第240話 『汚れた欲望』
「ふう。スッキリした。やっぱり適度な発散は必要よね。欲求不満は体に悪いし」
そう言うとオニユリは衣を纏い、その上から革鎧を身に着けて、部屋を出る。
そこは王国軍が接収した貴族の邸宅の寝室だった。
「さて、新しい坊やをアリアドの家に送らないと」
オニユリはこのジルグでもすでにレディー・ミルドレッドの息のかかった者らと接触を果たしていた。
どうやら頭目であるミルドレッドは共和国で政府に捕らえられてしまったらしいが、ミルドレッドには甥と姪がいて彼らが事業に従事している。
頭目がおらずとも、すぐに組織が破綻することはない。
オニユリはすでに彼らに依頼して馬車を一頭手配していた。
御者はミルドレッドの子飼いの男だ。
オニユリは薬で眠らせてある寝室の男児に服を着せ、部屋から運び出すと御者に預けた。
「無事にアリアドまで送り届けてちょうだい」
オニユリの言葉に御者は黙って頷き、馬に鞭を入れる。
ジルグと同じ公国領のアリアドには今もオニユリの館があり、幼い子供らが彼女の帰りを待っている。
さながら孤児院のようなそこに、この男児も送り届けるのだ。
オニユリの欲求を満たすための要員として。
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オニユリの館に向かう途中、シジマは1台の馬車とすれ違った。
手綱を握る御者の男は公国民だ。
市民らが食い扶持を失わぬよう、彼らの経済活動は出来る限り続けさせる。
占領統治する側は市民らから食糧などの提供を受けることもあり、市民らが困窮すれば王国兵らも困るのだ。
ゆえに王国兵らが個人的に買い物をする際は、市場の適正価格で代金を支払うようにチェルシーは部下たちに通達している。
もちろんそれが完全に守られているとは言えないが、それでも上から厳しい監視の目を向けるようシジマはチェルシーから命じられていた。
「市民の経済活動は一応続けられているようだな」
近くジャイルズ王本人がこの公国を訪れるのではないかと噂されていた。
現在は占領状態にあるこの公国を、戦勝国である王国が併合する。
あるいは属国として従える。
そうした宣言をジャイルズ王が公国の首都ラフーガで行うのではないかと囁かれていた。
おそらくそれは近いうちに実現するだろう。
それをもって戦争が終結となる宣言だからだ。
「あら。兄様。見回りですか? お疲れ様です」
シジマがちょうど考え事をしながら歩いていたら、いつの間にかオニユリが館から出て来て声をかけてきた。
シジマは顔を上げて妹の顔を見る。
「オニユリ。おまえに聞きたいことがある」
「そうですか。私もちょうどご報告に伺おうと思っていたところですわ。実は悪漢を4名ほど撃ち殺しましたの。ひどい輩たちで、女性を襲って殺していたので」
オニユリの話に思わずシジマは言葉に詰まった。
「……そうか。やはりあの遺体はおまえが。ちょうどそのことを聞きに行こうと思っていた」
「あら。そうでしたか。奇遇ですわね」
「あの死んだ市民の女だが……1人だったのか? 子供はいなかったか?」
「子供? いえ、見ておりませんが……彼女には子供がいたのですか? それはお気の毒に……」
そう言うオニユリにシジマはカマをかけてみた。
「殺された女と子供が一緒に逃げているのを見た者がいるらしくてな」
「そうですか。私が見かけた時にはすでに女性は殺されていて、子供の姿はどこにもありませんでしたわ。はぐれてしまったのかしら……いずれにしてもお気の毒ですわね」
「そうか。しかし珍しいな。おまえが義憤に駆られてゴロツキを撃ち殺すなんて」
そう言うシジマにオニユリは肩をすくめてみせた。
「別に正義感に目覚めたわけではなくてよ。歩いていたらゴミがあったから気まぐれに片付けただけ。そんなものですわ」
「そうか。オニユリ。しかし出来るだけ単独行動は控えろ。ここは俺たちを憎む者たちの街だ。恨みも買っている。巡回の際は必ず俺を誘うか、他の部下たちを連れ歩け」
「ええ。ご心配おかけいたしましたわ。兄様」
そう言って涼やかに微笑むオニユリに、シジマはそれ以上追求はしなかった。
妹が裏で何をしていようと、自軍の害になるようなことがなければ構わない。
王国軍がこの公国を完全に手中に収める日は近く、その暁にはこの戦に大きく貢献したココノエの一族はさらに重用されるだろう。
シジマは一族の安寧がすぐそこまで近付いていることを感じ、それでもなお気を引き締めるのだった。
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「王国兵の巡回が多いな」
林の中の木陰から遠く、ジルグの街影を見つめながらジャスティーナはそう言った。
すぐ隣で同じく前方に目を凝らすジュードも言葉を重ねる。
「ジルグが陥落したのは本当らしいな。公国はもう抵抗する力が残っていないだろう」
彼らの見つめる先では、王国旗をはためかせた一団が物資を運ぶために車列を成している。
おそらくジルグを占領した王国軍の分隊が、近隣の村々から食糧を徴収しているのだろう。
「ジュード。念のため探ってくれ。あそこに黒髪術者がいるかどうか」
「こっちが気付かれる恐れもあるぞ」
「気付かれたなら、すぐに逃げればいい。しかし出来れば気付かれないようにやってくれ。おまえなら出来るだろう?」
平然とそう言うジャスティーナにジュードは溜息をついた。
「無茶言ってくれるぜ。で? 黒髪術者がいたらどうするんだ?」
「とっ捕まえてエミルの居場所を吐かせる」
本当に何でもないことのようにそう言うジャスティーナに、ジュードは仕方なく言われた通りにする。
彼女が無茶を言うのは毎度のことなのでさすがにもう慣れていた。
ジュードは慎重に意識を前方に飛ばして気配を探る。
意識が宙を舞い、遥か前方に見えるジルグの街影がグングン近付いてくる。
ジュードの頭の中で彼は今、ジルグの上空を風のように飛び回っていた。
黒髪術者の気配は感じられない。
こちらの気配を悟られないよう空の高い位置から慎重に確認を続けた。
3分ほどで結論は出る。
「ふう。おそらく黒髪術者はいない。意図的に力を抑えていない限りな」
「そうか。つまらんな」
内心で安堵するジュードとは対照的にジャスティーナは憮然としていた。
そんな時、王国兵らが去っていった前方から逆に1台の馬車がこちらに向かってくる。
ジャスティーナとジュードはサッと再び木陰に身を隠して馬車を見つめた。
王国旗をはためかせたその場車の御者台では、公国市民と思しき中年の男が1人で手綱を握っている。
王国旗をはためかせているのは、王国が占領している今の公国ではそうすることで安全を得られるからだろう。
そして……2人は見た。
幌付きの荷台の後ろから飛び出した小さな手が弱々しく宙をかいているのを。
その細さや短さから見るに、子供の手のようだ。
それを見た2人は頷き合い、即座に林から飛び出して駆け出した。
「フッ!」
ジャスティーナは走りながら短弓を取り出し、前方に向かって放つ。
その矢は前方を去っていこうとしている馬車を引く馬の手前の地面に突き立った。
馬は驚いて急停止し、前脚を上げて嘶く。
「うわっ!」
突然のことに御者は慌てて手綱を引き、馬を落ち着かせようとする。
その際にジャスティーナとジュードは馬車に追い付いた。
2人は阿吽の呼吸で二手に分かれ、ジュードは後方の荷台に、ジャスティーナは御者台に飛び込んでいった。
いきなり赤毛の女が乗り込んできたことに御者は驚いて声を上げる。
「な、何だ? いきなり何を……」
そう言いかけた男の胸倉をジャスティーナは掴む。
そしてそこで荷台に飛び込んだジュードが幌の前方の遮光布を左右に引いた。
すると……荷台にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた荷物の間に隠れるようにして、数名の子供が乗せられていたのだった。




