82話 八月三十一日の境界
……以上の考察から結論づけられるのは、民俗学における「境界」とは、単なる土地や空間、世界の断絶ではないということだ。
境界線を引くという営みは、決して拒絶を意味しない。『われても末に逢はむとぞ思ふ』と歌われたように、境界とは、いつか必ず再び巡り会うと信じるための——
「……人々の希望の形なのである。」
ノートパソコンに最後の一行を打ち込み、私は深く伸びをした。
——あの夏、私たちはその境界を越えた。
そして今も、その向こう側を忘れていない。
鞄の中のスマホが、着信を知らせる青いランプをつけていた。
「これから、山を降りる」
相変わらず、ぶっきらぼう。
メッセージは、三時間前。
——もう、こんな時間……
やば……遅れる。
今日は、八月三十一日。
私はノートパソコンを閉じた。
コーヒーの残り香が漂う、研究室の電気を消す。
晩夏の六時は、夜の帳が静かに降りようとしていた。
群玉大学の正門を抜けると、夕闇の中に真っ赤なスポーツカーが止まっていた。
「おーい! 千尋ー! 迎えにきたよ!」
柚月がオープンカーから身を乗り出して手を振った。
「来てたんなら連絡くれればよかったのに」
「だって、千尋。スマホ見ないじゃん」
柚月はサングラスをずらして笑った。
「ありがとね。柚月は、今日は非番?」
「そう! 有給取った」
「いいなあ、ヘリのパイロット」
柚月はあれから猛勉強し、高卒後単身渡米してパイロットの免許を取った。
さすがの行動力とガッツと身体能力だった。
あの世界で空を飛んだ快感が忘れられないと言っていた。
「いやあ、スザクライドには敵わないよ」
「スザクには乗れなかったな、私」
「あれ乗ったら千尋は気を失うから」
スザクといえば、あのシベリアンハスキーは柚月がいろいろ調べて、飼い主に連絡を取り、無事ご主人のところに戻ることができた。
あの別れは、私も寂しかった。
私たちは三人揃って、見送ったものだった。
「セーリューに乗ったときは大丈夫だったよ」
「あれは、飛行機みたいなものだから」
「本当に、夢みたいだったね」
「もう十年か……」
でも、現実。
あのあと帰ってからが、大変だった。
一月半も行方不明。
奇跡の生還と大々的にニュースになったものだった。
あのトンネルで雨水を飲んで、生きながらえていたことにした。
そうそう、MeTubeは、柚月のお兄ちゃんがアカウントごと消してしまっていた。
もともとは柚月のお兄ちゃんのアカウントだったのだ。
収益は数百万にはなっていたらしいけど、連日、憶測が書かれるコメントに嫌気が差してしまったとのことだった。
日向はぶつぶつ言っていたけど、表だって文句は言わなかった。
「日向は東京から、いつ戻るって?」
「昼に着いたって連絡があった。あいつリアルのヒュドラとかゴブリン見たらトラウマになったって、きっぱりゲーム卒業したもんね」
「ゲーム廃人になりかけてたから、逆に良かったって言ってた」
そう言って寂しそうに笑った日向を思い出す。
帰還後、警察の事情聴取。
検査入院のあと、二学期途中から復学した。
担任が涙ながらに「良かった」と言ってうつむいた後頭部がアベーノそっくりだった。
私たちは笑いを堪えるのに必死だった。
学校では失踪事件の話題で持ちきりだった。
でも私たちは、連日の補習で必死だった。
日向はゲームをやる暇もなかった。
「東京のゲーム会社で頑張ってるんでしょ?」
「今は、バグと戦ってるって愚痴ってた」
「それもう別の魔物じゃん」
私たちはそれぞれの道を歩んでいた。
「開くんも来るんでしょ?」
「うん、三時間前に山を降りるって連絡があった」
「じゃ、間に合うね」
あの日からマカーベは、ずっと我が家で暮らしている。
父が奔走し、就籍手続きを取った。
未戸籍、日本の文化が分からないのに古い日本語は話せる。
時折、意味のわからないことを口走るマカーベに、医師は首を傾げつつも解離性健忘の診断を下した。
苦労の末、父と私の執念でマカーベを「真壁開」として戸籍を得た。
その後は父の助手として働きながら学び、高卒認定を取得。
警察採用試験にも合格し、今は群玉の山々で山岳救助隊として働いている。
日が落ちた頃、スポーツカーは一軒のカフェに着いた。
看板には「女神カフェ」とある。
本日貸切の札。
扉を開けると、カランカランと鐘が鳴った。
「遅いよ! 柚月! 千尋!」
日向はすでにビールを飲んで出来上がっていた。
「いらっしゃい。遅かったわね」
スミレがカウンターから声をかけた。
良い匂いが漂っている。
あの後スミレは地元にひっそりと戻った。
四十年の失踪事件は、私たちの記事に押し出されるように新聞の隅に小さく載った。
失踪取り消しを済ませ、両親を看取ると、田んぼと家屋を売却した。
そして五年前に群玉に移り住み、カフェを開いた。
そうそう、落ち着いた翌年の春には、みんなで夢の国にも行ってきた。
スミレが目を回して驚いていたのが懐かしい。
「遅れてごめんなさい」
「私は炭酸でいいよ」
「真壁開! あいつ遅い!」
日向が言ったとき、入り口の鐘が鳴った。
「悪い。遅くなった」
真壁開の視線が私をとらえた。
視線が絡む。
あのときと同じ——境界の縁に立っていたときの目。
私はお腹を撫でた。
——その未来が今ここにある。
境界は閉じた。
それでも、私たちはまたここで会えた。
日向が真っ赤な顔をして乾杯のジョッキを掲げた。
「それじゃ、真壁ご夫妻の第一子ご誕生を祝して、乾杯しよう!」
「まだ、生まれてないから」
「ご懐妊でしょ」
私たちは笑い合った。
「女神カフェ」のカウンターに飾られた五つの勾玉が引き合うように優しく光っていた。
それは、また巡り会うという約束のように。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ここまで物語にお付き合いいただけたこと、心から感謝しています。
この物語の時間が、あなたの中で少しでも残り続けてくれたなら、とても嬉しいです。
日向、柚月、千尋は無事、帰還してそれぞれの道を歩いて行きました。
でも、作者はまた新しい冒険の旅にでています。
次回作『契約魔導師のレシピ帖』は、4月11日より連載予定です。
落ちぶれた元天才魔導師が成り上がっていく、お仕事系ハイファンタジーになります。
もしよろしければ、そちらでもお会いできたら嬉しいです。




