の開催宣言を行う式典の場で、見せしめとして私のフィアンセ・ヒパティウス様の処刑を執行しようとしていることだった!
「ふざけないでよ……!
私の愛する男を、そんな政治的デモンストレーションの生贄にされてたまるもんですか!」
逆に、もし私が「花の戦争」で勝ち抜けたなら?
大衆の圧倒的な「推し」のパワーを味方につければ、いかに絶対権力者である皇帝夫妻といえども、その声を無視して処刑を強行することはできなくなるはずだ。
プロレスとは、闘いでありながら、同時に壮大な人間関係のドラマだ。
どん底の没落貴族の娘が、愛する人の命を救うために髪を振り乱してリングで戦う――これほど、観客の感情移入を誘うエモーショナルな物語性が他にあるだろうか!?
「やってやるわ……!テオドラ皇后、
あなたがその歪んだ社会の象徴として『花の戦争』を用意したのなら、私はそのシステムを丸ごとハックして、最高のハッピーエンドを奪い取ってみせる!」
私は自室の鏡の前に立ち、己の姿をじっと見つめた。
手は自然と、クローゼットの奥に隠されていた私の「ソーラ・シュリンガル」に手を伸ばした。
鏡の中の私は、もうただ泣き叫ぶだけの無力な令嬢ではない。
鏡の奥には、凛とした闘志を宿した、一人のプロレスラーの顔があった。
「待っていて、ヒパティウス様。
あなたを助け出してみせる!」
伝統的名門派閥の意地、ブルーブラッドの誇り、そして何よりも私の狂おしいほどのプロレス愛を、この「花の戦争」という名の四角いジャングルに叩きつけてやるわ!
「さあ、運命のゴングを鳴らしなさい!
私の青の輝き、特等席でたっぷりと拝ませてあげるんだから!」
マリアの、魂をかけた命がけの戦いが、今始まるのだ!
【次回予告】
収容人数五万人のコスモロジーコロッセオが、異例の熱気に包まれる。
各貴族が所有する強力なサーカス(ユニット)が集結し、名誉と全てを賭けた「花の戦争」の開幕が宣言される。
しかし、その華々しい式典の場で、見せしめとしてヒパティウスの処刑が執行されようとしていた。
マリアはマントを脱ぎ捨て、単身リングへと大乱入する。
次回、第四章 第一話「貴族代理戦争『花の戦争』」
沈黙する神々と、絶叫する少女。
神託を否定し、己の力で明日を掴み取る。その気高さは、天界さえも揺るがす光。
逆襲のゴングまで、あと……




