9.過ぎ去りし想い シレンティウム王子
とある小さな王子の思い出
生まれたばかりの頃、死んだように泣き声をあげない赤子だった僕は、そのせいで古い言葉で『静寂』を意味する『シレンティウム』と名付けられた。
シレンティウム王子殿下。
それが僕の名前。
僕が生まれた国では、流行病で多くの子供達が命を落としたらしい。僕は奇跡的に病に罹らず健やかに育って、すくすくと4歳になった。
当時の王宮では次代の王様を誰が継ぐのかで言い争いが絶えず、毎日そこかしこで喚き声が聞こえていた。一国の王宮としては今思えばとても恥ずかしい事かもしれないけれど、その頃の僕はそれが当たり前で、廊下で大臣達が大声で口論していても気にも留めていなかった。
けれど、大臣達は僕を気に掛けていた。それもそのはず、僕を次代の王様に祭り上げて、自分達の地位を盤石なものにしたくて仕方がなかったらしい。
大臣達は僕を見つける度に、僕に「貴方は王になるべきお方だ」と言う。それはご機嫌伺いという名の洗脳だった。
僕はといえば、そんな汚い大人達に辟易していて、4歳にして早くも心は荒んでいた。
幸運な事に僕の家族仲は良好で、王位継承権第一位である姉様に愚痴を零す事で、僕は辛うじて性格が捻じ曲がる事なく成長できていた。
毎回黙って最後まで愚痴を聞いてくれる優しい姉は、その時既に内々の婚約者がいて。成人となる十六歳の誕生日の日に結婚する事が決まっていた。
本来、王になる者は未婚という慣わしだったけれど、女性であるため例外的に許されたそうだ。
姉様は僕より十歳年上。つまり姉様に甘えられるのはもう2年も無い。それが子供の頃の僕の悩みだった。
姉様は僕の愚痴を聞き終わると必ずこう言う。
「シレンにも素敵な運命の出逢いが必ずあるわ。その時は私が協力するからね」
そう言うと、決まって婚約者との惚気話が始まる。僕は話半分にそれを聞く。
姉様の婚約者は、同い年の公爵家令息。我が国の貴族の子供は必ず通わねばならない学園で、運命的な出逢いを果たしたらしい。
「運命の出逢いってなんですか?」
と何度も尋ねたけれど、その度にはぐらかされて聞きそびれた。
運命なんて本当にあるのだろうか?
少なくともこの時の僕は微塵も信じていなかった。それくらいには、冷めた子供になっていた。
そんなある日のお茶会で、僕は運命に出会った。
定期的に王宮の庭園で行われるお茶会では、いつも通り大人達が微笑みながらくだらない話をしていた。隅の目立たない席で黙ってお茶を飲んでいても、大人達のほうから嫌でも僕へ擦り寄って来る。
「王になれ」と囁いて来る。
鬱陶しい大人達から逃げるため席を立ち、僕は花園の中を走った。
走るなんてはしたないけれど、この時の僕はその場から逃げたくて我慢できなくて、躊躇わずに走って走って走った。
前を見ずにひたすら足を動かしていたら不意に馬の声が聞こえて、ようやく僕は立ち止まった。
走り着いた先は馬車の停留所だった。
そこに、子供がいた。僕と同じくらいの背丈の女の子が、ちょうど馬車から降りてきた。
早熟な僕はすぐにピンと来た。
あの子はきっと僕の婚約者候補なのだろうと。
だって、僕と歳が近い子供は少ない。今まで一度たりとも王宮で僕以外の子供を見たことがない。
だから、王宮のお茶会に来るほどの女の子は、僕の婚約者としかありえない。だって、そうとしか考えられない。だからあの子は僕の婚約者だ!
初めて見る歳近い女の子に、まだまだ子供だった僕は浮かれてそう断定した。
逸る気持ちを抑える事もせず、今思うととても不躾に女の子をじろじろ見た。
光に照らされ何色にも輝く長い髪と、同じく光の加減でその色を変える瞳。
我が国の人間の髪色と眼の色は他国に比べて色彩豊からしいけれど、それにしても珍しい色だった。
ふと僕は、その稀な髪色と瞳に『オーロラの少女』という噂話を思い出した。
僕が1歳になる少し前、王都の空に七色の光が降り注いだという。
見たことのない空の色と光に、天変地異の前触れか、何かの呪いかと国中が大混乱になったらしい。実際何年か前から流行病で多くの国民が亡くなっていたから、呪いじゃないかと騒がれたそうだ。
そんな渦中に生まれた少女がいたと、その少女はオーロラをその身に宿したのだという噂。
「お初にお目にかかります。わたくしは……」
彼女の挨拶の言葉が耳を素通りしていった。
僕は彼女のその動かぬ顔に見入っていた。
そう、その子の表情はピクリとも動かなかったんだ。
僕は恥ずかしい話、これまで生きてきた4年間という短い時間の中で、『無表情』の人間というものを見た事がなかった。
誰も彼も、僕の前では笑みを浮かべ、笑みを零し、笑みを作る。あるいは不機嫌そうな顔を浮かべるか、怒った顔を浮かべるか、僕の笑顔に見惚れてポーっとするか。それしか無い。無いはずだった。
けれど目の前の女の子は、そのどれでもない。
笑みも怒りも不機嫌もポーもない。
まるで心のない人形のように、顔が動かない。
なのに、人間と同じように喋っている。
怖い。
正直な最初の感想はそれだった。
幸いな事に婚約者だと思ったその子は、姉様の婚約者の妹さんだった。ただの僕の早とちりで心底ホッとした。
王家である僕の家系は、優秀な血を受け継いでいく義務がある。それと同時に、内乱を防ぐために一つの貴族を優遇してはならない。そう、決まっている。
だから姉様が彼女の兄と婚約しているなら、僕が彼女の婚約者になる事はない。
初めてゾッとした人間と一生を共にするなんて、それこそゾッとする話。僕は姉様に心の底から感謝した。あの女の子の兄を選んでくれてありがとう、と。
初めて出会ったお茶会から、僕はその女の子とよく会うようになった。正確には、会わされた。
歳が近い子供同士の交友というものを学ぶ時期だと親や教師が判断し、女の子側の保護者も同意見だったらしい。
だから僕は無表情な女の子とお茶会の度に顔を合わせて会話を交わした。
女の子は『アヴロラ』といった。
「ねぇアヴロラ、君のお兄さんってどんな人?」
「お会いになられた事があったと存じますが」
「うん。会ったけど、よく分からなくてさ。どうして姉様が惚れたのか」
「それはわたくしの兄への『ぶじょく』ですか?」
「違う違う。それよりも、アヴロラってほんとに3つ? そんな難しい言葉知ってるなんて」
「日々、勉強しております」
「ふーん? 何のために?」
「もちろん、シレンティウム王子殿下とお話しするためです」
「僕のため?」
「いいえ、わたくしのためにございます。シレンティウム王子殿下に無礼を働かないため、いわば『じこぼうえい』ですわ」
アヴロラは一切表情を動かさずに、淡々と話す。僕より一つ年下らしいのに、僕よりも難しい言葉をよく使う。ほんとに3歳?
「……一つ、シレンティウム王子殿下にお願いがあるのですが……」
「お願い?」
「とても差し出がましく厚かましくおこがましいお願いだとは重々承知しているのですが……」
「うん、なんだい?」
この頃にはもう無表情には慣れていたので、彼女がどんなに顔色の変化が無くても気にしていなかった。
「わたくしの事を、『アヴィ』と呼んではくださいませんでしょうか?」
その瞬間、アヴロラの瞳の色がキラリと光った。宝石とも違う、火の光とも違う、星の瞬きに近いけれどそれではない、不思議な光。
まるで、そうまるで、オーロラのような輝き。
僕は見た事がないけれど、きっとオーロラとはこういう光だったに違いない、と強く断言できるほどに、その時のアヴロラの瞳は綺麗に輝いていた。
「……シレンティウム王子殿下? お加減がすぐれないのでしたら……」
「……あ、ああ、ごめん。大丈夫だよ」
どうやら僕は見惚れてしまっていたようだった。その瞳の煌めきを。
「……アヴィと呼ぶのには条件がある」
「なんでしょうか?」
「僕の事は『シレン』って呼ぶ事!」
「えっ」
「イヤとは言わせないよ?」
「ですが……」
「僕とアヴィの仲じゃないか。もうすぐ親戚になるんだし、気の置けない関係になりたいな」
僕が今できる最上級の笑顔を向けた。
けれど、アヴィはいつもの無表情で黙って小さく頷いただけ。
アヴィの前では僕の極上スマイルも全く歯が立たない。
それが、途轍もなくムカムカする。
僕は彼女の瞳が光ったように見えただけで心が弾んだのに、彼女は僕の笑みに何も感じないなんて、これって不公平じゃない?
どうにかしてその顔を歪ませたい。いや笑顔でもいい。なんでもいいから顔が動くところを見たい。
そんな悪戯心が4歳の僕に芽生えた。
「じゃあ早速呼んでよ」
「……シレン王子殿下」
「ちょっと堅苦しいかな。もっと軽い感じでもう一回!」
「……し、シレン様……」
「うんうん、いい感じだね。改めてよろしくアヴィ」
隣に座る彼女へ向けて片手を差し出すと、アヴィの瞳がまたキラリと光ったのが見えた。
「はい、よろしくお願いしますわシレン様」
それから僕は、彼女の表情を引き出そうと様々な試みをした。
精密に作らせたカエルの置物をテーブルのナプキンの下に忍ばせたり、下品な音がなる袋をソファの上に置いてそこへ座らせたり、びっくり箱を贈ったり。
その度に、大きく目を見開くアヴィを見る事ができた。
そうそう、ものすごく苦いお茶を飲ませてようやく『苦々しく歪んだ顔』を見る事もできた。
さあ、今度はどんな悪戯をしよう!
どんな顔を引き出そう!
そう企んでいた僕へ、天罰が下った。
アヴィが、婚約した。
相手は僕の唯一と言ってもいい友人、アルクス・ウィリディス。
こちらも僕の一歳年下とは思えないほど落ち着いている大人びた男。
半年ほど前から交流するようになり、今では貴重な歳の近い唯一無二の友人。
白状しよう。僕はショックだった。
アヴィが僕の婚約者じゃないと分かっていたはずなのに、むしろ婚約者じゃないと分かってホッとしたくせに、僕はアヴィの婚約を知って衝撃を隠せなかった。
勉強には身が入らず、食事の時もボーッとして、常に心ここに在らずになっていた。
そんな僕を見るに見兼ねたらしい姉様から、ある日お茶に誘われた。
この頃の姉様は結婚が数ヶ月後に控えていて忙しい毎日を過ごしているはずだったのに、抜け殻になった弟を放って置けなかったそうだ。
今思い出しても申し訳がない。
僕はどこまでも子供だった。
「シレン、あなた……運命に出逢えたのね!」
この一言で、姉様は僕の置かれている状況を全部把握している事が分かって、僕は憤慨した。
いや、当り散らした。
「……姉様が……姉様があの男と婚約しなければ、アヴィは僕と婚約していたのに! 姉様さえいなければアヴィは僕のものだったのに!」
ああ、これはなんて酷い八つ当たりだろう。
わざわざ僕なんかのために時間を作ってくれた優しい姉へ、僕はなんて酷い言葉を浴びせたのだろう。
こんな不甲斐ない弟を、姉様は一度も怒らなかった。
ただ黙って、僕の拙い罵声を浴びていた。
「……ねえさまが、姉様さえ……アヴィっ……」
最後は泣きじゃくって嗚咽に塗れ、何を言ってるのか分からない僕の言葉を、ずっと聞いていてくれた。
そして、涙や鼻水まみれの僕を、ドレスが汚れるのも構わず抱きしめてくれた。
「……シレン。運命の出逢いがあったら、私が協力するって言ったでしょう? 大丈夫よ、大丈夫だから……」
泣き疲れて眠ってしまった僕には、姉が何と言ってくれたのか聞き取れなかった。
それから間もなく、姉様は無事に婚儀を済ませ、予定通り婿を取った。
僕は結婚式での姉様の幸せそうに笑った顔を見れて、心の底から祝福できるくらいには大人になっていた。
一方、アヴィとアルクスは二人でお茶を飲む仲になっているらしい。
婚約の件はもうどうしようもないと理解していたけれど、潔く引くのは癪だから、よく二人の邪魔をしに行った。
そんな事を1年ほど続けていたある日、いきなりアルクスが変な事を言い出した。
奴隷がどうとか。
国のために奴隷をどうとか。
性奴隷なんて、まだまだ僕らには必要が無い話だと思っていた。
いや、奴隷については国の問題として国会でも議論されている事だけれど、それにしてもなぜいきなり言い出したのだろう?
などという僕の疑問は、即座に解決した。
アルクスは、性奴隷を買ったのだ。
可愛らしく、庇護欲を唆るような弱々しい少女を。
性奴隷を買いたかったから、長ったらしい言い訳に『国の将来』を使ったんだ。
僕はその日まで、アルクスは実直なやつだと思っていた。バカ正直と言ってもいい。真面目過ぎて、最初は冗談すら通じないやつだった。
だからそんなやつなら、僕の唯一の歳近い友人だから、アヴィの相手でも良いと思った。
思うように努力していた。
それなのに、性奴隷?
アルクス、お前は何をやってるんだ?
これはまた八つ当たりかもしれない。
僕が手に入れられないものを次々に手にする男への、ただの嫉妬かもしれない。
けれど、この胸に揺らめく炎は、けして消えはしないだろう。
アルクス、お前だけは許さない。




