第17話 行ってらっしゃい、姉ちゃん
見送ることにも、少しずつ意味が生まれていく。
遠くへ行く背中を見ながら、人は自分の景色も変えていく。
第二部、最後までお付き合いください。
土曜日の朝、五時過ぎだった。
俺は羽田空港にいた。
姉ちゃんの隣を歩いていた。
姉ちゃんはネイビーのワンピースじゃなかった。
今日は別のコーデだった。
深いグリーンのワンピース。
ベージュのトレンチ。
同じローヒールのパンプス。
今日の行き先に合わせて選んだんだろう、と俺は思った。
奄美の空気に合わせた色だろうか。
俺には分からないけど、たぶんそうだ。
姉ちゃんはいつも、行き先に合わせてコーデを選ぶ。
それを知ったのは、最近だった。
* * *
自動ドアをくぐった。
空港の空気が流れ込んできた。
瞬間、姉ちゃんの空気が変わった。
俺はそれを、もう何度か見ていた。
空港に入った瞬間に、別人になる。
歩く速度が上がる。背筋が伸びる。目の焦点が変わる。
でも今日は、隣にいた。
その変化を、真横で見た。
かっこいいな、と思った。
正直に言うと、そう思った。
* * *
保安検査場の前に着いた。
ここから先は、乗客しか入れない。
俺はここで見送ることになる。
姉ちゃんが列に向かいながら、俺を見た。
「じゃあ」
「うん、気をつけて」
姉ちゃんは頷いた。
列に並んだ。
トレイを取った。
バッグを置いた。
トレンチを脱いで畳んだ。
パンプスを脱いだ。
ゲートをくぐった。
荷物を回収した。
パンプスを履いた。
トレンチを羽織った。
四十秒だった。
姉ちゃんが制限エリアの中に歩いていく。
俺はその背中を見ていた。
行ってらっしゃい、と思った。
声には出なかった。
でも、確かにそう思った。
* * *
姉ちゃんが消えた。
俺はしばらく、その場に立っていた。
今日も、保安検査の向こうに消えた。
今日も、制限エリアの中に入った。
今日も、俺には見えない世界に行った。
でも今日は、少し違う気がした。
見送りに来る前は、姉ちゃんは芋ジャージで床に転がっていた。
それが、空港に入った瞬間に別人になる。
その落差を、俺は今日もまた目の前で見た。
でも今日は、怖い感じがしなかった。
初めて見たときは、なんか遠い感じがした。
知らない人間を見ているような感じがした。
でも今日は、姉ちゃんだと分かっていた。
あれが、姉ちゃんの本当の姿だと分かっていた。
* * *
ロビーの窓際のシートに座った。
窓の外に、朝の羽田が広がっていた。
まだ暗い。でも、飛行機が動き始めている。
整備士が機体の周りを歩いている。
給油車が動いている。
姉ちゃんは今頃、搭乗口にいるだろうか。
コーヒーを飲んでいるだろうか。
フライトプランを確認しているだろうか。
あの保安検査の向こう側で、姉ちゃんは姉ちゃんのペースで動いている。
俺にはその世界が見えない。
でも、そこにある。
姉ちゃんがいる。
* * *
空が明るくなってきた。
東の空がオレンジに染まり始めていた。
夜明けだ。
窓の外に、離陸する飛行機が見えた。
滑走路を走って、浮いた。
どんどん高度を上げていく。
JSNの機体だった。
あれかもしれない、と思った。
あの機体に、姉ちゃんが乗っているかもしれない。
俺は窓の外を見ながら、機体が小さくなっていくのを見ていた。
雲に入った。
消えた。
姉ちゃんは今、雲の中にいるだろうか。
もうすぐ雲を抜けて、青い空に出るだろうか。
俺には見えない。
でも、その先に空がある。
姉ちゃんが好きな空が、ある。
* * *
帰りの電車に乗った。
座席に座って、窓の外を見た。
街が流れていく。
今日も、見送った。
第一章で初めて見送ったときは、なんか変な感じがした。
姉ちゃんが遠くに行った感じがした。
でも今日は、違う。
姉ちゃんは空にいる。
俺は地上にいる。
それだけだ。
姉ちゃんが空で生きているように、俺は地上で生きている。
それが、今の二人の距離だ。
でもいつか、俺も空に行くかもしれない。
姉ちゃんと一緒に、あの保安検査を抜けるかもしれない。
雲を抜けた瞬間の空を、見るかもしれない。
まだ分からない。
でも、そう思った。
電車が駅に着いた。
俺は立ち上がった。
今日の姉ちゃんは、奄美の空を飛んでいる。
俺には見えない。
でも、飛んでいる。
それでいい。
今は、それでいい。
* * *
第二部 了
空を飛ぶ人と、地上から見送る人。
交わらないようでいて、二人は少しずつ同じ空を見始めていました。
第二部、ありがとうございました。




