第23話 見える人、見えない人
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが、見えるものが同じとは限らない。
小さな誤差が、次第に大きな違和感へと変わる。
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フィーが同行してから、魔物のエンカウントが露骨に減っていた。
先頭に立つガルド、支えるコムギ、団長は相変わらず腕を組んで偉そうにしている。
その真ん中あたりを歩くフィーだけが、ときどき不意に足を止めた。
草の倒れ方を見る。
木の皮の傷を見る。
地面に残った浅い爪痕を、しゃがんで指先でなぞる。
そのたびに、ポーチから紙片を出して短く何かを書きつける。
コムギは最初、それを「すごくまじめな人だな」と思っていた。同行するうちに、印象は変わっていった。
(この人は、見ている)
フィーは顔も上げずに答えた。
「こっちへ行きましょう」
「理由は?」
ガルドが聞く。
フィーは進む先の藪を見たまま言った。
「そちらの道は、少し荒れてるので」
「荒れてる?」
「機嫌が悪い、の方が近いかもしれません」
「魔物に機嫌ってあるんですか?」
コムギは首をかしげ、ガルドは眉を寄せ、トンヌラだけが深く頷いた。
「なるほど」
「団長、分かってます?」
「分かったふりはできる」
「正直!」
だが、そのふりが、わりとこの隊を救っている。
フィーが選んだ道へ進むと、少し離れた藪の奥で何かが動いた。
低い唸り声。草の擦れる音。だが、飛び出しては来ない。
ガルドは身構え、そこで止まる。
「……本当にいたな」
「いましたね」
「いたのかよ」
フィーは藪を見たまま、小さく息を吐いた。
「今日は出て来ないです。お腹も空いてないようですし」
普通の冒険者なら、魔物の出現にムラがあると考えたこともなかっただろう。
「満腹なら大丈夫ですね」
妙なところで納得するコムギをみて、フィーが少しだけ笑った。
トンヌラはそれをずっと見ていた。
ずっと柔らかい顔をしているのに、生き物を見る瞬間だけ目の温度が変わる。
やさしいだけではなく、もっと研ぎ澄まされた専門家の目だ。
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昼前、小さな休憩を入れた。
コムギが慣れた手つきで簡単な食事を配り、ガルドが周囲を見る。
トンヌラは少し高い岩に腰を下ろして、全体を見ているような顔をしていた。
実際には、少し眠い。
フィーは休憩中もじっとしていなかった。
馬の脚を見て、鼻先を見て、水の飲み方を見て、また紙片に何かを書く。
「フィーさん、休まないんですか?」
コムギが聞くと、フィーはペン先を止めた。
「休んでますよ」
ニッコリして馬の頭を撫でた。
「無理しすぎるなよ」
「今、ちょっとだけ笑いましたよね?」
「はい」
「やっぱり無表情な人じゃなかった!」
「無表情ではないです」
「でもずっと落ち着いてます」
「仕事中なので」
「かっこいい……」
素直に感心するコムギの横で、ガルドがぽつりと呟く。
「落ち着いてる人間が一人いると助かるな」
「お前も落ち着いてる側だろ」
「俺は緊張してるのが顔に出ないだけです」
「ややこしいな」
「団長にだけは言われたくないです」
それはそうだった。
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休憩を終えて進んでいくと、街道沿いの空気が少しだけ濃くなった。
魔物の気配、と一言で言ってしまえばそれまでだ。
だがフィーはそこで速度を落とし、手のひらを軽く上げて合図した。
「少しだけ、ゆっくり」
「いるのか」
「近いです」
「何匹くらい?」
「……三、四」
コムギはキョロキョロしながら身構える。
それを見てフィーは困ったように言い直した。
「三匹は確実で、四匹目がたぶん、です」
言いながら、フィーは道の端へ寄る。
真ん中を堂々と歩くのではなく、茂みとの距離を測りながら、馬の歩幅まで合わせて速度をずらす。
「なんか……避けてるっていうより、譲ってます?」
「そうかもしれません」
「魔物に?」
「刺激すると面倒なので」
「会話が成立してるのが怖いです……」
コムギがリュックを抱え直し、おたまがカチャリと音を立てた。
ガルドは前を見たまま低く息を吐いた。
「戦わなくて済みそうです」
「戦ったら負けですもんね」
そんなやり取りをしている間に、道の脇の藪が一度だけ大きく揺れた。
全員の肩が固まる。
しかし、それだけだった。
飛び出して来ない。
威嚇もしない。
ただこちらを窺い、やがて気配が引いていく。
フィーはしばらくその方向を見て、それからようやく歩き出した。
「大丈夫です」
「ほんとに?」
「はい。今は」
フィーの"今は"という言葉に、妙な説得力がある。
「怖いですよね。私もです」
その返事だけが、少し意外だった。
コムギが目を丸くする。
フィーはその視線を受けて、少しだけ困ったように笑った。
「怖くない方が、おかしいでしょう?」
「……たしかに」
「でも、怖いならまだ間に合います」
コムギが真顔で頷く。
トンヌラは腕を組んだまま、フィーを一瞬だけ見た。
この人は、強がっていない。
ちゃんと危険を理解した上で、堅実に進める人間なのだと、何となく分かった。
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夕方が近づく頃には、奇妙なことがひとつはっきりしていた。
今日はまだ、一度もまともな戦闘になっていない。
それ自体はありがたい。
ありがたいのだが、コムギは少しだけ拍子抜けしていた。
「……ほんとに戦わないんですね」
「その方がいいだろ」
「いいですけど、ここまで避けられると逆に不思議で」
「不思議ですよね」
「フィーさん、そこ他人事みたいに言います?」
「他人事ではないです」
フィーはまた紙片を取り出し、何かを短く記した。
風向きでも書いているのか、草の様子でも書いているのか、それともまったく別のことなのか、見ただけでは分からない。
分からないのに、無駄には見えなかった。
道の先で、別の冒険者たちとすれ違う。
向こうは二組の護衛付きで、見るからに疲れていた。
「……あれ?」
「お前ら、街道のこっち回ってきたのか?」
「ええ、まあ」
「戦闘、なかったのか?」
フィーが答えるより早く、ガルドが少しだけ間を置いて言った。
「避けました」
「避けた?」
「避けられるものは」
「そんなに簡単に言うなよ……」
相手の目が、ガルドからトンヌラへ移る。
そしてまた、妙な納得をしたような顔になる。
「……ああ、そういうことか」
「何がですか?」
「いや、いい」
よくない。
トンヌラは内心でそう思ったが、口に出すと面倒なので黙っていた。
こういう時の沈黙は、だいたいロクな誤解を育てない。
案の定、去っていく相手の背中から、ひそひそ声が漏れる。
「やっぱり、ネームレスがいる隊は違うな」
「前に出る前に空気変わるって聞いたぞ」
「怖……」
ガルドが固まる。
コムギは鍋を抱えたまま瞬きをした。
トンヌラは腕を組んで、空を見た。
「知らん。避けたのはフィーだ」
「今の、ちゃんと訂正した方がよかったのでは?」
「しただろ」
「全然足りてません!」
「足りないくらいがちょうどいい時もある」
「それ団長が言うと余計怖いです!」
そのやり取りの横で、フィーだけは少し不思議そうな顔をしていた。
「……いつも、ああなんですか?」
「だいたいああです」
「理不尽だな」
「そうなんですよ!」
コムギため息をつきながら歩いた。
フィーはそこでようやく、声に出して笑った。
ほんの短い笑いだった。
だが、その短さだけでも十分だった。ずっと張っていた空気が、一枚ぶんだけやわらいだ。
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日が落ちる前に、四人は小さな野営地点へ入った。
火を起こし、鍋をかけ、水を整える。
ガルドは立つ場所を確認し、コムギは食材の数を見て、トンヌラは腕を組んで全体を見ているふりをした。
フィーは少し離れたところにしゃがみ、今日一日の記録をまとめていた。
紙片に書かれた短い言葉。
印の数。
矢印。
それらを見ている横顔は、昼間より少しだけ静かだった。
「それ、何を書いてるんですか?」
コムギが覗き込みかける。
フィーは紙を軽く伏せた。
「この辺りの、魔物の分布をまとめています」
「お仕事ですね」
また少しだけ笑う。
そして、紙をたたんでポーチへしまった。
トンヌラは火の向こうからそれを眺めていた。一つだけ、昼間よりはっきり分かったことがある。
フィーには見えている。
自分たちには見えていないものが。
火が小さく鳴る。
コムギの鍋からは、今日も生きるための匂いが立っていた。
ガルドは無言で前方を確認している。
フィーは記録を終え、ようやく手を止めた。
トンヌラは腕を組み、いつものように偉そうに座っている。
見える人と、見えていない人。
それでも今は、同じ火を囲んでいる。
ここはレイアノーティア。
強い者が生き残るとは限らない。
正しい者が先に気づくとも限らない。
ただ、見えたものを見えたままにしておける者だけが、
ほんの少しだけ、壊れる前の気配に触れられる。
そしてそういう者ほど、
何でもない顔でメモを取る。
まだ言葉にするには早いものを、
ひとまず失わずに持っておくために。
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第23話 了




