第8話 立つ者の重さ
ここはレイアノーティア。
役目は人を座らせる。
そして一度立った者には、次も立つことを期待する。
期待は、目に見えないくせに、やけに重い。
⸻
二日目の依頼は、山裾の採取地帯までの護衛だった。
討伐ではない。
血も流れない。
命を張る仕事、と言うには地味すぎる。そして地味な仕事ほど人の癖が出る。
集合場所に着いた時には、ガルドはもう自然と前に立っていた。誰に指示されたわけでもないし、トンヌラも何も言わない。ただ荷車の前方で道が最初に見える位置に身体を置く。そうすると、後ろに並んだ採取人たちの呼吸がほんの少しだけ整うのが分かった。
その変化が、ガルドには重かった。
自分が前に出たことで、誰かが安心する。安心した顔を向けられる。たったそれだけのことなのに、肩のあたりに見えない砂袋でも括りつけられたみたいに、じわじわと重みが増していく。
森へ向かう道は静かだった。風はあるのに葉擦れの音が薄く、足元の土も妙に湿っている。何も起きそうにない穏やかさが、かえって神経を逆なでする。
何も起きない時間ほど、人は余計なことを考える。
また来たらどうする。
昨日みたいな獣が出たら。
もっと大きいものが出たら。
昨日はたまたま止まっただけで、本当はただ運がよかっただけではないのか。
立っていれば止まる。そんな都合のいい理屈が、何度も通用する保証はどこにもない。
「どうした」
後ろからトンヌラの声がした。
ガルドは肩を強ばらせたまま答える。
「……何でもないです」
「何でもない顔じゃないな」
振り返ると、トンヌラは荷車の脇を歩きながら、いつものように腕を組んでいた。偉そうな顔をしているが、あれはたぶん中身が伴っているわけではなく、そういう顔をするのが癖になっているだけだ。それでも不思議と、見ていると少し気分が楽になる。
「肩、上がってるぞ」
言われて初めて気づいた。首から背中にかけて、余計な力が入りっぱなしになっている。立つ、というより構えている。止めるためではなく、失敗しないために身体を固めてしまっていた。
トンヌラは前を見たまま言った。
「力むな。立つのはいいが、構えなくていい」
「でも……」
「勝とうとするな」
言葉は短い。説明もない。だが妙に引っかかった。
勝つ、という発想はガルドにとっていつも遠かった。勝負の土俵に上がる前に降りていたから、勝ち負けの実感そのものが薄い。自分がやってきたのは、勝つことではなく、ただ負けさせないことだった。
それなのに今は違う重さがある。立てと言われたから立てた。逃げなかった。だから次もできるはずだと、周囲も自分もどこかで思い始めている。それが怖い。
⸻
昼前、小川のそばで小休止を取った。
採取人たちは籠を置き、水を飲み、固いパンをちぎる。ガルドも少し遅れて腰を下ろしたが、うまく気が抜けない。座っていても、前に立っていなければならない感覚だけが背中に残っている。
トンヌラは木の根元に座り込み、いつもの調子でパンをかじっていた。何も考えていなさそうな顔だった。実際、半分くらいは何も考えていないのかもしれない。
ガルドは地面を見ながらぽつりと言った。
「俺、立ってるときは楽なんです」
「ほう」
「立つって決めた瞬間だけ、迷いが消えるんです」
本当にそうだった。前に出るまでは怖い。逃げ道を数える。後退の言い訳を探す。だが、一歩出てしまうと、それまで渦巻いていたものがすっと薄くなる。立っている間だけ、自分は“何をすればいいか分からない人間”ではなくなる。
けれど。
「終わった後が、怖いです」
その一言は、思ったより素直に出た。
「次もできるだろって、思われるから」
トンヌラはパンを飲み込み、水で喉を湿らせてから言った。
「俺は期待されてないから楽だぞ」
「ずるいです」
「だろ?」
本当に軽かった。
軽いのに、投げやりではない。
その軽さに、少しだけ救われる。
⸻
休憩を終えて歩き出した頃、後ろの採取人の一人が、思い切ったようにガルドへ話しかけてきた。
「昨日の話、聞きましたよ」
ガルドの足が一瞬だけ止まる。
「え」
「立って魔物を止めたって。本当だったんですね」
「いや、あれは……」
うまく否定できない。止めようと思って止めたのではなく、結果としてそうなっただけだ。だが、その説明はたいがい相手を納得させない。
採取人はそこで、ちらりとトンヌラの方を見た。
「そちらの団長さんも、すごいですね」
「団長?」
今度はトンヌラが反応した。自分を指さしているのに気づくまで、一拍かかる。
「あなたですよ。ガルドさんの立ち方、あれ、仕込んでるんでしょう?」
「は?」
「無駄がないんです。あの人、昨日より立ち方が洗練されてる。普通、あんなに急に変わりませんよ。だからてっきり、あなたが後ろで何か……」
ガルドが目を見開く。
トンヌラは、もっと分からない顔をした。
「何もしてないぞ」
即答だった。
だが採取人は、そういう返しをする人物にますます確信を深める類の人間らしかった。
「出た……」
「何が」
「本当にすごい人って、そう言うんですよね」
「違う」
「分かります。表に出さないタイプの指導者……」
「違うって」
トンヌラは本気で否定していた。
ガルドにはそれが分かる。
だが周囲には、分からない。
結果だけ見れば、名もない新人だった自宅警備員が、立つだけで場を止める職へ変わった。その隣には、前例のないネームレスがいる。理屈の代わりに誤解が生まれるのは、むしろ自然だった。
トンヌラは面倒くさそうに肩をすくめた。
「勝手にすごくするな。俺は何もしてない」
採取人は、妙に感心した顔でうなずいた。
「その“何もしてない”が一番怖いんですよ」
「怖くてたまるか。俺が一番困ってる」
トンヌラはそれだけ言って前を向いたが、後ろでは小さなざわめきが残った。
団長。
指導者。
名を預かる者。
そんな言葉が、まだ冗談みたいな軽さで漂っている。
ガルドはその横顔を見た。本人は本当に受け流している。否定はするが、そこで立ち止まらない。誤解を正すために熱くならない。その距離感が、余計に得体の知れなさを増していた。
⸻
森の奥で、小さな気配が動いた。
茂みの影から現れたのは、犬ほどの大きさの魔物だった。弱い。脅威というほどではない。だが、採取人たちはびくりと身体を強ばらせる。
ガルドの身体が先に反応した。
一歩前へ出る。
棍棒を持ち上げもしない。叫びもしない。ただ道の真ん中に立つ。
魔物は足を止めた。こちらを見て、唸ることもなく様子をうかがう。半呼吸ぶんの沈黙のあと、進路を変えて森の奥へ消えた。
誰も傷つかない。
何も起きない。
何も起きなかったことが、逆にひどく雄弁だった。
“立てば止まる”。
そんな法則めいたものが、また一つ積み重なってしまう。
後ろで、小さく息を呑む音がした。採取人たちの目には、今の出来事がどう映ったのだろう。ガルド本人には、ただ昨日より少し迷いなく前に出られた、という実感しかない。だが外から見れば、それだけでは済まないらしい。
「……やっぱり」
さっきの採取人が、ぼそりと呟いた。
「団長に鍛えられてる人の動きだ」
「だから違うって」
トンヌラが即座に否定する。
「俺は立てって言っただけだ」
「十分じゃないですか」
「十分すぎて困ってる」
ガルドは思わず吹き出しそうになった。怖さと可笑しさが同時に押し寄せてきて、変な息が漏れる。さっきまで胸にのしかかっていた重さが、少しだけ形を変えた。
期待は重い。
だが、全部が全部、押しつぶすためのものではないのかもしれない。
⸻
帰り道、森を抜けて街道が見えた頃、ガルドは言った。
「俺、強くなってますかね」
トンヌラは間髪入れずに答えた。
「知らん」
あまりに即答で、かえって笑える。
「でも昨日よりは立ててる」
「……そうですね」
少しだけ、誇らしい。
少しだけ、怖い。
その両方が残っているのが、たぶん今の自分なんだろう。
夕方の光が長く道を伸ばしている。ギルドの屋根が見え始める。ガルドはそこで立ち止まらなかった。誰かに押されているわけではない。期待に引っ張られているだけでもない。
自分で前へ歩いていた。
⸻
ギルド奥の水晶は、静かに光っていた。
《バトル・ウォーデン》
表示は揺れない。
その横で、
《ネームレス》
細い波形が、変わらず揺れている。
だが周囲の線が、ごくわずかに歪んでいることに、まだ誰も気づかない。
異常値ではない。
修正は入らない。
今のところは。
⸻
宿に戻る直前、ガルドがぽつりと言った。
「トンヌラさん」
「なんだ」
「俺、明日も立ちます」
宣言というほど大げさではない。
ただの確認。
自分で決めたことを、自分の耳にもう一度聞かせるための言葉だ。
トンヌラは肩をすくめた。
「好きにしろ」
命令ではない。
期待でもない。
ただの許可。
それが、いちばん軽い。
⸻
ここはレイアノーティア。
立つ者は、次も立つ。
世界はまだ修正しない。
だが観測は続いている。
そして、周囲の誤解は、静かに形を持ち始めていた。
⸻
第8話 了




