第108話 役割のない朝
ここはレイアノーティア。
何も起きない朝は、少しだけ優しい。
誰にも呼ばれない。
誰にも急かされない。
何かをしなければならない理由もない。
それは、平和に似ている。
けれど。
何も起きないことが、何も失っていないこととは限らない。
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無名街の外れ。
丘の上に、古びた空き家がある。
石造りの壁はところどころ欠け、屋根には修繕の跡が残っている。
窓枠は少し歪み、扉は開けるたびに軋む。
三ヶ月前までは、誰も住んでいなかった家だった。
今は、そこにトンヌラがいる。
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「……朝か」
目を開ける。
天井には、細いひびが走っている。
窓の隙間から、薄い光が差し込んでいた。
風が入ってくる。
冷たくはない。
ただ、静かだった。
本当に、静かだった。
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トンヌラは、しばらく天井を見ていた。
起きる理由はある。
水を汲む。
火を起こす。
食べる。
戸を直す。
庭の雑草を抜く。
生活は、何もしなくても続くわけではない。
だが、どれも遠い。
やらなければならないことはある。
けれど、やりたいことがない。
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ベッドの横では、ぽめが丸くなっていた。
いつも通り、丸い。
だが、最近は眠りが深い。
声をかけても、耳がわずかに動くだけで、なかなか起きない。
「……お前は、いいな」
小さく呟く。
ぽめは寝息を立てている。
「……すぴ」
何も背負っていないような寝息だった。
それが、少しだけ羨ましかった。
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トンヌラは起き上がる。
水を汲む。
井戸の縄を引く。
桶が軋み、水面が揺れる。
台所へ運び、火を起こす。
薪が湿っていて、少し手間取った。
煙が目にしみる。
「……下手だな」
誰に言うでもなく呟く。
以前なら、何か大仰な言い訳でもしたかもしれない。
炎を従えるには早すぎた、とか。
薪が俺の器に追いついていない、とか。
だが、今は何も出てこなかった。
ただ、火起こしが下手だった。
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名を奪われた日から、何かをしようと思えなくなった。
できないわけではない。
歩ける。
話せる。
物も持てる。
剣だって、振ろうと思えば振れる。
身体はある。
呼吸もある。
生きている。
だが。
「意味がない」
その感覚だけが、胸の奥に残っていた。
重いわけではない。
むしろ、軽い。
軽すぎて、自分がどこに立っているのか分からなくなる。
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この家は、メルグラフのアルディウス・ヴァン=メルグラフから譲り受けた。
『あなたのおかげで、街は守られた』
そう言われた。
だが、実感はない。
守ったのはガルドだ。
支えたのはコムギだ。
命を繋いだのはフィーだ。
音を響かせたのはミラだ。
縫ったのはクラウスだ。
自分は、何もしていない。
そう思う。
そして今は、本当に何もしていない。
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昼前。
扉が叩かれた。
控えめな音だった。
「団長」
扉の向こうから、明るい声がする。
エリシア・ヴァン=メルグラフだった。
アルディウスの娘。
かつて天蓋の下で横たわっていた少女。
今は、自分の足でここまで丘を上がってくる。
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トンヌラは扉を開けた。
エリシアは、両手で大きな籠を抱えていた。
野菜。
干し肉。
果物。
小さな瓶に入った油。
紙に包まれた香草。
かなりの量だった。
「また来たのか」
「うん」
エリシアは当たり前のように頷いた。
「団長ではない」
反射のように言った。
だが、自分の声が妙に薄く聞こえた。
エリシアは少しだけ首を傾げ、それから笑った。
「じゃあ、トンヌラさん」
「それでいい」
「でも、私にとっては団長でもあるよ」
「……好きにしろ」
「うん。好きにする」
エリシアは、遠慮なく中へ入った。
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彼女は台所へ向かう。
「食べてる?」
「まあな」
嘘だった。
昨日の鍋は、ほとんど減っていない。
パンも固くなっている。
食欲が湧かなかった。
空腹はある。
だが、食べる理由が薄い。
エリシアは鍋を見て、すぐに嘘だと分かった顔をした。
「まあな、じゃないね」
「うるさいな」
「うるさくするために来たから」
エリシアは袖をまくる。
「ご恩を返す番だから」
「俺は何もしてない」
「それ、何回目?」
少し笑う。
火が灯る。
水が湧く。
野菜が切られる音が、部屋に響く。
香ばしい匂いが、少しずつ広がっていった。
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トンヌラは椅子に座る。
手持ち無沙汰だった。
何か手伝おうかと思ったが、何をすればいいか分からない。
エリシアは慣れた手つきではない。
だが、迷ってはいない。
切り方は少し危なっかしい。
火加減も完璧ではない。
それでも、自分で選んで動いている。
その姿が、妙に眩しかった。
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「トンヌラさん」
ふと、エリシアが言った。
声は静かだった。
「私はね、世界がどうなっても、この気持ちは変わらない」
トンヌラは黙る。
エリシアは鍋をかき混ぜながら続ける。
「私は、自分で選ぶ」
「世界のために、自分のできることを」
まっすぐな声だった。
揺らがない。
天蓋の下で眠っていた少女の声ではない。
自分の足で立つ者の声だった。
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トンヌラは視線を逸らす。
「それが、お前の役割なのかもな」
エリシアは首を振った。
「違うよ」
きっぱりと。
「役割じゃない」
鍋の湯気が、二人の間に薄く立つ。
「私が、そうしたいからするだけ」
その言葉が、少しだけ胸に刺さった。
役割じゃない。
そうしたいから。
ただ、それだけ。
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「トンヌラさんが何もしなくても」
エリシアは続ける。
「今まであったことが、なかったことにはならない」
鍋をかき混ぜる手は止まらない。
だが、声は真剣だった。
「それだけは、覚えていて」
静寂。
トンヌラは、窓の外を見る。
丘の下の街。
細い煙が上がっている。
人が歩いている。
荷車が通る。
子どもが走る。
平和そうだ。
「……そうか」
それだけ言った。
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その時、もう一度扉が叩かれた。
今度は、勢いがあった。
「団長ー! いますよね!」
コムギの声だった。
空気が、一気に変わる。
返事をする前に、扉が開く。
コムギが立っていた。
両手いっぱいの籠を抱えている。
色とりどりの野菜。
艶のある果物。
乾燥豆。
保存肉。
小瓶に入った栄養剤。
「元気が出る、栄養のあるものを持ってきましたよ!」
にこにこしている。
その笑顔は、いつも通りに見えた。
少なくとも、見せようとしていた。
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エリシアが笑う。
「団長、料理できないから食べ切れるかしら」
「できるわ」
トンヌラが言う。
「嘘ですよね?」
コムギが即答した。
「即答するな」
「事実ですから」
コムギは台所を覗き込む。
「わあ、エリシアさんが料理してくれるんですね」
「うん。今日は勝手に作る日」
「いい日です!」
テーブルの上に食材が順番に置かれていく。
コムギの手際は良い。
何を先に置くか。
何を冷やすか。
何をすぐ使うか。
すべて分かっているように動く。
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「街は?」
トンヌラが聞いた。
コムギは、ほんの一瞬だけ手を止めた。
すぐに笑顔へ戻る。
「順調ですよ」
野菜を並べながら言う。
「復興支援とか、配給の再調整とか、人の流れが少し変わっていて」
「忙しいのか」
「ちょっとだけです」
さらりと言う。
だが、声の奥に疲労が滲んでいた。
「大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ!」
すぐに笑う。
「みなさんが頼ってくれるから、ちゃんと応えなきゃ」
その言い回しに、トンヌラはわずかな違和感を覚えた。
ちゃんと。
その言葉が、少しだけ硬い。
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「最近、頼られることが増えちゃって」
コムギは冗談めかして言う。
野菜を置く手が、ほんの少し止まる。
「ありがたいことですけどね」
すぐに笑顔に戻る。
トンヌラは、何も言わなかった。
以前のコムギなら、迷いながら配っていた。
選ばせようとしていた。
受け取る人の意思を見ていた。
今のコムギは、正しく回そうとしている。
それは良いことのはずだ。
だが。
どこかで、何かが少し軽くなりすぎている気がした。
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エリシアが料理を皿に盛る。
コムギが果物を切る。
台所は、この時だけ少し賑やかになった。
湯気。
香り。
包丁の音。
皿の触れる音。
誰かがいる音。
トンヌラは、その音を聞いていた。
生きている時間だと思った。
自分が何かをしていなくても、そこにある時間だった。
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食卓に三人が座る。
ぽめは、少し離れた場所で寝ている。
ぴくりとも動かない。
呼吸は穏やかだ。
だが、深い。
深すぎる。
まるで、何かを溜め込んでいるように。
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「団長、ちゃんと食べてくださいね」
コムギが真顔で言う。
「食べることは、生きているってことです」
「団長ではない」
「今はそこじゃないです」
コムギは皿を押し出す。
「身体の健康は、すべての基礎ですから」
トンヌラは匙を持つ。
温かい。
香りがする。
食べる。
少しだけ、身体の奥が戻るような気がした。
「……ああ」
短く答える。
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夕方。
エリシアは帰る支度を始めた。
「また来るね」
「来なくていい」
「来るね」
「聞け」
「聞いたうえで来るね」
強い。
トンヌラは少しだけ苦笑した。
コムギも慌ただしく立ち上がる。
「私も、まだ回るところがあるので!」
「無理するなよ」
「してません!」
元気に手を振る。
だが、足取りは少し重い。
トンヌラはそれを見ていた。
声はかけなかった。
今の自分が何を言えるのか、分からなかった。
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扉が閉まる。
再び、静寂が戻ってくる。
テーブルの上には、残った野菜がある。
赤。
緑。
黄色。
生命を感じる濃い色。
トンヌラは、それを見つめた。
「……世界は回ってるな」
自分が何もしなくても。
誰かが支えている。
誰かが選んでいる。
誰かが動いている。
それは、良いことのはずだった。
なのに、胸の奥が少しだけ冷える。
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ぽめが、ほんの一瞬だけ目を開けた。
瞳が、わずかに揺れる。
すぐに閉じる。
トンヌラは気づかなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
丘の下の街。
夕暮れの光。
静かな煙。
何も起きない世界。
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ここはレイアノーティア。
役割がなくても、朝は来る。
だが――。
何も起きないことが、
本当に平和かどうかは、まだ分からない。
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第108話 了




