第244話 『敵地への越境』
「あの谷間に流れる川が国境線ですね」
山の中の茂みに隠れながらエステルはそう言った。
他の仲間たちも茂みの中から目を凝らす。
奥の里を出てからダニアの若き女戦士ら5人は山中を迷いなく進んできた。
かなり山深い道であり、時には道なき茂みの中をかき分けながら進むこともあった。
それでも迷わなかったのはエステルの地理的な知識と優れた方向感覚があったからだ。
エステルは頭の中に入っている地図と太陽の位置で正確に現在位置を把握する能力に長けていた。
彼女のおかげで一行は最短時間で王国との国境線まで辿り着いたのだ。
「見て下さい。尾根の上を兵士が見回っています」
エステルの指差す先、谷を挟んで反対側の尾根の上を数名の兵士らが歩いている。
王国軍兵士と見て間違いないだろう。
それを見たネルはフンッと鼻を鳴らした。
「大した人数じゃねえ。あのくらいならアタシらだけでも倒せるだろ」
そう言うネルにエステルは首を横に振る。
「あれは外敵から国境線を守るための兵ではありません。おそらくああして国境線に薄く広範囲に兵士の網を張っておくのでしょう。彼らは皆、あらかじめどこの国境地域を担当するのか軍に登録されているはずです。そして彼らとの連絡役の兵士が必ずいます。もしアタシたちがあの見張り役の兵士たちを倒せば、後からやってきた連絡役の兵士が異変に気付き、王国政府に連絡がいくでしょう。侵入者がいると。すると王国内の警備はより一層厳しくなります。そういう仕組みになっているのだと思います」
エステルの言葉に皆がその顔に緊張を滲ませた。
いよいよ敵地に乗り込むのだという緊迫感に包まれる。
そんな雰囲気を打ち破るようにネルは不機嫌な声で言った。
「じゃあどうするんだ? 何か考えがあるんだろうな。エステル」
そんなネルを咎めるようにエリカは口を挟んだ。
「ネル。自分では何も思いつかないくせに、エステルに突っかかるのやめなよ」
「ああ? 何だテメー。優等生ぶってんじゃねえよ」
険悪になるネルとエリカだが、そこにエステルが冷静な声で割って入った。
「やめて下さい。考えることがアタシの仕事です。アタシはネルのように弓矢で敵を倒すことは出来ませんし、エリカたちのように特別強くもありません。だから考えます。この状況をどうするか。そしてそれをあなたたちに伝えて実行に移します。それがアタシの役目ですから」
そう言いながらエステルはじっと前方の尾根を見据えた。
その真剣な眼差しにエリカは冷静さを取り戻し、ネルも舌打ちをしてそれ以上は何も言わずにエステルの発案を待つのだった。
☆☆☆☆☆☆
プリシラはいよいよ王国の国境線を眼前にしていた。
奥の里を出てから山沿いに移動してきたプリシラだが、王国との国境が近付くにつれチラホラと王国兵を目にするようになった。
彼らは5〜6人の集団で移動していることが多い。
プリシラならば1人で片付けられる人数だが、この国境付近ではあまり騒ぎを起こしたくなかったので、見つからぬよう細心の注意を払いながら進んだのだ。
そしてついに国境線となる丘陵地帯に踏み込んだ。
そこでプリシラは昼の間はじっと林の中に身を潜め、日が暮れてから行動に出た。
周囲の地形を見ると低い尾根がいくつも連なっていて、その尾根の上から王国軍兵士らは周囲を見回していた。
おそらくどの尾根を通っても敵に見つかってしまう。
そう思ったプリシラはこの辺りで最も高い尾根の崖を登ることに決めたのだ。
一番高い尾根を移動すれば、万が一にもそこで敵と遭遇して戦闘になったとしても、その他の低い尾根にいる兵士らからは見つかりにくい。
周りに気付かれる前に敵を一気に倒してしまえばいいのだ。
そう思ったプリシラだが、その崖は一際高く、30メートルほどはあるだろう。
昼の間に登れば、周囲から丸見えになり、敵に見つかってしまう恐れが高い。
それゆえプリシラは夜間を狙って行動に出たのだ。
新月のこの夜は空を厚い雲が覆い、星明かりすら見えない暗い夜だった。
そんな暗闇の中の崖登りは、まさに死の危険と隣り合わせの行為だ。
プリシラは四肢の力で懸命に崖を登る。
彼女の目論見通り、夜の闇の中でそれを見咎める者はいない。
そしてプリシラは昼の間に崖の形状を確認し、自分が登るべき道筋を完璧に記憶しておいた。
その確認作業の中で、これならば登れると確信を得たのだ。
そして日が暮れ落ちると暗闇の中で一定時間を過ごし、目を闇に慣らした。
それから意を決して30メートルほどはある崖を登っていったのだ。
あらかじめ覚えていた窪みや出っ張りに手をかけ足をかけ、プリシラは崖を這い上る。
上に行けば行くほど落下への恐怖が増すが、彼女は自分を信じて必死に崖を登った。
一度だけ足を踏み外しそうになり、その時はさすがに心臓が止まるかと思ったが、しっかりと両手で崖の出っ張りを掴んで踏み留まる。
そして自分を落ち着かせながら少しずつ登っていき、ついに……。
「っくはあ!」
プリシラは30メートルもの崖を無事に登り切ったのだ。
彼女は崖の上に人の姿がないことを確認するとそこで横たわり、大きく息をつく。
人並み外れた腕力と体力を持つプリシラでも、転落死の恐怖と戦いながらの崖登りは重労働だった。
汗が噴き出し、全身の力が抜けていく。
プリシラはしばしそのまま横たわり、闇夜の空を見上げながらゆっくりと息を整えた。
疲労感から急激な眠気が襲って来て、プリシラは一瞬で眠りに落ちたのだ。
おそらく数分間は眠っていただろう。
「……ハッ!」
プリシラは大きく目を見開いて目を覚ました。
身を起こすとまだ全身の筋肉が強張っているのが分かる。
プリシラはゆっくりと体を揉みほぐしながら、闇に慣れた目で周囲の様子を見回した。
そして一際高いこの崖にどうして王国兵らが登って来なかったのかを理解する。
この尾根は他の尾根と接続していないのだ。
尾根の先は遥か遠くまで続いていて、先が見えないほどだった。
要するにここに到達しようと思ったら、プリシラのように崖を登って来るしかないのだ。
そんなことは常人にはおいそれと出来ることではない。
崖の上は人に踏み荒らされた形跡もなく、背の低い草が生い茂っている。
ここを進む限りしばらくは王国兵と出くわすことはないだろう。
闇の中でプリシラは笑みを浮かべた。
「苦労して登ってきた甲斐があったわね」
そう言うとプリシラは腰にしっかりと結わえ付けておいた腰袋から水袋を取り出し、水を煽って立ち上がる。
そして闇夜の中を足早に歩き出すのだった。
尾根の遥か先まで続く王国の大地に向かって。
☆☆☆☆☆☆
5人の王国兵が夜明けの大地を進んでいく。
王国軍の紋章が付いた鎧兜を身に着けた彼らは、多くの王国兵が行き交う街道を堂々と進んでいく。
王都に向けて。
彼らの中には看護兵と思しき女の姿もあった。
誰も彼らを見咎める者はいない。
なぜならばここは王国領内だからだ。
そして彼らは所属部隊を識別する識別証を持っている。
それが偽造されたものであるなどと誰が気付くだろうか。
アーチボルトを始めとする青狐隊の面々は、公国から国境を越えて王国に入る前に皆、王国兵に変装していた。
鎧兜も識別証もすべて事前に用意していたものだ。
今は戦時であり、普段は市民である臨時兵も含めると王国兵の数は多い。
どこの所属かなど検証しようもないのだ。
ついに王国に足を踏み入れた青狐隊の面々は大胆な足取りで一路王都を目指すのだった。




