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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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第108話 役割のない朝

 ここはレイアノーティア。

 何も起きない朝は、少しだけ優しい。


 誰にも呼ばれない。

 誰にも急かされない。

 何かをしなければならない理由もない。


 それは、平和に似ている。


 けれど。


 何も起きないことが、何も失っていないこととは限らない。



 無名街アンタイトルの外れ。


 丘の上に、古びた空き家がある。


 石造りの壁はところどころ欠け、屋根には修繕の跡が残っている。

 窓枠は少し歪み、扉は開けるたびに軋む。


 三ヶ月前までは、誰も住んでいなかった家だった。


 今は、そこにトンヌラがいる。



「……朝か」


 目を開ける。


 天井には、細いひびが走っている。


 窓の隙間から、薄い光が差し込んでいた。


 風が入ってくる。


 冷たくはない。


 ただ、静かだった。


 本当に、静かだった。



 トンヌラは、しばらく天井を見ていた。


 起きる理由はある。


 水を汲む。

 火を起こす。

 食べる。

 戸を直す。

 庭の雑草を抜く。


 生活は、何もしなくても続くわけではない。


 だが、どれも遠い。


 やらなければならないことはある。


 けれど、やりたいことがない。



 ベッドの横では、ぽめが丸くなっていた。


 いつも通り、丸い。


 だが、最近は眠りが深い。


 声をかけても、耳がわずかに動くだけで、なかなか起きない。


「……お前は、いいな」


 小さく呟く。


 ぽめは寝息を立てている。


「……すぴ」


 何も背負っていないような寝息だった。


 それが、少しだけ羨ましかった。



 トンヌラは起き上がる。


 水を汲む。


 井戸の縄を引く。


 桶が軋み、水面が揺れる。


 台所へ運び、火を起こす。


 薪が湿っていて、少し手間取った。


 煙が目にしみる。


「……下手だな」


 誰に言うでもなく呟く。


 以前なら、何か大仰な言い訳でもしたかもしれない。


 炎を従えるには早すぎた、とか。

 薪が俺の器に追いついていない、とか。


 だが、今は何も出てこなかった。


 ただ、火起こしが下手だった。



 名を奪われた日から、何かをしようと思えなくなった。


 できないわけではない。


 歩ける。

 話せる。

 物も持てる。

 剣だって、振ろうと思えば振れる。


 身体はある。


 呼吸もある。


 生きている。


 だが。


「意味がない」


 その感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 重いわけではない。


 むしろ、軽い。


 軽すぎて、自分がどこに立っているのか分からなくなる。



 この家は、メルグラフのアルディウス・ヴァン=メルグラフから譲り受けた。


『あなたのおかげで、街は守られた』


 そう言われた。


 だが、実感はない。


 守ったのはガルドだ。


 支えたのはコムギだ。


 命を繋いだのはフィーだ。


 音を響かせたのはミラだ。


 縫ったのはクラウスだ。


 自分は、何もしていない。


 そう思う。


 そして今は、本当に何もしていない。



 昼前。


 扉が叩かれた。


 控えめな音だった。


「団長」


 扉の向こうから、明るい声がする。


 エリシア・ヴァン=メルグラフだった。


 アルディウスの娘。


 かつて天蓋の下で横たわっていた少女。


 今は、自分の足でここまで丘を上がってくる。



 トンヌラは扉を開けた。


 エリシアは、両手で大きな籠を抱えていた。


 野菜。

 干し肉。

 果物。

 小さな瓶に入った油。

 紙に包まれた香草。


 かなりの量だった。


「また来たのか」


「うん」


 エリシアは当たり前のように頷いた。


「団長ではない」


 反射のように言った。


 だが、自分の声が妙に薄く聞こえた。


 エリシアは少しだけ首を傾げ、それから笑った。


「じゃあ、トンヌラさん」


「それでいい」


「でも、私にとっては団長でもあるよ」


「……好きにしろ」


「うん。好きにする」


 エリシアは、遠慮なく中へ入った。



 彼女は台所へ向かう。


「食べてる?」


「まあな」


 嘘だった。


 昨日の鍋は、ほとんど減っていない。


 パンも固くなっている。


 食欲が湧かなかった。


 空腹はある。


 だが、食べる理由が薄い。


 エリシアは鍋を見て、すぐに嘘だと分かった顔をした。


「まあな、じゃないね」


「うるさいな」


「うるさくするために来たから」


 エリシアは袖をまくる。


「ご恩を返す番だから」


「俺は何もしてない」


「それ、何回目?」


 少し笑う。


 火が灯る。


 水が湧く。


 野菜が切られる音が、部屋に響く。


 香ばしい匂いが、少しずつ広がっていった。



 トンヌラは椅子に座る。


 手持ち無沙汰だった。


 何か手伝おうかと思ったが、何をすればいいか分からない。


 エリシアは慣れた手つきではない。


 だが、迷ってはいない。


 切り方は少し危なっかしい。


 火加減も完璧ではない。


 それでも、自分で選んで動いている。


 その姿が、妙に眩しかった。



「トンヌラさん」


 ふと、エリシアが言った。


 声は静かだった。


「私はね、世界がどうなっても、この気持ちは変わらない」


 トンヌラは黙る。


 エリシアは鍋をかき混ぜながら続ける。


「私は、自分で選ぶ」


「世界のために、自分のできることを」


 まっすぐな声だった。


 揺らがない。


 天蓋の下で眠っていた少女の声ではない。


 自分の足で立つ者の声だった。



 トンヌラは視線を逸らす。


「それが、お前の役割なのかもな」


 エリシアは首を振った。


「違うよ」


 きっぱりと。


「役割じゃない」


 鍋の湯気が、二人の間に薄く立つ。


「私が、そうしたいからするだけ」


 その言葉が、少しだけ胸に刺さった。


 役割じゃない。


 そうしたいから。


 ただ、それだけ。



「トンヌラさんが何もしなくても」


 エリシアは続ける。


「今まであったことが、なかったことにはならない」


 鍋をかき混ぜる手は止まらない。


 だが、声は真剣だった。


「それだけは、覚えていて」


 静寂。


 トンヌラは、窓の外を見る。


 丘の下の街。


 細い煙が上がっている。


 人が歩いている。


 荷車が通る。


 子どもが走る。


 平和そうだ。


「……そうか」


 それだけ言った。



 その時、もう一度扉が叩かれた。


 今度は、勢いがあった。


「団長ー! いますよね!」


 コムギの声だった。


 空気が、一気に変わる。


 返事をする前に、扉が開く。


 コムギが立っていた。


 両手いっぱいの籠を抱えている。


 色とりどりの野菜。

 艶のある果物。

 乾燥豆。

 保存肉。

 小瓶に入った栄養剤。


「元気が出る、栄養のあるものを持ってきましたよ!」


 にこにこしている。


 その笑顔は、いつも通りに見えた。


 少なくとも、見せようとしていた。



 エリシアが笑う。


「団長、料理できないから食べ切れるかしら」


「できるわ」


 トンヌラが言う。


「嘘ですよね?」


 コムギが即答した。


「即答するな」


「事実ですから」


 コムギは台所を覗き込む。


「わあ、エリシアさんが料理してくれるんですね」


「うん。今日は勝手に作る日」


「いい日です!」


 テーブルの上に食材が順番に置かれていく。


 コムギの手際は良い。


 何を先に置くか。

 何を冷やすか。

 何をすぐ使うか。


 すべて分かっているように動く。



「街は?」


 トンヌラが聞いた。


 コムギは、ほんの一瞬だけ手を止めた。


 すぐに笑顔へ戻る。


「順調ですよ」


 野菜を並べながら言う。


「復興支援とか、配給の再調整とか、人の流れが少し変わっていて」


「忙しいのか」


「ちょっとだけです」


 さらりと言う。


 だが、声の奥に疲労が滲んでいた。


「大丈夫なのか」


「大丈夫ですよ!」


 すぐに笑う。


「みなさんが頼ってくれるから、ちゃんと応えなきゃ」


 その言い回しに、トンヌラはわずかな違和感を覚えた。


 ちゃんと。


 その言葉が、少しだけ硬い。



「最近、頼られることが増えちゃって」


 コムギは冗談めかして言う。


 野菜を置く手が、ほんの少し止まる。


「ありがたいことですけどね」


 すぐに笑顔に戻る。


 トンヌラは、何も言わなかった。


 以前のコムギなら、迷いながら配っていた。


 選ばせようとしていた。


 受け取る人の意思を見ていた。


 今のコムギは、正しく回そうとしている。


 それは良いことのはずだ。


 だが。


 どこかで、何かが少し軽くなりすぎている気がした。



 エリシアが料理を皿に盛る。


 コムギが果物を切る。


 台所は、この時だけ少し賑やかになった。


 湯気。


 香り。


 包丁の音。


 皿の触れる音。


 誰かがいる音。


 トンヌラは、その音を聞いていた。


 生きている時間だと思った。


 自分が何かをしていなくても、そこにある時間だった。



 食卓に三人が座る。


 ぽめは、少し離れた場所で寝ている。


 ぴくりとも動かない。


 呼吸は穏やかだ。


 だが、深い。


 深すぎる。


 まるで、何かを溜め込んでいるように。



「団長、ちゃんと食べてくださいね」


 コムギが真顔で言う。


「食べることは、生きているってことです」


「団長ではない」


「今はそこじゃないです」


 コムギは皿を押し出す。


「身体の健康は、すべての基礎ですから」


 トンヌラは匙を持つ。


 温かい。


 香りがする。


 食べる。


 少しだけ、身体の奥が戻るような気がした。


「……ああ」


 短く答える。



 夕方。


 エリシアは帰る支度を始めた。


「また来るね」


「来なくていい」


「来るね」


「聞け」


「聞いたうえで来るね」


 強い。


 トンヌラは少しだけ苦笑した。


 コムギも慌ただしく立ち上がる。


「私も、まだ回るところがあるので!」


「無理するなよ」


「してません!」


 元気に手を振る。


 だが、足取りは少し重い。


 トンヌラはそれを見ていた。


 声はかけなかった。


 今の自分が何を言えるのか、分からなかった。



 扉が閉まる。


 再び、静寂が戻ってくる。


 テーブルの上には、残った野菜がある。


 赤。


 緑。


 黄色。


 生命を感じる濃い色。


 トンヌラは、それを見つめた。


「……世界は回ってるな」


 自分が何もしなくても。


 誰かが支えている。


 誰かが選んでいる。


 誰かが動いている。


 それは、良いことのはずだった。


 なのに、胸の奥が少しだけ冷える。



 ぽめが、ほんの一瞬だけ目を開けた。


 瞳が、わずかに揺れる。


 すぐに閉じる。


 トンヌラは気づかなかった。


 ただ、窓の外を見ていた。


 丘の下の街。


 夕暮れの光。


 静かな煙。


 何も起きない世界。



 ここはレイアノーティア。


 役割がなくても、朝は来る。


 だが――。


 何も起きないことが、


 本当に平和かどうかは、まだ分からない。



 第108話 了

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