8.彼はアヴロラと呼んだ
様々な感情が胸を支配した日から3日経ち、私は再びアルの屋敷の前に立っていた。
あの時とは異なり、今度は一人きりで。隣にシレン様はいらっしゃらない。
私は大きく息を吸い、静かにゆっくりと息を吐いた。
落ち着いて私。何も怯える事なんて無い。怖がる事なんて無い。怒る事も悲しむ事も、何も無いわ。
そう、根拠の無い慰めを己に説く。
現実は私の想像なんかを軽々と超えてくるものだと知っていたのに。
「いらっしゃいアヴィ、そちらに掛けてくれ」
通された馴染みの応接間。馴染みのあるソファに腰を下ろし、正面に座るアルを窺い見た。
特にいつもと変わらない、凛々しくて少し不機嫌そうな顔。3日前のように変に高揚はしていないみたい。
これなら言えるだろうか。アルに、本当の気持ちを。
『奴隷を持たないで』と、今更ながら言えるだろうか。
先日兄が繰り返した言葉が頭を過る。
『奴隷を買うんだ。やられたらやり返さなきゃ』
けれど私はやっぱり、奴隷を買いたくなんかない。アルにも買って欲しくなんかなかったし、今だって早く手放して欲しいと強く思っている。
アルへやり返したくなんかない。そんな事をさせないで。ねえ、アル……お願いよ……。
「……アル、わたくし……」
「アヴィ、思ったんだが」
「え?」
「俺達ももう7歳。まもなく8歳の誕生日が来る。そろそろ大人な対応を学んでいく時期ではないか?」
「大人な、対応ですか……?」
「ああ。愛称で呼び合うのはやめよう、アヴロラ」
……今、なんて言ったの……?
「もう子供じゃないんだ。アヴロラも淑女として恥ずかしくない行動を心掛けてくれ」
『アヴロラ』と、彼はたしかにそう呼んだ。
私が嫌いな名を、二度も呼んだ。
ついさっきまで『アヴィ』と呼んでくれていたその唇で、残酷なまでに冷たく言い放った。
胸の中が凍てつくように冷えていく感覚がする。パリパリと外側から段々と凍っていく幻聴まで聞こえる気がした。
だから、遠くから大きな足音が近づいて来ている事に気が付けなかった。
「アルさまー!」
バンッ、と大きな音を立てて開かれた扉から、満面の笑みを湛えた明るく元気な少女が走り込んで来た。
貴族の家では考えられないほど大きな声と音を立てて。
「リスィ、走るな。はしたないぞ」
「ごめんなさい、早くアル様にお見せしたくって!」
そこには何枚もの上質な紙の上に、隅々まで小さく何十個もの単語が書かれていた。高々と誇らしげに紙を掲げる少女を、私はぼんやり見た。
「わかったから大声を出すな。淑やかにしろ」
「『しとやか』?」
「落ち着いていて、上品な様だ。分かるか? 上品」
「『じょーひん』?」
「ああ、アヴロラのような女性のことだ」
また、アルは『アヴロラ』と呼ぶ。
私は目尻に自然と溜まる水分が流れ落ちぬよう必死に、それでいてひっそりと耐えた。
この間とは比べられないほど流暢な言葉を発している少女の大きな瞳が一瞬、そんな私を見遣るも、すぐにアルへと視線を戻した。
「ふーん? わたし、勉強してます!」
「ああ、静かにな」
「はい!」
嵐のように煩い少女がいなくなると、部屋の中はまた冷え切った真冬の湖のようだった。
そう思っているのは私だけかもしれないけれど。
「すまない。まだアヴロラに見せられるまでにはなっていないんだ。もう少し時間をくれないか?」
「あの奴隷には……愛称を許していますの……?」
あの少女には『アル』と呼ぶことを許しているというの?
私の事は『アヴロラ』と呼ぶくせに。
「あ、ああ。リスィは何度注意しても忘れてしまうからな、もう諦めた」
その時、彼は小さく笑みを零した。苦笑にしては柔らかで、微笑みよりも小さな、雫のようにぽとりと零れ落ちた笑み。彼女を思って零れた笑み。
その笑みに、私はとてもつもない焦りを覚えた。そんな顔をしないで、と心が叫ぶけれど声にできない。
「……なら、それならばわたくしもっ……!」
私も呼んだっていいでしょう?
貴方をアルと。
私をアヴィと呼んでくれてもいいでしょう?
今まで通りに、これまで通りに、変わらないままで。
「アヴロラ、君なら分かってくれるだろう?」
いつもと変わらぬ不機嫌そうな顔で、いつもと同じ凛々しい声音で、彼は窘めるようにそう言った。
それが、答えだった。
「……え、ええ、そうね。わたくし達は、大人にならなければいけないものね……」
辛うじて絞り出せた声は、ぼんやりとする思考とは裏腹にしっかりとした音を口から放っていた。
この日以来、アルに『アヴィ』と呼ばれる事は二度となかった。