K
Kさんは私の隣室に住んでいて、市内の中学校に勤めている。担当科目は体育であるそうで、服の上から分かるほど筋肉質だ。
見た目の屈強さとは裏腹にKさんは柔和な人柄で笑みを絶やさない。コーヒーには一家言あり、中米産のコーヒー豆を決まった店から仕入れているそうだ。私が作り過ぎた料理のおすそ分けに訪ねると、決まって「コーヒーを飲んでいきませんか」と誘ってくれる。
そのKさんを久しく見なくなったと気付いたのは、いつものごとく作り過ぎた煮物をタッパーに詰めている時だった。
ちょっと廊下に出ただけで、冬の風に吹かれて凍えそうだった。私はコートを着てこなかった怠慢を呪った。
ドアホンを鳴らすと、しばらくして「どなたですか」とくぐもった声が聞こえてきた。名前と用件を伝えると、「少し待っていてください」とだけあった。
やあやってドアを細く開けたKさんの見目は、普段の健康的な雰囲気からは想像できないほどやつれていた。頬がこけ、髭は生えるがままに雑然としており、そして体臭とそれをコロンか何かで誤魔化そうとしたようなにおいが鼻をついた。
「いつもありがとうございます」
腕だけを伸ばしてタッパーを受け取ると、お礼もそこそこに扉を閉めた。普段ならコーヒーに誘われるか、そうでなくても世間話の二つか三つはするところだった。
訝しく思いながら私は自室に帰った。
件のKさんから直々にコーヒーを誘われたのは、その3日後のことであった。
コーヒーだけを誘われるというのは、実は初めてだった。
「わざわざすいません」
出迎えたKさんは、やはり先日と同様にやつれて見えた。ビッグシルエットのTシャツに綿のパンツというスタイルは、あり合わせの服を急いで着て間に合わせた感じがあった。
廊下の壁際には段ボールやビニール袋に入ったゴミが積み上げられていて、崩さぬよう通るのが難しそうだった。
「実は、見ていただきたいものがありまして」
コーヒーという名目だったが、それを淹れることはなく、出し抜けにKさんは私を誘った。
リビングルームに続く扉を開けると、そこには一面に広げられた玩具があった。玩具といっても、ミニカーや電池で動く電車とレールのように小さなもの、人形のように動かないもの、ジャングルジムや滑り台といった、未就学児の遊ぶような大型のものまで様々だった。
そして、それらの玩具の真ん中で、遊びに興じている幼子の姿があった。
少年とも少女ともつかない容姿の子だった。可愛らしい顔立ち。前時代的なシャツと裾が膨れた半ズボンを着用していて、どことなくこの世のものでない神秘的な雰囲気があった。
「この子、どうしたんですか」
Kさんの子という選択肢は始めから無かった。
「実は、こういう訳なんです」
そう前置きしてKさんは話し始めた。
旅行に行った先のことです。
宿のチェックアウトが早くて、帰るまで時間があるように思われたので、最後に町を見て回ることにしました。
泊まっていたのは鄙びた温泉街で、かつては興隆を極めたんだと思います、前時代的な風俗や居酒屋の立て看板が並んでいて、寂れた雰囲気がそこはかとなく漂っていました。
ちょっとだけの散策のつもりだったのですが、気付いたらだいぶんと中心地から離れてしまっていました。道路の舗装は随分と整えられていないようでした。周りの建物は、朝とはいえ早朝とも呼べない時間にしては人の気配がしませんでしたし、南側に山を負っているせいかどことなく薄暗かったのを覚えています。
そろそろ引き返そうか、そう思い始めた時、ふと声が聞こえた気がしたんです。「ねえはやくあそぼうよ」──そう聞こえました。見回すまでもなく、近くの一軒家の窓から、こちらをじっと見ている視線があるのに気がつきました。
それがこの子です。
驚きました。一見して幼い子どもであることは分かりましたし、人が暮らしていること自体が想像だにしないことでしたから。
私はごく自然にその子の方に足を向けました。不気味? ええ、そうは感じなかったですね、いま考えるとどうにもおかしいですが。
窓は開いていました。「親はどうした」「ひとりなのか」。そういった言葉をかけたと思います。でもこの子はニコニコと笑ったままで何も喋ってくれない。ただプラモデルだけを持って私に掲げてくるんです。
部屋を覗き込むと、がらんとしていておもちゃも家具もありませんでした。唯一あったのは古い化粧箪笥だけでした。
私はネグレクトを疑いました。いえ、これは後付けかもしれません。だってネグレクトと思ったなら、ただ通報するか人を呼べば良いのですから。
私は玄関から入って、がらんどうなその一軒家から子どもを抱え上げました。
着ているものはこの通り少し古めかしくて、町並みにはよく似合っていました。着替えがないかと思って箪笥を開けましたが、同じ上下が数セットだけ入っているだけでした。
幸い、荷物の量はリュックサックに詰めることができる程度でした。
「一緒に来ないか」ともちろん尋ねました。その時だけは、この子は満面の笑顔で、喜びを前面に出して頷いてくれたんです。
私はこの子を車に乗せて連れて帰りました。
それからは玩具を注文したり料理を作ってあげたりと忙しいんです。
仕事に行く暇なんてありません。
そう語るKさんの表情はまさに恍惚そのものだった。
変だわ。誘拐じゃない。
そんな言葉も喉元まで出かかったけれど、結局私はそれを口にすることはなかった。
子どもがなるほどあまりにも庇護欲を唆る、夢中にさせるような何かを持っていたからだ。
ただ遊んでいるだけだ。しかし見ていて飽きることのない何かがある。たとえこの子が食事をとっていたとしても、眠っていたとしても、私は食事もとらず眠りもせずに見てい続けることができるだろう。
「ではこれで」
Kさんは私を押すようにして部屋から出そうとした。
独占するつもりだ。許せない。そう思った。
「え、ま、まだっ」
私は咄嗟にKさんの腕を掴んだ。
自分で自分の動きに驚いた。
Kさんは深刻な表情になった。
「あなたもですか」
「え?」
「離れたくなかったでしょう」
確かにそうだ。
Kさんの問いかけに私は頷かざるを得なかった。
「どうしても魅せられてしまうんです。自分でもおかしなことだって分かっている。でも離れがたい。職場にも嘘をついたりしてもうずっと休んでしまっている。このままじゃまずい、それは分かっているんです。でもどうすることもできないんですよ」
まくしたてるKさんは必死そのものだった。
ねえはやくあそぼうよ。幻聴が──きっと幻聴に違いない──聞こえた。
気が狂いそうになった。
Kさんもまた、苦痛に顔を顰めて涙と怒りを堪えるような表情だった。
「助けてください……」
Kさんだ。信じられないくらいか細い声だった。
まもなく、Kさんは着の身着のままで遠くのホテルまで逃げ込んだと聞いた。近くにいなければ、見なければずっと良いらしい。
「幾分かマシになりました」
憑き物が落ちたような顔というのはこんな顔なのだろうか。目は血走り頬は痩け、病気と言われても納得しそうだった。
Kさんの部屋は、散らかったままだった。ゴミ袋が溢れんばかりで、口を縛っていても中の生ゴミから漏れ出す腐敗臭を止めることが叶わない様子だった。
私は買ってきたおもちゃを幼子に与えた。少しキョトンとした顔をしてみせて、それから喜色を満面にたたえる。不思議と見ていて飽きない。一緒に遊ぶでもなく、ひとりでおもちゃと戯れている様子を眺めてコンビニの弁当と安酒を身体に流し込むのは、この世のものとは思えぬ至上の快楽に思えた。
初めはベランダを伝って行き来していたKさんの部屋に、私は次第に入り浸り、あたかも元からの住人のように生活し始めた。
ゴミを出すのも億劫になり、使わなくなった自室やベランダにまとめた。
仕事も手につかなくなり、出勤した時から退勤のことを考え、ミスばかりするようになった。同僚と会話をしている時間さえ、この時間であの子を眺めて過ごすことができるのにというストレスに変わった。趣味代わりのランチ開拓も無くなり、人が変わったようだと影に陽に言われた。
溜めていた有給休暇は瞬く間に無くなった。そればかりか生理だの熱があるだの手を替え品を替え休みを取得し続けた。
これではいけない、そう頭のどこかではわかっていた。
けれどもあの子を見るたびにそれを忘れ、あの子と別れるたびに耐えがたいほど苦しくなった。
Kさんが訪ねてきたのは、そんなことが続いたある日のことだった。
「連絡がないから心配して」
そう怖い顔で言うKさんの顔を見て、私はすぐに嘘だと分かった。
実際、Kさんは私が当たり前のようにKさんの部屋にいるのに、何も咎めることも疑問を呈しさえもしなかった。
「この子を見たくなったんでしょう?」
我ながら蠱惑的な言葉に、Kさんは躊躇しながらも頷いた。
「仕事は?」
「クビになりました。どうも手につかなくてね」
「あら奇遇ね」
私もちょうど無職になったところだった。片時でもこの子に会えないのなら、そんなものどうだってよかった。
「ねえはやくあそぼうよ」
何ヶ月かして、管理会社が部屋を開けた時、そこには腐敗しきった成人二人分の遺体と、電気の落ちた部屋の真ん中でおもちゃと戯れる子の姿があった。
子どもは大人たちを見て、喜色を満面にたたえ、小さな口を開いた。
K is for KINDERGARCHY




