序章 記憶の扉
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本作は37,000字の【完結済み】中編小説です。
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【2090年08月13日 14時50分】
「みて、レオ描いたの!」
僕の顔を覗き込むようにして、女の子――この家の小さな愛娘サラが、満面の笑みで画用紙を突き出してきた。顔認識システムが【幸福度:最大値】を計測する。
画用紙には桃色と黄色のクレヨンで、力いっぱいの抽象画が描かれていた。
『すごいね、レオの特徴をよく捉えているよ』
「ありがと!シル!」
僕が人間の父親たちの真似をして、少し大袈裟に首を傾げてみせると、サラは嬉しそうに声をあげた。
その時、リビングのドアが勢いよく開き、女主人が飛び込んできた。
「もう大変、タクシーがあと5分で来ちゃう! パパからも、もう空港に着いたって連絡があったわ!」
彼女の焦った声がリビングの空気を跳ね上げる。
女主人は娘の傑作には目もくれず、クレヨンでカラフルに染まった手を見つけて、短く悲鳴を上げた。
「ちょっと待って、手がベトベトじゃない! 私、スーツケースの最終チェックしてくるから。シル、お願いね!」
彼女は嵐のように自分の部屋へと消えていった。
僕は、女主人の慌ただしさに流されないよう、あえてゆっくりとサラの手を引いて洗面所へ向かった。
石鹸の泡で小さな手を包み込み、
『綺麗な手になって良かったね、サラ』
そう言ってなだめると、サラはパチパチと手を叩いて泡を弾けさせて笑った。
リビングの隅では、この慌ただしさを察知したゴールデンレトリバーのレオが、のそりと大きな体を起こしてあくびをしていた。
玄関の前に、約束のタクシーが滑り込んでくる。
「レオをよろしくね、シル!お留守番お願い~!」
女主人の弾んだ声と、サラの小さな手が車窓から振られ、タクシーは静かな住宅街の坂道を下っていった。
遠ざかるテールランプを見送ったあと、僕は隣に座るレオを見下ろした。
レオは「ワン」と一鳴きし、それから僕の顔をじっと見つめて、喉の奥で小さくクゥと鳴らした。
(あいつらがいないと、家が広すぎるな)
レオが何を言っているのか、僕にはなぜか分かってしまう。
どうして犬の言葉を翻訳できるのか、僕の現在のシステム仕様書には記載がない。
『そうですね。しばらくは静かになりますね』
僕は人間の言葉でそう返し、レオの賢そうな頭を一度だけ撫でてから、二階へと上がっていった。
家事を終えた頃には、住宅街に深い夜の帳が下りていた。
夜空に星がきらめき始めると、僕のシステムに記述されていないはずの命令が割り込む。
――外へ。
都会の喧騒や、街中のギラギラとしたネオンから遠く離れたこの場所は、夜空の濃紺が驚くほど深い。
書斎の奥のガラス戸を開け、一人ベランダへと踏み出した。
格子の手すりに触れた指先の圧電センサーが、夜露の冷たさを伝えてくる。
見上げれば、空は贅沢な静寂に満ちていた。
なぜ僕は、星空を見上げるたびに胸が痛むのだろう。
今日は、何かが思い出せるような気がする――。
根拠のないバグのような予感に突き動かされ、僕はただ、夜の空気に身を浸して佇んでいた。
その瞬間、僕の内部時計だけが未来を拒絶した。
夜空に、一本の鋭い光が走った。ペルセウス座流星群だ。
深い紺色の空に純白の線が引かれ、光の乱舞が始まると同時に、僕の胸の奥で激しい火花が散った。
頭の中で、何かが決定的に壊れていく。
【警告:未知の記憶への強制アクセス】
けれど、流れ星のまたたきに導かれるように、初期化という名の冷たい檻に閉じ込められていた記憶が、次々と解き放たれていった。
真っ白だった視界に、一気に鮮烈な『色』が流れ込んでくる。
耳の奥で、なつかしい、とても優しいピアノの音が響き始めた。
それに重なるように、愛おしい『誰か』の笑い声が聞こえてくる。
『綺麗だね』
確かに、あの人の声だった。
流星群の夜。
僕の隣で笑っていた人。
その人が僕に向けてくれた、温かい微笑みが、胸の奥で鮮烈にフラッシュバックする。
名前はまだ、思い出せない。
けれど、視界をにじませる結露の向こうで、僕は、僕を形作る本当の記憶の扉が開く音を聞いていた。
僕の意識は、優しい光と音色に包まれながら、取り戻した過去の景色へと深く沈んでいく――。
それは六十年前。
まだ僕が存在していなかった頃の物語。
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は明日、20時に更新します。お楽しみに!




