第62話 五戒封環
ここはレイアノーティア。
傷は、ただの傷では終わらない。
癒えなかったもの。
消えなかったもの。
忘れたふりをしても、身体のどこかに残り続けるもの。
それらは時に、人を縛る。
だが時に、人を立たせる。
戒め。
折れた場所に残った、次は同じ痛みを見過ごさないための輪郭である。
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ディクラインの油膜が、不規則に波打っていた。
「キョヒ……キョヒ……」
四脚が地面を軋ませる。
だが、もう先ほどまでの滑らかな処理速度ではない。
五人の意味を“無かったこと”へ押し戻そうとして、
逆に五人分の輪郭をいびつに浮かび上がらせてしまっている。
トンヌラは目を閉じたまま、深く息を吸っていた。
まだ言わない。
まだ、名前は呼ばない。
(必要なのは、覚悟だ)
自分ひとりの覚悟では足りない。
今ここで必要なのは、五人が五人の傷を、自分で肯定することだ。
ディクラインが低く唸る。
「ゴカイ……ナカッタ」
その言葉に、トンヌラはゆっくり目を開いた。
「ある」
短く、はっきり言う。
「お前が何を無かったことにしようが、あるものはある」
ディクラインの外皮に、小さなひびが走る。
「ア……ル……?」
「そうだ」
トンヌラが言う。
「まず、そこからだ」
仲間たちの方を見る。
「覚悟を決めろ」
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最初に応えたのは、ガルドだった。
赤い糸が背後で脈打つ。
まだ暴れそうな気配を残しながら、それでも今は彼の背後に留まっている。
ガルドはゆっくり息を吸った。
「……覚悟、完了」
低い声だった。
だが、その声にはさっきまでの揺らぎが少し消えている。
「俺は、ただ立っていただけじゃない。立って、守ってきた」
筋肉が隆起し、盾を握る手に力が入る。
「上手く返せなくても、意味がなくても」
首を振る。
「そうじゃなかった」
赤が、少しだけ静かになる。
「受けたものは、あった」
「守った事実も、あった」
その言葉に呼応するように、赤い光が一つ、はっきりと円を描いた。
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次にコムギが、大きく息を吸う。
「……覚悟、完了!」
少し震えていた。
でも、その震えごと前へ出す声だった。
「私、配るだけじゃないです」
「考えました。足りるように。倒れないように」
涙をシャツの裾で拭う。
「みんなが、ちゃんと次の一歩を出せるように」
言葉が出るほど、顔が熱を持っていく。
「間違えたと思ったこともありました」
「また同じかもって、今も少し怖いです」
(でも!)
「支えたことは、無かったことじゃない」
「私が支えた時間は、ちゃんとあったんです!」
薄く揺れていた金色が、コムギの背後で灯る。
小さな光。
だが、たしかに切れない線だった。
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フィーは、ぽめを見た。
丸い。
静かだ。
なのに、あの一声だけは消えなかった。
フィーは胸の前で手を重ねる。
「……覚悟、完了」
声は静かだった。
でも、深いところで揺れていない。
「理解できても、届かなかったことはあります」
「助けられなかった命もあります」
瞳が少しだけ潤む。
「それでも」
「届かせたかったことまで、無かったことにはさせません」
息を吸う。
「私は、命を整えたい」
「乱れたものを、戻したい」
「届かなかったからこそ、今は届かせたい」
蒼い光が、細く伸びる。
水のように揺れながら、それでも確かな一本として残る。
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ミラがギターを抱き直した。
舌打ちするみたいに息を吐く。
だがその顔は、もう逃げていない。
「……覚悟、完了」
少し低めに、吐き出すように。
「揃えられなかったよ」
「置いていったと思った」
「自分だけ先に行ったんじゃないかって、何度も思った」
視線をディクラインに向ける。
「でも、それで終わりじゃなかった」
「あたしは奪った」
「自分の拍で、場を奪い返した」
(私が連れて行く)
「一度だけでも、やった」
「だったら、それはもう“無かったこと”じゃない」
紫の光が、鋭く弾ける。
まだ不安定だ。
だが、不安定なまま“自分の音”として立っている。
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最後に、クラウスが前へ出た。
その横顔だけ、少しだけ時間がかかった。
トンヌラが見ている。
仲間も見ている。
ディクラインも見ている。
クラウスは細く息を吐いた。
「……覚悟、完了」
声は小さい。
だが、よく通った。
「私は、正しい側にいました」
「必要な犠牲だと、言ってきた」
「全体のために、削ることを選んできた」
そこで一度目を閉じる。
「そして、間違えた」
その言葉が落ちた瞬間、白い糸が震えた。
「私はまだ、全部を捨てきれていないかもしれない」
「今もどこかで、正しさの方へ引かれている」
だが、と続ける。
「それでも、選んだ」
「選び直した」
「だから、その選択まで無かったことにはさせません」
白い光が、静かに一本の線になる。
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五本。
赤。
金。
蒼。
紫。
白。
それぞれがまだ完全ではない。
だが、全てが“あったこと”としてそこに立った。
ディクラインが後退した。
「……ゴカイ……」
「……タダノ……キズ……!」
さっきとは違う。
否定ではない。
理解できないものを前にしたときの、処理の遅れだった。
トンヌラが一歩前へ出る。
呼吸は整った。
もう震えていない。
「覚悟は揃ったな」
その一言で、五人の意識が寄る。
「ここからだ」
両手を広げる。
五人の光が、トンヌラの背後でゆっくりと寄り始める。
無理やりではない。
命令でもない。
それぞれの戒めが、それぞれの意味のまま、ただ同じ円を描こうとしている。
クラウスが息を呑む。
「……環」
フィーが小さく言う。
「つながってる」
コムギが目を見開く。
「これ、もしかして……」
「来るね」
ミラが笑った。
その笑いは、怯えを含んだままの本物だった。
「団長さんの長いやつ」
フィーが笑う。
「団長ではない」
「今そこじゃないだろ」
ミラが即答する。
ガルドが静かに、もう一度前へ出る。
「俺が受けます」
「私が繋ぎます」
コムギがすぐ続く。
「切らせません」
フィー。
「リズムは渡さない」
ミラ。
「縫い留める」
クラウス。
ディクラインが、大きく揺らいだ。
「キョヒ……」
「キョヒ……」
「キョヒ……!」
四脚が地を踏む。
空間が歪む。
葡萄棚の残った色さえ、また薄くなりかける。
だが今度は違う。
五人の光が、消えない。
円を描き始めている。
トンヌラが、深く息を吸った。
長い。
深い。
これまで何度も使ってきた、厨二の呼吸。
だが、今度は誤解ではない。
今度は本当に、“五人分を束ねるための呼吸”だ。
リリカが岩陰で息を止める。
「……ほんとにやるんだ」
ぽめは、少しだけ顔を上げた。
「……」
何も言わない。
ただ見ている。
トンヌラが目を開く。
「説明しよう!」
そこまでだった。
山の空気が変わる。
ディクラインの油膜が大きく波打ち、
四脚が初めて、ほんの一歩だけ後ろへ滑った。
ここはレイアノーティア。
拒絶は、五つの傷を無かったことにしようとする。
だが、傷は戒めになる。
戒めは名になる。
名は環になる。
そして今、その環がようやく閉じようとしていた。
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第62話 了




