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プロローグ プ女子レスラー、転生する

 

 マットが背中を叩く鈍い衝撃。

 皮膚を焦がすような会場の熱気。

 鼓膜を震わせる大歓声。


 これよ、これこれ。

 これこそが私の生きていた証であり、魂の故郷。

 前世の私は、寝ても覚めても女子プロレスのことばかり考えている、いわゆる重度の「プ女子」だった。


 高校時代はバイト代のすべてをチケット代と推しグッズにつぎ込み、東西南北あらゆる会場の最前列に出没するちょっと有名なオタクだったのだ。

「そんなに好きなら、いっそ上がってみない?」

 後楽園ホールでの興行後、熱狂の余韻に浸っていた私に声をかけてくれたのが、ある団体のスカウトだった。

 まさか観客席から黄色い声を上げていたただのオタクが、四角いジャングルの住人になるなんて……


 そこからは地獄の訓練生時代。

 来る日も来る日もスクワットにブリッジ、受け身の練習。

 体中がアザだらけになっても、心はこれ以上ないほど踊っていた。

 だって、そこは夢にまで見た至高のエンターテインメントの舞台裏だったのだから。


 デビューを果たした私の目の前に広がっていたのは、まさに百花繚乱の戦国絵巻だった。

 圧倒的な強さと鋭い蹴りでキャンバスを支配する、格が違う絶対王者。

 可憐なコスチュームに身を包み、感情の爆発とビジュアルで観客を狂信させる情念の聖女。

 ゴングと同時にトップギアで駆け抜け、目にも留まらぬ速度で丸め込みを連発するハイスピードの妖精たち。

 そして、リングを文字通り破壊せんと暴れ回る、人間国宝級の暴走大怪獣。


 ああ、思い出すだけで脳汁が溢れ出て止まらない。

 プロレスとは、単なる肉体と言語のぶつかり合いではない。

 それは、己の人生観や背負った物語をすべてさらけ出す「魂の対話」なのだ。

 技を繰り出す側の説得力はもちろんのこと、特筆すべきは「受けの美学」である。

 相手の最高峰の必殺技を、逃げも隠れもしないで真っ向からその肉体で受け止める。

 バチィィィン。

 肉体と肉体が激突する乾いた爆音が会場に響き渡る。

 カウント二点九。

 肩を上げた瞬間に生まれる、あのスタジアムが揺れるほどのカタルシス。

 それらをさらに引き立てるのが、個性豊かなユニットの抗争、人間関係の濃厚なドラマである。

 昨日の友は今日の敵、そして今日の敵は明日の戦友。

 裏切りと絆が織りなす大河ドラマが、ファンの心を掴んで離さないのだ。


 さらにリングを彩るのはレスラーだけではない。

 まるで言葉の魔術師のように、一瞬の攻防を神話の領域へと昇華させる超絶ハイテンションの名物実況アナウンサー。

「出たァー。戦慄の垂直落下式。脳頭頂部がマットに吸い込まれていく。

 まさに人間魚雷、情念のナイアガラフォールだァー」

 そんな風に、まくし立てるような過熱する実況が、ファンの興奮を極限まで煽る。

 そして、試合のスパイスとなる味のあるレフェリーたち。

 時には高速カウントで試合をひっくり返し、時には悪役レスラーの反則行為をわざとらしく見落として極悪非道な空間を演出する、あの憎たらしくも愛すべきゲームマスターの存在。

 これらすべての要素が奇跡の黄金比で融合した世界、それが女子プロレス。

 私自身のレスラー人生といえば、戦績はパッとせず、技のキレも今ひとつ。

 いわゆる「やられ役」の新人で終わってしまったけれど、その日々は間違いなく、私の人生で最も輝かしい充実した時間だった。


 ……そう、あの最悪の雨の日までは……


 道場からの帰り道、遠征に向かう途中の交差点だった。

 視界を真っ白に染め上げたのは、制御を失って突っ込んできた大型トラックのヘッドライト。

 キキィィィィッ。

 激しい金属音と、内臓を震わせるような強烈な衝撃。

 私の体は軽々と宙を舞い、冷たいアスファルトへと叩きつけられた。

 信じられないほど急速に、指先の感覚が失われていく。

 視界がみるみるうちに狭くなり、漆黒の闇が迫ってくるのが分かった。


 嘘でしょう?

 私、デビューしてまだ何もなしていないのに。

 まだ推しのベルト戴冠を見届けていないのに。

 もっと、もっとプロレスを楽しみたかった。

 もっとあの四角いジャングルの中で、魂を焦がすような戦いがしたかった!


 消えゆく意識の最果てで、私は強く、強く願った。


 その時。

 カン、カン、カン──。

 どこか遠く、意識の深淵の向こう側から、奇妙に澄んだゴングの音が響いたような気がした。



 次に目覚めた時、私は強烈な違和感に包まれていた。

 視界がやけに高い。

 いや、違う。

 周りの人間や家具が、異常なほど巨大に見えるのだ。

「おお、愛しの我が娘、フラウィア・マリア。

 なんと美しい青い瞳なのだ」

 立派な髭を蓄え、金糸の縁取りが施された豪華なマントを羽織った大人の男性が、涙を流しながら私を覗き込んでいる。

 声を出そうとしたが、口から出たのは「あうー、ぎゃあー」という情けない産声だけだった。

 自分の手を見ると、そこには信じられないほど小さくて、ふやけた桃色のおててがあった。


 嘘、嘘でしょ。

 私、赤ちゃんになってる。

 しかもここ、どう見ても二十一世紀の日本じゃない~~~!



 それから数年をかけて、私は自分が置かれた状況を理解していった。

 どうやら私は、前世の記憶を持ったまま異世界に転生してしまったらしい。

 しかもその転生先は、前世で世界史の教科書で見た「ユスティニアヌス一世治世の東ローマ帝国」に酷似した、「ロマニア」と呼ばれる大帝国だった!

 おまけに私は、伝統的名門派閥に属する最高級の貴族の娘として生まれるという、超絶なウルトラVIP待遇。

 前世のパッとしないレスラー人生とは打って変わり、広い中庭のある大邸宅で、絹のドレスを着せられ、山海の珍味に囲まれて何不自由なく蝶よ花よと育てられた。


 しかし、高貴な身分になろうとも、どれほど贅沢な暮らしをさせられようとも、私の魂に深く刻まれた「プロレスの血」が薄まることは決してなかった。

 十歳を過ぎた頃、ふと鏡に映る美しい自分の姿を見つめながら、私は前世の記憶を反芻していた。

 この世界には、血で血を洗う剣闘士の試合はあっても、あの魂を震わせるエンターテインメントとしての闘いは存在しない。

 みんな、お堅い顔をして政治や権力闘争ばかりに明け暮れている。

 贅沢な白いパンを食べ、最高級の発酵魚ソースをかけたオキシメリ・ポルコを口に運んでも、私の心の渇きは癒えなかった。


 足りない。

 圧倒的に、プロレス成分が足りないのだ。


「ああもう、じれったい」

 私は豪華なトリクリニウムの大広間で、美しいシルクのドレスの裾を大きく翻した。

 周囲のメイドたちが、突然立ち上がった私を見て驚きに目を丸くする。

 胸の奥から、抑えきれない熱いエネルギーがドクドクと湧き上がってくる。

 前世で夢見たこと、叶えられなかったこと、そしてプロレスへの無限の愛。

 すべてが今、この新しい肉体の中で爆発しようとしていた。

 私は両拳を力強く握り締め、天井高く、天をも穿つような大声で叫んだ。

「女子プロレス、観た~い!!」

 これが、後にロマニアの歴史を、そして帝国の運命を揺るがすことになる「女性闘士」たちの闘い──「ルクタ・フェミナ」や「花の戦争」の幕開けとなることを、この時の私はまだ知る由もなかったのである。


挿絵(By みてみん)

次回予告:

次回、第一章 第一話「魂の激突、黄金の四角いジャングル」


歓喜の三カウントと、絶望のタップアウト。

天国と地獄の狭間で、彼女はただ己の誇りだけを信じて跳ぶ。

運命のゴングまで、あと……


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