第40話 拍は、戻る ライバルは、去る。
ここはレイアノーティア。
音は流れ、
拍は巡り、
乱れたものも、いつかは元の場所へ戻ろうとする。
だが一度ずれた心だけはただ戻るのではなく、形を変えて。
⸻
ディソナンスが消えたあと、街には妙な静けさが落ちていた。
誰もすぐには動かなかった。
鐘も、足音も、怒鳴り声も、全部が一度止まってから、ようやく少しずつ戻り始める。
遅れて、誰かが息を吐く。
そのあとで別の誰かがしゃがみ込む。
衛兵が盾を下ろし、店の中では倒れた椅子を直す音がする。
さっきまで確かにあった“噛み合わなさ”だけが、そこだけ切り取られたみたいに消えていた。
「……終わった?」
コムギが、まだ半分信じていない顔で言う。
「終わった、ように見えます」
フィーが静かに答える。
ガルドがゆっくりと肩を回す。
「軽いです」
「またそれ言うんですね」
コムギが振り向く。
「はい。かなりいいですね」
「それ、たぶん今日の正解です」
フィーが目を細めて笑う。
「はい」
「やっぱり、すごかったんですね……」
コムギがしみじみ呟く。
ミラはまだギターを持ったまま立っていた。
指先が熱い。
呼吸は浅い。
でも立てている。
立てているだけでなく、今この場にちゃんと自分の足で立っている感覚があった。
さっきまでとは違う。
前みたいに、終わった瞬間に空っぽにならない。
あたしが壊したんじゃない。
あたしは、奪い返した。
まだそこまできれいには言えない。
でも、胸の中で何かが確かに変わっていた。
⸻
広場の端で、ようやく周囲の声が戻り始める。
「……今の、見たか?」
「ネームレスの隊だ」
「やっぱり、何かしたんだろ」
「いや、あの歌い手も……」
「でも最初に動いたの、あの団長だよな」
嫌な流れだった。
コムギがすぐに食いつく。
「違いますって!」
声が大きい。
「今のはミラさんが」
「でも、団長が何か言っただろ」
「言いましたけど!」
「じゃあやっぱり、あのネームレスが」
「だから違いますってば!」
コムギが鍋を抱えたまま地団駄を踏む。
その横で、トンヌラは腕を組んでいる。
止めたい。
だが下手に否定すると、余計に変な方向へ行く。
それを、この男はそろそろ学び始めていた。
「落ち着いてください」
ガルドが低く言う。
「でも!」
「コムギさんが焦ると、余計ややこしくなります」
「そんなの分かってますよ! でも今のは!」
「分かっています」
フィーが静かに言った。
「誰が何をしたかは、私たちが分かっていればいいです」
「……フィーさん」
「ミラさんも、ちゃんと分かってます」
「はい」
ミラが、そこで初めて頷いた。
その一言で、コムギの肩から少しだけ力が抜ける。
「……それなら、まあ」
「まあ、ではないだろ」
「団長さんは黙っててください! だいたい団長さんのせいでこうなるんです!」
「俺のせいなのか?」
「半分くらいは!」
「またそれか」
「団長さんにだけは言われたくないです!」
ミラがそのやり取りを見て、小さく息を吐く。
やっぱり変だ、この隊は。
変なのに、崩れない。
崩れないから、たぶん居心地が悪くない。
⸻
ギルドの関係者や衛兵たちが、ようやく場の収拾に動き始める。
怪我人の確認。
建物の被害。
人員整理。
その中で、トンヌラたちの一行は、妙に目立っていた。
中心にいるのは、やはりトンヌラだ。
何もしていないように見えるのに、場の視線だけは集まる。
トンヌラはそれが気に入らなかった。
でも、ほんの少しだけ、悪くもなかった。
その自分が嫌だな、とも思う。
ミラがそんな彼を見た。
「……あんたさ」
「何だ」
「毎回こうなの?」
「何がだ」
「何もしてない顔して、だいたい真ん中にいる感じ」
「不本意だ」
「でも慣れてる」
「慣れた」
「それ、嫌な慣れ方」
「お前もだいぶ戻ってきたな」
「誰のせいよ」
「知らん」
「そこは少しは自覚持ちなさいよ」
言い返しながら、ミラは少し笑う。
さっきまでは、そんな余裕もなかった。
それだけでも大きい。
⸻
ぽめは少し離れた場所で丸くなっていた。
さっきまでのことなど気にも留めていない顔で、もう眠る準備に入っている。
「……すぴ」
最強の無責任だった。
ミラはその姿を見て、ふっと笑う。
「こいつ、本当に何なの」
「犬だ」
トンヌラが即答する。
「いやそれは見たらわかるって」
「ポメラニアンだな」
「団長さん、間違ってはいないですが」
フィーが言う。
「だろ?」
「開き直りました」
コムギが呆れる。
「でも、可愛いは正義です」
「お前はそこだけ一貫してるな」
「大事ですから!」
ぽめは起きない。
その起きなさが、逆に不穏で、でも妙に安心もさせた。
⸻
完全な静寂が落ちたのは、その少し後だった。
街全体の拍が戻りきった瞬間。
余計なざわめきが一度底を打ち、夜が本来の静けさへ戻る。
その静けさの中、屋根の上で白い手袋が外された。
乾いた、とても正確な拍手。
パチ。
パチ。
パチ。
そのリズムは、戻ったばかりの街の鼓動と完全に一致している。
ミラが顔を上げる。
トンヌラも、ほとんど同時に屋根を見る。
黒いコート。
白い手袋。
月光を背負う、無駄がなさすぎる立ち姿。
ディソナンスの波形が崩れた余韻を、まるで最初から知っていたみたいな顔で、その男はそこに立っていた。
「魔王ディソナンス――実験終了」
声に悔しさはない。
「暴走要因は想定外だった」
視線が、ぽめの方へ一瞬だけ落ちる。
「だが、破綻はしなかった」
モノクルを外し、夜へかざす。
今夜の指揮者は、彼ではなかった。
それでも、落ち着きは一切崩れない。
「設計外で揃うとは」
目を細める。
「実に不愉快で――美しい」
⸻
トンヌラの胸が、妙に騒いだ。
(やば……)
(なにあれ)
(……か、かっこいい……)
意味の分からない感情が胸を打つ。
敵意ではない。
畏怖だけでもない。
同じ匂いを持つ。
なのに、格が違う。
エヴァンの視線が落ちる。
一直線に。
トンヌラへ。
「名を持たず、席を拒み」
静かな声だった。
「名を、呼ぶ男よ」
世界が一瞬だけ止まる。
「君は秩序ではない」
全員が静まり返った。
「笛吹きだ」
⸻
空気が重くなる。
コムギは半分くらい言葉の意味が分からず、固まっていた。
「えっ、えっ……何の話ですか今」
誰も答えない。
ガルドは空気を読み、ただ真っ直ぐに立っている。
フィーは息を潜める。
ミラは、目の前の男の“整いすぎた気配”に寒気を覚えていた。
エヴァンの口元が、わずかに上がる。
「世界を“ロック”する、か」
その声には、嘲りより先に理解があった。
「ならば私は、世界を“再編”しよう」
⸻
トンヌラは無意識に一歩、前へ出た。
「お前……誰だ」
問いは震えていない。
震えていないように見えるだけで、内心はかなり熱い。
エヴァンは軽く会釈した。
「私は指揮者」
コートが翻る。
「世界調停機構長官」
髪をかき上げる。
「エヴァンだ」
月光が、白い手袋を照らす。
「安心したまえ」
微笑む。
「私は敗北しない」
⸻
トンヌラの胸が熱くなる。
(負けない、だと……)
(くそ、やっぱかっこいい……!)
歯を食いしばる。
「俺は……」
言葉が詰まる。
名乗る名がない。
「ト……」
エヴァンが先に言う。
「いや、ネームレス」
視線が鋭くなる。
「消去対象からは外そう」
見えない糸を、指先でひとつ引く。
世界の因果が、わずかに書き換わる気配がした。
「観察対象へ昇格だ。君は、楽譜に記せない」
⸻
トンヌラの背筋が伸びる。
消されなかった。
だが、許されたわけでもない。
――認められた。
(これが……ライバル宣言というやつなのか……!)
胸の奥が、妙に熱い。
(感動してるの?!)
ミラが信じられないものを見る目でトンヌラを見た。
⸻
エヴァンは空を見上げる。
「プレリュードは終わりだ」
指を鳴らす。
街の鐘が、一斉に揃う。
完全な一致。
「ここからはフーガ《遁走曲》」
くるりと踵を返す。
「声は重なり、旋律は追いかけ合う」
長い指が夜を切る。
「逃げ場のない組曲で、君を包囲してみせよう」
⸻
トンヌラの喉が鳴る。
(うわ……)
(やっぱかっこいい……)
(これが……様式美……!)
絶対的敗北感。
なのに、なぜか嬉しい。
「……面白い」
トンヌラは小さく笑う。
目だけは、まっすぐ屋根を見ている。
「やってやる」
エヴァンの瞳が、わずかに揺れた。
「期待している」
コートが翻る。
「次の楽章で会おう」
その瞬間。
姿が消えた。
⸻
静かな夜が戻る。
誰もしばらく、言葉を失っていた。
最初に口を開いたのは、ミラだった。
「……誰?」
トンヌラは答える。
「あれは……ライバルだ」
初めて、はっきりと。
目が少しだけ潤んでいた。
コムギはまだ半分固まっている。
「えっ、あれでそうなるんですか……?」
「団長さん基準では、そうみたいです」
フィーが静かに言う。
「分かりたくないですね……」
コムギが本音を漏らす。
ガルドは真顔で頷いた。
「ですが、たぶん大事な相手です」
「ガルドさんはもうちょっと止めてくださいよ!」
ぽめがあくびをする。
「……すぴ」
また寝た。
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ここはレイアノーティア。
均衡は戻った。
だが、楽章は容赦なく進んでいく。
揃える指揮者と、
居場所を呼ぶ者。
逃げ場のない完璧な檻の中で、
トンヌラは再び試される。
そして、その檻の外側で笑える者がひとり増えたなら。
この物語は、もう少しだけ騒がしくなる。
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第40話 了




