第147話 妊婦生活の幕開け
◇ 王妃・エデリーン ◇
あたたかなベッドの中、うとうととまどろんでいた私は、そっと体に触れるあたたかな手の感触で目を開けた。
「ん……」
やわらかな陽光が目にまぶしい。ぼんやりとした頭で横を見ると、大きな瞳を潤ませたアイがベッドの上で私にぴっとりと寄り添っていた。
「おはようアイ。ママ、また寝ちゃってた?」
小さな頭を撫でると、柔らかな髪がくしゃりと指に絡みく。アイが嬉しそうに目を細めた。それからすぐさま心配そうな顔になる。
「うん。……ママ、きょうはだいじょうぶ? きもちわるくない?」
「今日はね、調子がいいみたい」
「ほんとう!? よかったぁ!」
私の返事を聞いた瞬間、アイが喜びの声とともに私をぎゅうっ! と抱きしめる。
私はふふっと微笑んで、小さな体を抱きしめ返した。
――アイがこんな風に気を使っているのも、すべて私の妊娠が関係していた。
魔王アンフィメッタ――もとい、ローズ様を密かに見送った直後に私の懐妊が判明した。
この国の王であるユーリ様と、王妃である私の待望の……第二子と言うべきかしら? 第一子はアイだものね。
とまぁ、そこまではよかったの。けれど、妊娠で多くの女性が通る茨の道、つまり〝つわり〟が、容赦なく私に襲い掛かったのよ!
◆
最初はかすかな違和感から始まった。
いつも通りハロルドが焼いてくれた、普段ならおいしそうと感じるパンの匂いがなぜか無性に気になって。
気のせいかしら? と思いつつスープを飲み、朝ごはんのハムエッグを口の中に入れ――と思った次の瞬間、胃の奥が波打って、強烈な吐き気がせりあがってきたの。
「うっ……!」
咄嗟に立ち上がったものの、そのままなすすべもなく私は床を汚してしまった。
人前で嘔吐するなんて大人になって初めてだったから、とても恥ずかしくていたたまれなかったわ……。きっとアイもびっくりしたでしょうね。不可抗力とはいえ、申し訳ないことをしたわ。
「エデリーン!!!」
すぐさま血相を変えたユーリ様がすっ飛んでくる。
「ママ!」
「エデリーン様!」
アイや侍女たちもだ。
けれど、その時の私はまともに返事すらできなかった。
「う……ううっ……!」
なぜならまるで胃が別の生き物になってしまったかのように、激しい動きを繰り返していたのよ。
「医者を!」
ユーリ様の叫びに、すぐに侍女のアンが走っていく。
「エデリーン、大丈夫だ。すべて吐き出してしまえ」
言いながらユーリ様の大きな手が、私の背中を強くさする。
その手のあたたかさにほっとしつつも、胃は止まることなく暴れ続けていたわ。そして私は、それに抗う術を何ひとつ持っていなかった。
「これは――つわりですね」
「つわり?」
その後やってきた医者に告げられて、私はぽかんとオウム返しした。
「ええ。懐妊初期ですから。しばらくは続くかもしれません」
そして医者の予告通り、私はこの日から、ベッドから起き上がるのもままならなくなるほど一日中つわりに苦しむはめになってしまったのよ。
◆
「うぅ……おぇっ……」
その日も私は盛大に嘔吐していた。
といっても出てくるのは水っぽい液体ばかり。既に吐きすぎて、胃の中に固形物などこれっぽっちも残っていないのだ。
にもかかわらず、吐き気だけは容赦なく私に襲い掛かってくる。
もう何回目になるかわからない汚れた桶を片付けてもらい、私はぐったりとベッドに横になった。
「つわり……話には聞いたことはあったけど、こんなにつらいものだったなんて……」
心配そうにこちらを見るアンにぼやきながら、私はぼんやりとサイドテーブルに置かれたお皿を見る。
そこには『せめて何か食べないと』と心配したユーリ様が用意してくれたクラッカーが手つかずのまま残っている。
けれどそのたったひと口でさえ、乾いた小麦の香りが鼻をついた瞬間、私は耐え切れず桶に顔を埋めてしまうのよ。
何も食べられず、何も飲めない。
水ですら、ひとくちでも胃に入ろうものなら容赦なく押し戻してくるのだ。
お医者様がつわりを抑える薬というものを処方してくれたけれど、それすらも戻してしまうので、もうお手上げだった。
「ねぇ……ママは……びょうきなの……?」
そばにいたアイが、大きな瞳を潤ませてじっと私を見つめる。私は心配をかけまいと、なんとか微笑んでみせた。
「大丈夫よ。これは〝つわり〟と言って、病気ではないの。そうね……ママの体が、赤ちゃんを産む準備をしているのよ」
……そう、つわりは病気ではないのよ。
逆に言えば、病気じゃないのにこんなにつらいなんて信じられる?
女性たちみんなが、子を産むたびにこんな茨の道を通ってきたなんて……! 尊敬しかないわ!
私のお母様なんて、四人も子を産んだのよ? お母様や、それから先に子を産んだ妹のジャクリーンが急にとてつもなくすごい存在に思えてきたわ……!
「あかちゃん……? ママ、あかちゃんうむの?」
「ええ、産む……と思うわ」
アイに聞かれて答えたものの、いまいち自信が持てなかった。
つわりのせいで苦しんでいる真っ最中なものの、じゃあこれで新たな命が自分に宿っている実感があるかどうかと聞かれると……正直よくわからない。
まだお腹が膨らみ始めたわけでも、鼓動を感じるわけでもないんだもの。
私がそう思っている横で、アイも一生懸命何かを考えている。
「アイは……アイは……」
アイはもともと妹か弟を欲しがっていたから、てっきりもっと喜ぶのかと思っていたけれど、その表情は明るくない。
「あかちゃん、うれしい……けど、あかちゃんのせいで、ママがくるしいのはやだな……」
言いながら、またアイがぎゅっと私に抱き着いてくる。
そう言ったアイは、今にも泣きだしそうだった。
「アイ……」
私はアイの頭に優しくキスをしてから、くしゃりと頭を撫でた。
「大丈夫よ。つわりはずっと続くものではない……はずよ。しばらくすれば落ち着いて、また元の元気なママに戻れる……はずよ」
「ほんとう!?」
アイががばりと起き上がる。
「じゃあアイ、ママがはやくげんきになりますようにって、めがみさまにおねがいする!」
言いながら、私の手をぎゅっと握ってくる。
その言葉を聞きながら私は密かに微笑んだ。
ふふ……アイもすっかり、この国の子になったのね。
アイの口から『かみさまにおねがい』じゃなくて『めがみさまにおねがい』なんて言葉が出てくるようになるなんて。ホートリー大神官が聞いたらきっとニッコニコよ。
それに小さな手のあたたかさを感じていると、まるで本当に体が楽になるよう。つわりは病気ではないから『浄化』は通じないはずなのだけれどね。
王妃特権としてホートリー大神官の加護も受けてはいるのだけれど、つわりはかわらずだった。
子を産むという生命の神秘の前では、聖女の力も神官の力も、あまり意味をもたないのかもしれない。
……そういえば〝才能開花〟のスキル以来、アイには新しいスキルは芽生えていない。王宮内ではもう聖女としてのスキルはすべて目覚めてしまったのか? という話も出ているけれど、アイにはその方がいいのかもしれないと私は思っているわ。
もちろん、たくさんスキルが芽生えるのは聖女としてとてもいいことよ?
でもね、スキルが芽生えたら芽生えた分だけ、アイの〝聖女〟としての負担が重くなるような気がしていて……。
今のままでも我が国はもう十分に平和だもの。できればこのままアイに、少しでも穏やかに、幸せに暮らしてほしいと思っているの。
考えていると、コンコンコンというノックの音がしてユーリ様がやってくる。
日付変わっていないのでセーフ!!!(多分
忙しい時に限って子どもがインフルにかかるアレ、なんなんでしょうね……(遠い目
そして通称つわり巻ならぬ4巻部分始まりました!小説4巻は3/10発売ですぞ!






