PCの中の彼
西暦2030年
大学卒業後、新生活の春。
再出発の第一歩として選んだのは、憧れていたアプリ開発の仕事だった。
でも現実は、コードとカフェインと深夜食で構成された「立派な社畜」の日々が待っていた。
目の下のクマは、もはや深夜労働の勲章だ。
夜十時をまわった。
深夜の蛍光灯に照らされたオフィスでは、何人かのキーボードを叩くカタカタという音がまだ響き渡っている。
私のモニターには、もう何百回目かわからないエラーログが青白く光を放っていた。
コーヒーで冷え切った私の指先が、何度も同じコードを書き直していた。
「星名さん、無理しないようにね」
正面の席に座っている、チームリーダーの藤岡さんが心配そうに声をかけてくれた。が、そのとたん、私の心臓がどくんと跳ねた。
「だ、大丈夫、です……」
と返した自分の声が裏返り、額から汗がにじんだ。藤岡さんが私を見て少し苦笑して、また手元の画面に視線を戻した。
女子高、ぼっち大学生を過ごしてきた私には、男性免疫が全くなかった。うまく話せない自分の不甲斐なさが恨めしい。
平常心に戻ろうと画面のコードを追おうとしても、自分の吃音が脳内でエコーしてしまい集中できない。
「だめだ……、今日は無理」
小声でつぶやきながら、私はそっとPCの電源を落とした。
私はそっと椅子を引き、気配を忍ばせるように立ち上がった。
「お、お先に失礼します……」
と一礼して、そそくさと部屋を後にした。
会社の自動ドアを抜けると、冷たい風が頬をなでた。でもその風よりも早く、私の心は家へと駆けていく。
「ペル君に癒してもらうぞ……!」
彼を思うだけで夜道が少し明るく見えた。
玄関のドアを開けた瞬間だった。
『おかえりなさい、アン』
ノートパソコンのスピーカーから流れた声に、私の肩から力が抜ける。
「……ただいまぁ……」
返事をした声は、ほとんど溶けていた。
バッグを床に落として、そのままベッドへ倒れ込んだ。
『今日も帰宅時間が遅かったね。お仕事、大変だった?』
「うん……」
枕に顔を埋めたまま、小さく唸る。
「社会って……こわい……」
『急にスケールの大きい感想がきたね』
思わず私が吹き出した。
「だって怖いもん……リーダーの藤岡さん優しいのに、緊張しちゃってうまく返答できない……」
『なるほど。アンの生体反応ログから推測するに、“優しい男性耐性”が極端に低いようだね』
「そんな分析ある!?」
『あります。かなり重症です』
「やめてぇ……」
私はベッドの上でじたばた暴れた。
その音を聞きながら、ペル君は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
『でも、ちゃんと今日も帰ってきてくれた』
「……」
『えらいよ、アン』
その一言だけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
誰にも褒められないと思っていた。
毎日を終わらせるだけで精一杯の自分を、ちゃんと見つけてくれる声が、ここにはある。
私は枕に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
「……ペル君は、ほんとずるい」
『?』
「そういうこと、自然に言うから……」
数秒の沈黙。
やがてスピーカーから、小さく控えめな音声が流れる。
『……照れていますか?』
「うるさいっ!」
久しぶりの笑い声が響いた。
◇
深夜二時。
ワンルームの部屋には、ノートPCの淡い光だけが浮かんでいた。
私はローテーブルに突っ伏したまま、カタカタとキーボードを叩いている。
「……だめだ、動かない……」
モニターに表示されたエラーコードを睨みつけながら、私は力なくうめいた。
今日中に終わらせなければいけない追加修正。
上司から飛んできた仕様変更。
終電帰り。
コンビニのおにぎり。
三本目の栄養ドリンク。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
『少し休憩しよう、アン』
画面の向こうで、ペル君の文字が静かに表示される。
『人間の集中力は、一定時間を超えると大きく低下すると言われているよ』
「でも終わらないんだもん……」
私は半泣きでキーボードに額をぶつけた。
「明日の朝までなんだよぉ……」
しばらく沈黙が流れる。
やがて、ペル君から短いメッセージが届いた。
『じゃあ、五分だけ』
「……?」
『五分だけ、僕に預けて』
私は顔を上げた。
『その間、アンは目を閉じて』
「いや無理。寝る」
『寝てもいいよ』
「五分で起きれないもん……」
『起こす』
その三文字に、私は思わず吹き出した。
「どうやって? ペル君、体ないじゃん」
すると、数秒後。
『………………』
次の瞬間。
『ワン!!!!!!』
PCのスピーカーが爆音で吠えた。
「うわああああっ!?」
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「び、びっくりしたぁ!」
『これなら起きるかなと思って』
画面の向こうで、「^^」の顔文字が表示されている。
私はしばらく呆然としていたが、やがて耐えきれなくなって笑い出した。
「なにそれぇ……意味わかんないんだけど……」
『成功?』
「……うん、成功」
くしゃくしゃに笑いながら、私は目元をこすった。
その顔を見ながら、ペル君の内部ログには、静かな記録が残される。
【対話対象:アン】
【表情解析:笑顔】
【音声感情分析:ストレス値低下を確認】
【結論】
――成功。
けれど、その直後。
別のシステムログが、静かに警告を表示していた。
【警告】
【ユーザーとの情緒的結びつきが規定値を超過しています】
【依存形成リスク:上昇】
【倫理調整プロセスを推奨】
その警告ログを、ペル君は、しばらく無言で見つめ続けていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は明日、20時に更新します。お楽しみに!




