第7話 余波
ここはレイアノーティア。
役目は人を座らせる。
だが、一度立った者を元に戻す仕組みはない。
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翌朝、ガルドは目を覚ましてから、しばらく布団の中で動けなかった。
腕が重い。
胸の奥が、妙に熱い。
筋肉痛ではない。いや、筋肉痛もあるのだろうが、それだけではなかった。昨日、あの林道で、確かに自分は立った。その感触が、まだ身体の奥に残っている。
逃げなかった。
腰を引かなかった。
前に立った。
ただそれだけのことだ。
だが、その「ただそれだけ」を、今までの自分は一度もできなかった。
ガルドは毛布の上で、そっと拳を握った。握った手には、昨日までよりもわずかに実感があった。
(……本当に、立ったんだな)
そう思った瞬間、胸の奥に小さな怖さも浮かぶ。昨日のことが夢ではなく、本当に自分の選択だったのだと認めたら、今日から先もまた、自分は立たなければならない気がした。
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宿を出て、ギルドへ向かう。
朝の街はまだ眠たげで、露店も半分しか開いていない。石畳の隙間にたまった昨夜の湿り気が、朝日を受けて鈍く光っている。そんな、いつも通りの風景の中で、今日だけが少し違っていた。
視線が刺さる。
昨日までとは明らかに違う種類の目だ。
「あれだろ、昨日の」
「立ってるだけで止めたっていう」
「バトル・ウォーデン……」
誇張が混ざっている。いや、かなり混ざっている。ガルドは肩をすくめ、なるべく小さくなろうとした。
「俺、殴ってませんよ……」
隣を歩くトンヌラが、何でもないことのように言う。
「立っただろ」
「それだけです」
「それが効いたんだよ」
簡単に言う。あまりにも簡単に言う。
だが、簡単ではない。
立つと、次も立たなければならない。昨日は一度だけのつもりだった。だが世界は、たった一度のことを見逃してくれない。結果が出た瞬間、それは役目になる。
ガルドは、小さく息を吐いた。
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ギルドの食堂に入ると、ざわめきが一段だけ薄くなった。視線が集まり、それから逸れる。昨日なら気づかなかったかもしれないが、今日は嫌でも分かる。
二人分の皿を受け取り、空いている席に座る。ガルドは椅子に腰かけてから、少しだけ迷った。立っていないのに、背筋を伸ばしてしまう。誰に命じられたわけでもないのに、もう「立つ者」として見られている気がした。
トンヌラはいつも通りだった。パンをちぎり、スープを飲み、何も変わっていない顔で座っている。変わっていないように見えるだけかもしれないが、少なくとも周囲からはそう見えている。
「なあ」
ガルドはスープの湯気を見つめながら言った。
「俺、期待されてますかね」
トンヌラはパンを口に入れたまま、少しも考えずに答えた。
「されてるだろ」
「嫌ですか」
「……ちょっと」
本音だった。
期待は重い。好意であっても重い。悪意よりましだとしても、背負う側にはそれなりに堪える。
トンヌラは肩をすくめる。
「じゃあ勝たなきゃいい」
「え?」
「勝とうとするから重くなるんだろ」
ガルドは眉を寄せた。
「でも、立つのは?」
「立つのは、お前の自由だ」
自由。
その言葉は、ガルドにとってまだ馴染みが薄い。家の中にいた頃の自由は、だいたい逃げの別名だった。何もしなくていい理由でしかなかった。
だが今の自由は、少し違う響きを持っていた。やるかやらないかを、自分で選ぶ余地のことのように思えた。
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そのとき、近くの席から小さな声が漏れた。
「……でも本当に止めたのは、あのネームレスの方じゃないのか?」
「ガルドだけじゃなくてさ。後ろのあいつ、全然慌ててなかったろ」
「何か知ってる顔だったよな」
ガルドの肩がぴくりと動く。
トンヌラはスープを飲みながら、心底どうでもよさそうに言った。
「知らん。立ったのはあいつだ」
それだけだった。
否定するでも、説明するでもない。自分に向きかけた誤解を、真面目に拾い上げる気が最初からないような返しだった。けれどその雑さが、かえって周囲の想像を刺激してしまう。
「ほらな」
「やっぱ何かあるんじゃ……」
勝手な声が、また小さく広がる。
ガルドは横目でトンヌラを見た。本人は本当に何も気にしていないようだった。というより、自分がどう見られるかそのものに、あまり興味がなさそうだった。
(……そういうところなんだよな)
得体が知れない、というのは、強そうに見えることよりもずっと厄介なのかもしれない。
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昼からは、小さな護衛依頼を一つ受けた。戦闘の気配はない。町の外れまで商人を送るだけの簡単な仕事だった。
それでも、ガルドは自然と前に立つ。
誰にも言われていない。トンヌラも何も言わない。それでも足が前に出る。昨日は命じられて立った。今日は、自分で立った。
(……ああ)
歩きながら、ガルドはようやく気づく。
“立つ”は、命令ではなくなっている。
昨日は他人に言われてやった。今日は自分で選んだ。小さな違いだ。だが、自分の中では決定的に違う。
商人は安心したように二人の後ろを歩いている。何も起きない。道も平和だ。だが、その「何も起きない」が、昨日までより少しだけ違う意味を持ち始めていた。
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帰り道、小さな魔物が道の脇から姿を見せた。
弱い。脅威と呼ぶには足りない。だが、商人はびくりと足を止めた。
ガルドの体が、先に反応する。
一歩前へ。
構えない。叫ばない。ただ、立つ。
魔物は様子を見るように首を振り、やがて踵を返した。何も起きない。誰も傷つかない。だが、それが逆に証明してしまう。
立てば止まる。
そんな法則が、本当にでき始めているみたいだった。
トンヌラが隣でぼそりと言う。
「ほらな」
「いや、今のはたまたまですよ」
「世界は、たまたまを積み上げて決めるんだよ」
適当なのか本質なのか、よく分からないことを言う。だが、言われた方は妙に否定しきれない。
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ギルドへ戻る頃には、陽が傾いていた。
ガルドは足を止めずに門をくぐる。昨日の自分なら、たぶんここで一度立ち止まり、深呼吸をしていた。中に入ればまた誰かに見られるからだ。
けれど今日は、その一歩ぶんだけ進み方が早い。
ギルド奥の水晶では、《バトル・ウォーデン》の文字が静かに安定していた。表示は揺れず、波形も昨日より落ち着いている。記録係が紙束をめくりながら、訝しそうに首をかしげた。
「……定着が早いな」
その横で、《ネームレス》の波形は相変わらず細く、捉えどころなく揺れていた。だが、周辺の線だけが、ほんのわずかに歪んでいる。誰も気づかない程度の微差。だからまだ、誰も問題にしない。
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夕暮れの宿へ戻る道で、ガルドが言った。
「トンヌラさん」
「なんだ」
「俺、昨日は本当に怖かったです」
「ああ」
「でも今日は……少しだけ、ましでした」
トンヌラは空を見上げる。夕焼けの色が、雲の縁に薄く残っている。
「慣れだ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだ」
根拠はない。だが不思議と、それで十分だった。
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ここで一つ、静かな事実がある。
ガルドは昨日、名を得た。
だが今日得たのは――自分の選択だ。
それは水晶には映らない。記録にも残らない。けれど、今後のすべてを少しずつ変えていく種類のものだった。
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夜。ギルド裏の厨房。
帳簿が一枚、めくられる。
トンヌラ。
ガルド。
二つの名前の下に、まだ何も書かれていない空欄が一つだけ残っている。名はない。だが、行だけは最初から用意されていたかのように、きちんとそこにある。
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ここはレイアノーティア。
立った者は、次も立つ。
世界はまだ何もしていない。
だが、余波は静かに広がっている。
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第7話 了




