第3話 立つだけの戦術
ここはレイアノーティア。
役目は人を座らせる。
だが、立たせる理由までは教えてくれない。
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依頼は軽い見回りだった。
軽い、と書いてある依頼ほど信用できない。掲示板の紙はいつだって軽いが、重いのは現場だ。そういうことは、山にいた俺でもなんとなく分かる。
林道は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声がない。風が葉を揺らさない。土の匂いだけが、妙に湿って残っている。
隣を歩いていたガルドが、ふいに足を止めた。
「……匂いが違います」
「森に匂いあったのか?」
「あります」
返事はすぐだった。だが声は沈んでいる。
「いつもは、動いてる匂いなんです」
意味は分からない。だが嫌な予感だけは共有できた。
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出た。
藪の奥から、獣がぬっと顔を出す。昨日見たものより、ひと回り大きい。毛並みは荒れ、目は濁り、焦点が合っていないくせに、まっすぐこちらだけを見ている。
止まらない目だった。
ガルドの足が、半歩だけ下がる。
「逃げますか」
声が揺れていた。
「逃げたら?」
「助かるかもしれません」
助かる。
その言葉は甘い。だが甘いだけだ。今日ここで逃げたら、明日も同じことをする。明後日も、その次も、たぶん同じだ。
獣が一歩踏み込んだ。
地面が鈍く鳴る。
ガルドの肩が小さく震えた。
「俺、やっぱり無理です……」
本音だった。
山で十五年こもった俺と違って、ガルドは逃げながら外に出てきた人間だ。今ここに立ってはいるが、まだ“立つこと”を自分のものにしていない。
揺れている。
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俺は言った。
「立て」
短く。
ガルドが顔を上げる。
「え?」
「お前は立ってれば負けない」
根拠はない。理屈もない。だが、あの立ち方だけは嘘じゃないと思った。
「戦えとは言わない。殴れとも言わない」
獣が低く唸る。
「立っていればいい」
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ガルドは、すぐには動かなかった。
その顔の奥で、たぶん別の景色を見ている。
暗い部屋。閉じたドア。見慣れた天井。開けなかったカーテン。聞きたくもないのに耳に残る、「役に立たない」という声。
立っていなかった。
座っていた。伏せていた。縮こまっていた。
だから、負けたことにされた。
(立つだけで、いいのか)
ガルドの喉が動く。
「……立つだけで、いいんですか」
「ああ」
「負けないですか」
「立ってる限りはな」
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獣が、もう一歩踏み込む。
距離が詰まる。
今度こそ逃げるか、前に出るか、そのどちらかしかない。
ガルドは息を吸い、そして前に出た。
足は震えている。膝も固い。それでも出る。棍棒を握る。鍋の蓋を持つ。だが振り上げない。構えもしない。
ただ――立つ。
それだけだった。
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獣が、止まった。
唸る。牙を見せる。前脚で土を掻く。だが、それ以上の半歩が出ない。
見えない壁があるわけではない。剣が光ったわけでも、魔法陣が浮かんだわけでもない。
ただ。
前に、人がいる。
それだけで進みづらくなっているみたいに、獣はそこで足を止めた。
その光景は奇妙だった。
強さで押し返しているわけではない。威圧でもない。技でもない。だが、確かに“立っていること”だけで、そこに境界が生まれている。
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ガルドは気づく。
(俺、逃げてない)
殴っていない。戦っていない。勝ってもいない。
それでも、逃げていない。
胸の奥が、わずかに熱を持った。
獣が後退る。
一歩。
また一歩。
そして、やがて森の奥へ消えた。
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静寂。
遅れて風が戻る。止まっていた葉がようやく揺れ、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
ガルドは、まだ立っていた。
「……終わりました?」
「ああ」
「俺、何もしてませんよ」
「立ってただろ」
「それだけです」
「それで十分だ」
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ガルドは、ゆっくりと息を吐いた。
膝はまだ震えている。だが崩れない。さっきまでの“逃げたい”とは少し違う揺れ方だった。
「俺……立ってて、いいんですかね」
「今さら聞くな」
俺は言った。
「お前は立つ係だ」
「係……」
「専門職だ」
ガルドが、ほんの少しだけ笑った。
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その瞬間だった。
空気が、ほんのわずかに遅れた。
何かが後から帳尻を合わせようとするような、微細な揺れ。世界の方が、今見た出来事に説明をつけようとしているみたいな、妙な間。
だが、何も起きない。
名も出ない。光も走らない。水晶もない。
世界は、まだ沈黙を選んでいる。
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帰り道、ガルドがぽつりと言った。
「俺、怖いです」
「何が」
「今日、ちょっとだけ……逃げなかった自分が」
その言い方が妙に正直で、俺は少しだけ感心した。
変化は、優しくない。
一度立ったら、次も立たなきゃいけない気がする。それが怖い。昨日までの自分に戻れなくなるのが怖い。
たぶん、そういうことだ。
俺は肩をすくめた。
「たたかったら負けだと思ってるんで」
ガルドが吹き出す。
「それ、俺の台詞です」
「借りただけだ」
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ここはレイアノーティア。
役目は人を座らせる。
だが時々――立った者の背後で、何かが遅れて動く。
まだ名前はない。
まだ定義もない。
だが、わずかな誤差は確かに生まれた。
それだけで、今日は十分だった。
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第3話 了




