第293話 『血塗られた庭』
「プリシラ。待ってくれ」
ジュードは前を走るプリシラを呼び止めた。
王城の廊下を疾駆し続ける彼女の足に付いていくのは大変だというのもあったが、そんなことよりもジュードは異変を感じ取っていたのだ。
「どうしたの?」
プリシラは息を弾ませてジュードを振り返る。
そんな彼女にジュードは自身が黒髪術者の力で感じ取ったことを伝えた。
「おかしいんだ。牢にいるはずのエミルが移動している」
「移動? もしかしてアタシたちの接近に気付いた王国側がエミルを別の場所に?」
プリシラの問いにジュードは頷いた。
しかしジュードが感じ取っているのはそれだけではなかった。
エミルの気配が忽然と消えてしまったのだ。
ジュードはそれをプリシラに伝えるべきか迷った。
伝えれば間違いなくプリシラは不安に思うだろう。
焦ってしまうに違いない。
だが、やはりそれでも現状を正確に、そして誠実に伝えなければならないとジュードは思った。
プリシラはまだ13歳だが、数々の苦難をくぐり抜けたその心はもう一人前の戦士なのだ。
「プリシラ。落ち着いて聞いてほしいんだけれど、エミルの気配が……消えている」
「えっ? そ、それって……」
ジュードの思った通りプリシラは絶句する。
もしかしたら最悪の事態が起きてしまい、エミルの命が断たれてしまったのではないかと考えてしまったのだろう。
だがジュードは首を横に振る。
「大丈夫だ。きっと大丈夫。以前にもこういうことがあった。エミルは今、何らかの影響で力を失っているだけだと思う」
「うん……でも居場所が分からないんじゃ、これからどうすれば?」
「エミルの力を最後に感じた場所に行ってみよう。そこに行けば何か手掛かりがあるかもしれない」
プリシラもジュードも互いに励まし合うように頷き合う。
エミルを助けるためにここまで来たのだ。
そしてエミルに手が届くまであと一歩というところなのだ。
(絶対にあきらめない。エミルを必ず取り戻す)
プリシラは不安を振り払うように前を向いて進み続けた。
そして廊下の先にある突き当たりの扉を開く。
その先は……中庭のようになっていた。
その場所を目にしたジュードはおぼろげな記憶が呼び起こされるのを感じる。
目の前に光景に、子供の頃に見た光景が重なった。
「ここは……そうだ……ここは訓練場だったんだ」
「訓練場?」
「ああ。黒帯隊が様々な訓練をここで受けていたんだ……だけど、あの頃とは色々と変わってしまっているな」
この場所は以前は一面芝生だったが、今は土が剥き出しの地面だ。
そして木陰をたくさん作っていたはずの木々は、いずれも姿を消していた。
今、四方を取り囲む塀の上で燃える篝火の明かりに照らし出されたこの場所は、木材の山がところどころに置かれただけの殺風景な場所に変わり果てている。
(以前とは違う……それに何か嫌な雰囲気だ)
ジュードはこの場から多くの負の感情を感じていた。
それは恐怖や絶望といった感情であり、それらがここの地面に染みついているような気がする。
かつて戦場になった土地などで感じることのある、お馴染みの雰囲気だった。
(そうか。ここで大勢の人間が死んだんだ……まるで処刑場のようだな)
ジュードはこの場にいるのが不快で、早々に立ち去りたくなった。
足元から亡者たちの嘆きが這い上がってくるようだ。
ここにいると彼らの嘆きが重しのように全身にまとわりついてくる。
「プリシラ。エミルのいた棟はこの先だ。急ごう」
そう言って足を進めようとするジュードだが、プリシラはそんな彼を手で制止した。
その顔に警戒の色が浮かんでいる。
「待って……血のニオイがする」
プリシラの言葉にジュードは鼻をひくつかせる。
すると夜風に乗って生臭さが漂ってきた。
ジュードも何かを感じ取る。
亡者たちのそれではない、もっと現実的で生々しい脅威だ。
その何とも言えない不気味さに思わず鳥肌が立った。
そんな彼の視線の先、その広場に置かれた木材の山の陰から、何か大きなものが動いて出てきた。
巨大な熊かと思ったそれは人間だ。
その人物がプリシラとジュードに気付いて声を発する。
「あれ〜? 誰か来たねえ。誰なの?」
野太い声だが、まるで子供のような口調の男だった。
篝火の明かりに浮かび上がるその男の姿に、プリシラもジュードもわずかに息を飲んだ。
男は目の部分以外は覆われた鉄仮面を被っており、その全身を鉄の鎧に包んでいる。
そして右腕は肘から手首まで、左腕は肩から指先までを麻布ですっぽり包みこんでいた。
それだけでも奇妙なのだが、それぞれの麻布が血に染まっていることがあまりにも異様だ。
「……あなたこそ誰よ?」
不気味な姿の男に思わず顔をしかめながらプリシラは尋ねた。
するとその男は嬉しそうに答える。
「俺、ドロノキ。シャクナゲ様に言われて悪い人たちをブチ殺しているの。君たち、悪い人なんじゃないの?」
そう言いながらドロノキは愉快そうに笑った。
そんなドロノキの口ぶりにプリシラは憤り、声を荒げる。
「悪いのは王国でしょ! 勝手に他国を侵略して、アタシの弟を連れ去ったくせに! 今すぐ戦争を止めてエミルを返しなさい!」
エミルを誘拐しておいて、それを助けに苦労してここまでやって来た自分を悪い人呼ばわりする。
ドロノキという男の言葉が王国の身勝手さを象徴しているように思え、プリシラは怒りで目を吊り上げた。
そんな険しいプリシラの表情と怒声に、ドロノキの顔が見る見るうちに泣き顔に歪んでいく。
「お、怒らないでよ〜。そんな怖い顔で睨むのやめてよ〜」
そう言うとドロノキは大きな声を上げてワンワン泣き始めた。
体の大きな男が幼子のように泣き喚くその異様な有り様に、プリシラは怒りを忘れて呆気に取られる。
そんなプリシラの背後からジュードが言った。
「あの男は危険だ……相手にしないほうがいい。やり過ごそう」
ジュードの言葉にプリシラは戸惑いながらも頷いた。
そして泣いているドロノキを無視して少し離れた場所を通り抜けて反対側の棟に向かう。
だが、そこでドロノキが大きな声を上げた。
「ひどい! 君たちは悪い奴! 俺に怖いこと言った! 睨んだ!」
その声のあまりの大きさにプリシラとジュードは思わず顔をしかめる。
まるで雷鳴のような大きな声だった。
そんな2人に目を向け、ドロノキはドンドンと足を踏み鳴らす。
「君たちは悪者! 悪者は……ブチ殺す!」
そう言うとドロノキは足元から何かを拾い上げる。
彼の右手に握られたそれは、太い鉄の棍棒だった。
ドロノキはそれを軽々と持ち上げると、プリシラとジュードを見ていやらしい笑い声を漏らす。
「うふふふ。これでグチャグチャのお肉にしてあげようね」
そう言うとドロノキはその巨体に似合わぬ足の速さで2人に襲いかかってくるのだった。
☆☆☆☆☆☆
エミルを抱えたヴィンスとその部下2人の黒髪術者。
その3人を引き連れて王城の廊下を進むシャクナゲは、遠くから響く奇妙な声を聞き取った。
それがドロノキの泣き声であることを彼女はすぐに察知する。
「……どうやら網に何らかの魚がかかったようね」
シャクナゲの言葉の意味が分からず、ヴィンスは怪訝な表情を浮かべた。
しかしそれに構わずシャクナゲは涼しい顔で告げる。
「旧処刑場に行くわよ。そこに不埒者が入ってきているわ」
有無を言わせぬ口調でそう言って足早に進むシャクナゲを、ヴィンスは部下たちと顔を見合わせてから少々ウンザリした顔で追うのだった。




