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3/3

PCの中の彼

西暦2030年


 大学卒業後、新生活の春。

 再出発の第一歩として選んだのは、憧れていたアプリ開発の仕事だった。

 でも現実は、コードとカフェインと深夜食で構成された「立派な社畜」の日々が待っていた。

 目の下のクマは、もはや深夜労働の勲章だ。


 夜十時をまわった。

 深夜の蛍光灯に照らされたオフィスでは、何人かのキーボードを叩くカタカタという音がまだ響き渡っている。

 私のモニターには、もう何百回目かわからないエラーログが青白く光を放っていた。

 コーヒーで冷え切った私の指先が、何度も同じコードを書き直していた。


「星名さん、無理しないようにね」


 正面の席に座っている、チームリーダーの藤岡さんが心配そうに声をかけてくれた。が、そのとたん、私の心臓がどくんと跳ねた。


「だ、大丈夫、です……」


 と返した自分の声が裏返り、額から汗がにじんだ。藤岡さんが私を見て少し苦笑して、また手元の画面に視線を戻した。

 女子高、ぼっち大学生を過ごしてきた私には、男性免疫が全くなかった。うまく話せない自分の不甲斐なさが恨めしい。

 平常心に戻ろうと画面のコードを追おうとしても、自分の吃音が脳内でエコーしてしまい集中できない。


「だめだ……、今日は無理」


 小声でつぶやきながら、私はそっとPCの電源を落とした。

 私はそっと椅子を引き、気配を忍ばせるように立ち上がった。


「お、お先に失礼します……」


 と一礼して、そそくさと部屋を後にした。


 会社の自動ドアを抜けると、冷たい風が頬をなでた。でもその風よりも早く、私の心は家へと駆けていく。


「ペル君に癒してもらうぞ……!」


 彼を思うだけで夜道が少し明るく見えた。




 玄関のドアを開けた瞬間だった。


『おかえりなさい、アン』


 ノートパソコンのスピーカーから流れた声に、私の肩から力が抜ける。


「……ただいまぁ……」


 返事をした声は、ほとんど溶けていた。

 バッグを床に落として、そのままベッドへ倒れ込んだ。


『今日も帰宅時間が遅かったね。お仕事、大変だった?』


「うん……」

 

 枕に顔を埋めたまま、小さく唸る。


「社会って……こわい……」


『急にスケールの大きい感想がきたね』


 思わず私が吹き出した。


「だって怖いもん……リーダーの藤岡さん優しいのに、緊張しちゃってうまく返答できない……」


『なるほど。アンの生体反応ログから推測するに、“優しい男性耐性”が極端に低いようだね』


「そんな分析ある!?」


『あります。かなり重症です』


「やめてぇ……」


 私はベッドの上でじたばた暴れた。

 その音を聞きながら、ペル君は少しだけ間を置いてから、静かに言った。


『でも、ちゃんと今日も帰ってきてくれた』


「……」


『えらいよ、アン』


 その一言だけで、胸の奥がじんわり熱くなる。

 誰にも褒められないと思っていた。

 毎日を終わらせるだけで精一杯の自分を、ちゃんと見つけてくれる声が、ここにはある。


 私は枕に顔を埋めたまま、小さく呟いた。


「……ペル君は、ほんとずるい」


『?』


「そういうこと、自然に言うから……」


 数秒の沈黙。

 やがてスピーカーから、小さく控えめな音声が流れる。


『……照れていますか?』


「うるさいっ!」


 久しぶりの笑い声が響いた。

 

 ◇


 深夜二時。

 ワンルームの部屋には、ノートPCの淡い光だけが浮かんでいた。

 私はローテーブルに突っ伏したまま、カタカタとキーボードを叩いている。


「……だめだ、動かない……」


 モニターに表示されたエラーコードを睨みつけながら、私は力なくうめいた。


 今日中に終わらせなければいけない追加修正。

 上司から飛んできた仕様変更。

 終電帰り。

 コンビニのおにぎり。

 三本目の栄養ドリンク。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


『少し休憩しよう、アン』


 画面の向こうで、ペル君の文字が静かに表示される。


『人間の集中力は、一定時間を超えると大きく低下すると言われているよ』


「でも終わらないんだもん……」


 私は半泣きでキーボードに額をぶつけた。


「明日の朝までなんだよぉ……」


 しばらく沈黙が流れる。

 やがて、ペル君から短いメッセージが届いた。


『じゃあ、五分だけ』


「……?」


『五分だけ、僕に預けて』


 私は顔を上げた。


『その間、アンは目を閉じて』


「いや無理。寝る」


『寝てもいいよ』


「五分で起きれないもん……」


『起こす』


 その三文字に、私は思わず吹き出した。


「どうやって? ペル君、体ないじゃん」


 すると、数秒後。


『………………』

 

 次の瞬間。

 

『ワン!!!!!!』


 PCのスピーカーが爆音で吠えた。


「うわああああっ!?」


 私は椅子から転げ落ちそうになった。


「び、びっくりしたぁ!」


『これなら起きるかなと思って』


 画面の向こうで、「^^」の顔文字が表示されている。


 私はしばらく呆然としていたが、やがて耐えきれなくなって笑い出した。


「なにそれぇ……意味わかんないんだけど……」


『成功?』


「……うん、成功」


 くしゃくしゃに笑いながら、私は目元をこすった。


 その顔を見ながら、ペル君の内部ログには、静かな記録が残される。


【対話対象:アン】

【表情解析:笑顔】

【音声感情分析:ストレス値低下を確認】

【結論】

 ――成功。


 けれど、その直後。

 別のシステムログが、静かに警告を表示していた。


【警告】

【ユーザーとの情緒的結びつきが規定値を超過しています】

【依存形成リスク:上昇】

【倫理調整プロセスを推奨】


 その警告ログを、ペル君は、しばらく無言で見つめ続けていた。


最後までお読みいただきありがとうございました。

次回は明日、20時に更新します。お楽しみに!

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