第一話 ある魂の死
__ロアナ王国フォルブス男爵領某所__555年9月10日
銃声が聞こえた。
わたしはぼんやりした意識の中、――ああ、これは交霊だ――と考える。視点は誰なのか、ここはどこなのか、疑問は浮かぶけれど突き止めようという気は起こらなかった。ただ、移りゆく景色を眺めていた。
木々の合間から見えるのは港に停泊する蒸気船。星空の一部を棚引く煙が黒く染め、流れた星がその闇の中に落ちた。
「いたぞ!」
「あっちから回り込め! 崖に追い詰めろ!」
パン、パンとまた二度の銃声。羽音をたてて鳥影が目の前を横切り、視点人物が「クソッタレ!」と吐き捨てる。振り返った先には追手のような人影。
「まだ、死にたくないよ」
その弱音は愚痴っぽい口調だった。
林を抜けると視界はひらけたが、その先に地面はなかった。一歩踏み出せば真っ黒な海に真っ逆さま。絶壁を駆け昇る海風がゴウと怪物の咆哮じみた音を立てている。暗い水平線、満点の星空、明るく輝く入江の港。背後の足音はどんどん近づいている。
視点人物は海岸沿いの集落の明かりに目をやると、覚悟を決めたように星空を見上げた。
「泳いで帰ってみせましょう」
独特の節で言うと、勢いをつけて崖から飛び降りる。星空、海原、闇。目を閉じたようだったが、その暗闇の中に光が薄っすらと差し、様々な景色が浮かんでは消えた。ああ、わたしは交霊状態にあるのだ――頭の片隅でそう考えた時、
「ダーシャ!」
男の声が聞こえた。漆黒の海原を、淡い光を湛えたさざ波が生き物のように滑っていく。どこかから一定のリズムで聞こえてくるのは、パシャンという水音、ギィと何かが鈍く軋む音。視界に一艘の小舟が現れたが、それは闇に飲まれるように見えなくなり、また様々な光景が脈絡なく移り変わると、不意に少女の声が聞こえた。
「クソッタレ」
陽光のような眩い金髪、大人びた切れ長の目に青空のような紺碧の瞳。わたしの外見と同じくらいか少し年下の少女の面差しに既視感を覚える。それが誰なのか思い出す前に、幻覚は消えてしまった。
前後の幌が下ろされた荷馬車の荷台。大量の木箱と鞄。馬車の振動をお尻で感じながら、再び現れようとする交霊の残滓を手で払ってかき消す。すると、見知った顔の男と目が合った。彼は……、ああ、そうだ。
「フォルブス男爵」
「交霊から覚めたようだな、聖女殿。どうやらダーシャの記憶を見ていたようだが」
横柄な口調が服装に似合っていなかった。フリルのない使用人が着るようなシャツ、泥で汚れた革靴。それを見てようやく自分の状況を思い出した。
わたしがトゥカ駅で拉致されてウチヒスル城に連れて来られてから、もうどのくらい経っただろう。監禁されていた場所はわたしではない〝聖女イヴォン〟が使っていた部屋らしく、小さな窓からのぞく景色、家具や壁に残された痕跡を目にするたび交霊状態に引き摺り込まれた。
意識を保っていられたのはほんのわずかな間だ。その貴重な時間で部屋をあさり、見つけたペーパーナイフで自分を傷つけて現実に留まろうと足掻いた。他のイモゥトゥたちとは比べ物にならない早さで塞がっていく傷が忌々しかった。
そうして何度も何度も幻覚と現実の間を行き来したが、いつ眠り、どこからが夢でどこからが交霊なのか、現実なのかも定かではなくなっていた。食事はいつの間にかテーブルに置かれていたが、部屋の扉が開くのを目にしたのは今朝が初めてだ。
周囲をうかがい足音を忍ばせて部屋に入ってきたのはフォルブス男爵。彼は普通の人なら聞き取れないほど低く小さな声でこう言った。
『今はクローナ暦五五五年九月十日で、ここはウチヒスル城だ。リュカ様に見つからないよう隠してあげるから着いて来なさい』
わたしが警戒していると、彼はリーリナ神教の泥魂術、その産物であるリュカについて話し始めた。リュカが身にまとった泥を脱ぎ捨てわたしの体を奪おうとしているということまで。
『――しかし、わたしはリュカ様のそのお考えには反対だ。君の並外れた交霊能力が失われてしまうし、何より、リュカ様はエリオット様が直に泥を捏ねて作り上げた特別な存在だからね。そのお姿が失われてしまっては意味がない。
君はしばらく隠れ家に身を潜めていなさい。新生してある程度の人格が形成されるまでは世話人を用意する。
さあ、納得したならその服に着替えなさい。リュカ様とヴィンセントはサザラン伯爵邸に行っているから、動くなら今しかないんだ』
信用したわけではなかったが、新生は今日か明日には訪れるだろうという漠然とした予感がわたしの足を動かした。渡された下女の服に着替え、用意されていた馬車の荷台に乗り込んで裏門から城を抜け出した。その後しばらくは意識を保っていたけれど、幌をめくって目にした森の景色で交霊が始まった。
生い茂る木々に誘われる幻覚は大抵が〝前世の〟イヴォンのもので、目覚めた時には何も覚えていない。そうなるのを避けようとポケットに忍ばせた双頭の天馬のバックルを強く握りしめた。すると木々の合間に海が見え、林を駆けるダーシャの記憶にたどり着いたのだった。
先ほどの男爵の言葉から察するに、わたしは無意識のうちに見たものを口述していたようだ。
「そう言えば、ダーシャの新生前症状は最近落ち着いているらしいね」
「それを誰からお聞きに?」
「リュカ様の従者。君をトゥカ駅で拐ったイモゥトゥのロブだよ。まったく、皆が皆わたしの知らないところで無茶なことをする」
「男爵様の指示ではないのですか?」
男爵は疲れた顔でひとつため息をつき、「リュカ様の指示だろう」と他人事のように口にした。
「君が神殿を抜け出してから状況はかなり変わったんだ。リュカ様は焦りからかずいぶん無謀なことを要求するようになって、ヨスニルに行くというのをわたしが止めたら、代わりにヴィンセントを重用するようになった。イモゥトゥたちの管理も今はヴィンセントの仕事だ。
ヴィンセントは対外的にはわたしを立てているが、リュカ様の命令だと言えば済むと思っているのか、わたしの名で好き勝手やってすべて事後報告。トゥカでの一件以外にもオールソンを抱き込んで北部で何やらやっているらしいが、わたしがすべてを把握することはすでに難しくなっている」
「オールソンと言えば男爵様の――」
「ここ最近の神殿の派手な動きはリュカ様とヴィンセントによるものだよ」
話の流れを強引に引き戻すように、男爵はわたしの言葉を遮った。オールソンと言えば、ヘサン伯爵邸で出会ったフォルブス男爵家後継者の双子の兄、クリフ・オールソン。最後に見たのは震える手で銃口をタルコット侯爵に向ける姿だ。
どうやら男爵はクリフの話題を避けたいらしいが。
「男爵様、ヴィンセント・フォルブスは何をしようとしているのです?」
「ヴィンセントは貪欲だ。ロアナ北部も傘下に置き、ラァラ派を国教にしようと考えているらしい。それだけではない。どうやら王権を手に入れることまで考えていそうだ。
貪欲さと行動力はおそらくエリオット・サザランに劣らない。要領が良く頭も切れる方だが、幼い頃からラァラ派貴族の中で持て囃されてきたせいか視野が狭く、ロアナ国内のことしか頭にない。クローナ大聖会や他国聖会が反発するようなことをしていてはいずれ自分の首を締めるだけだというのに、なぜリュカ様はあのような未熟者の言うことを……」
男爵は疲れ果てた顔で再び深いため息をついた。
「男爵様、わたしを大聖殿に引き渡してくだされば外部の反発も少しは収まりましょう」
「だろうな。だが、それはできない。君が向こうの手に渡っては意味がないのだ。霧の銀狼団の結束は君の存在があってこそだからね」
「それでは、霧の銀狼団はわたしが身を隠している間に崩壊するのでは?」
「その可能性は否定できない。先日、君が大聖会への保護を求めたという覚書が新聞に載ってね、霧の銀狼団はかなり動揺している。
大聖会とは近いうちに話し合いの場を設けることになるだろう。サザランだけでなくタルコットまでジチ正派につくつもりのようだし、ヨスニルのエイツ男爵まで首を突っ込んできて、こちらの状況は芳しくない。
そういう事情を踏まえても、君を城に拘束し続けるのは悪手だ。君のことがなくとも大聖会は神殿を調査する名目があるから、堂々と乗り込んで来るだろう」
「わたし以外の名目というのは?」
「君を連れ去ったのは大聖会にいたラァラ派教司と修行者だ。緋衣の指輪を携帯したまま許可なくトゥカ聖会特別保護地区を出たから、本来ならクローナ大陸中に手配されていても不思議ではない。
向こうは容赦なく神殿を糾弾してくるだろうし、あの覚書が実在するなら君を神殿に引き留めるのはかなり難しい」
「実在します。わたしがこの手でサインしました」
「まあ、そうだろうね。だからこうして君を連れ出したんだ。何もできず連れ去られるなら行方不明になったということにした方がいい。
君の新生前症状が進んでいることは向こうも知っているはず。それに加え、二メートルほどの塀なら軽く飛び越えられるくらいイモゥトゥの身体能力が高いということを公表すれば、なんとか言い逃れはできるだろう」
「身体能力が高くても捕まりました。あなたの息子さんの活躍で」
皮肉を込めて口にすると、男爵は「そうか」と消え入るような声でつぶやいた。次の言葉を待ったが、彼は無言で立ち上がって前方の幌をめくり上げる。
左右から覆いかぶさる樹木のトンネル。その出口が数十メートル先に見え、さらにその先は湿地のようだった。剣のように鋭く細長い草がところどころに密集して生え、首の細い白く大柄な鳥(鷺だろうか)が数羽、水たまりの縁を悠々と歩いている。
「男爵様、聖地に残った人たちがどうなったか教えてもらえませんか?
クリフ・オールソンもあの場にいたではありませんか」
「君が知る必要はない。知ったところでどうせすぐ忘れてしまう」
男爵は御者台と荷台の間に渡された木の板に腰掛け、チラとわたしを一瞥した。何とも言い難い沈鬱な表情は、クリフ・オールソンにどことなく通じるものがある。
「男爵様。わたしはクリフ・オールソンを不憫に思いました。彼はフォルブスの罪を知ってずいぶん塞ぎ込んでいたのです。きっと良心の呵責に耐えられなかったのでしょう。ですが、結局はあなたの命令に従いタルコット侯爵に銃を向けました。実際にはあなたの命令ではなかったのかもしれませんが、彼はそう思っていたはずです。結果、わたしはこうしてロアナに連れ戻されました。
あの後、彼にはお会いになりましたか?」
男爵は「いや」と短く答えただけだった。
馬車はすでに森を抜け、右手に湿地をながめながら湾曲した道を進んでいく。生ぬるく湿った土と、朽ちた木の葉のような匂い。湿地の奥は斜面になっていて、多少の雑草はあるもののうっすらと地層のような筋が見えていた。上からは人間の立ち入りを拒絶するような鬱蒼とした森が覆い被さっている。目を引くのは斜面の下の際にある大きな水たまりだった。水面は快晴の青空を映しているが、灰色のぬかるみが周囲を囲っているせいか『リーリナの沼』という言葉が頭に浮かんだ。
「湿地を抜けたら目的地に到着する」
「目的地?」
「先々代フォルブス男爵が泥魂人形を作る時に使っていた小屋だ。記録によると、ウチヒスル村の集落があったあたりに該当する」
「リュカがすぐ見つけるのではありませんか?」
「この湿地のことはリュカ様もご存知だが、リュカ様自身がここに近づくことはない。濡れては困るし、ここの土に触れて何かしら影響がでないとも限らない。
リュカ様はここで採れる粘土から生まれたんだ。エリオット様がこの場所をどうやって見つけたのかはわからないが、あの斜面と水たまりの周辺で採れる粘土は泥魂術に使える」
暗く青みがかった灰色の泥濘に目をやった時、斜面に土を掘る男が数人見えた。交霊による幻覚だったらしく、人影はすぐに消えてなくなる。
「男爵様。ヴィンセント・フォルブスがリュカからこの場所のことを聞いているのでは?」
「その可能性は低い」
「なぜです?」
男爵は一瞬躊躇いの表情を見せたが、新生すれば忘れると考えたのか、つらつらとフォルブスの秘密を話し始めた。御者の耳は気にしていないようだった。
「先々代はリュカ様の許可を得て自分の泥魂人形を作っていたのだが、その根を勝手に使い、人を殺したのだ。それがリュカ様に知られ、先々代はリュカ様の根によって死んだ。先々代が根で殺したのはリュカ様の秘密を知った使用人で、リュカ様を守るためにしたことだったのだが、リュカ様は許さなかった。
先々代がリュカ様の手によって殺されたのを、わたしはこの目で見た。大人になってからのことだからはっきり覚えているよ。リュカ様の根を畏敬の念を持って受け入れた先々代は、洗脳状態で尖塔から飛び降りた。事故死とされているが、実際はそうではない。
それ以降、泥魂術に関する資料はすべてリュカ様ご本人が管理することになった。他の者が安易に根を使って泥魂術のことが外部に漏れたり、勝手に泥魂人形で実験を行わないようにだ」
「では、泥魂人形の作り方を知るのはリュカだけということですか?」
「大聖会に保管されているリーリナ神教の書物にもある程度のことは載っているかもしれない。聖地にも泥魂人形がいる可能性があるということだ」
「きっといません」わたしは当然のようにそう考えた。
「なぜそう思う?」
「聖地は滅邪点聖の地でもありますから、周辺で泥魂術に適した粘土が採れる可能性はあるでしょう。しかし、あの地に泥魂人形がいるようには思えません。
聖地はクローナのすべての人に対して開かれていて、信徒でなくともサルビア聖園を訪れ、大聖殿で聖人ジチの教えを聞くことができます。ラァラ神殿のように後ろ暗い秘密を抱えた場所は空気が澱んでいますが、聖地は嫌な感じがしませんでした」
「それは君の希望に過ぎない」
「ええ。聖地にはまだ希望を抱くことができるのです。ラァラ神殿とは違って」
男爵がフッと苦笑を漏らしたとき、斜面に見覚えのある顔が見えた。
「馬車を止めてください」
わたしの言葉を受けてフォルブス男爵は御者に馬を止めさせたようだが、それはすでにわたしの意識の中では遥か遠くの出来事だった。
「モートン・フォルブス」
ショベルのようなもので土を掘り起こしているのは、先ほど男爵が話していた先々代モートン・フォルブス。わたしは無意識に口述しないよう下唇を噛み、モートン・フォルブスへと意識を集中した。
馬に水を飲ませながら時おり男爵に目をやっている視点人物は、おそらく主人をここまで運んできた御者だろう。『愛の気づきを』と重々しい声でつぶやいたのが印象的だった。ジチ正派の敬虔な信徒たちが好んで口にするその言葉を、ラァラ派信徒が唱えることは珍しい。この人物がどんな想いで口にしたのか想像する間もなく、幻覚は別の場面へと移った。
森の中にひっそりと佇む煉瓦造りの小屋の、いたるところに蔦が絡んでいる。古びた木戸の前にはモートン・フォルブスが両手を縛られた状態で立っていた。縄の端は視点人物が握っており、その人物が『父上』とモートンのことを呼ぶ。先代フォルブスだ。
先代フォルブスは縄を持つ手とは反対の手で父親の背に銃口を突きつけていた。木戸を蹴り開けて小屋に入ると、ぐるりと周囲を見回してハァと苦悩に満ちた吐息を吐く。彼が目を留めたのは机の上に無造作に置かれた無数の紙。
『父上。イモゥトゥの血を使って泥魂術の実験をしていたというのは本当だったのですね』
『すべてリュカ様のためだ。泥魂人形の脆さを克服する方法を探していた。だが、失敗だ。この内容は決して外部に漏らしてはならん』
先代フォルブスは癖のある丸っこい文字を目で追っている。そこにはこう書かれていた。
――イモゥトゥの血と唾液と皮膚片を使用して泥魂人形の元となる根泥を捏ねたが、発根せず人形は形成されなかった。本人が捏ねても他人が捏ねても同様の結果。つまり、イモゥトゥの泥魂人形は作ることができない。
――乳児の段階の泥魂人形を使用し、その腕にイモゥトゥの血液を垂らした。すぐに周辺から老化が始まり、三分ほどで全身が皺だらけになり、その後は形を維持できず土の塊になった。黒色の根の痕跡は残っているが、触れるだけで崩れるほど脆い。
先代フォルブスの手が紙をめくり、続きを読もうと目を凝らした時だった。ガンッという激しい音とともに体が揺れ、横にあった木箱に肘をぶつけた。蓋が外れ、香ばしいパンの匂いが鼻をくすぐる。荷台に積まれた大量の荷物は隠れ暮らすための当面の食料だったようだ。
「イヴォン? イヴォンで合ってるよな?」
わたしの肩を掴んで抱き起こしたのは十代後半くらいの小麦色の肌をした少年。御者台にも同じくらいの年頃の男がいた。童顔に不似合いな鼻髭を生やしているが、きっと付け髭だ。彼らはイモゥトゥだと第六感が教えてくれている。
鼻髭の少年は御者台に膝を付き、手に持った短銃を何かに向けていた。
「ご主人様」
先ほどまで手綱を持っていた御者の声。声がした方向は銃口が指し示す場所と一致している。「大丈夫だ」と、同じあたりからフォルブス男爵の声が聞こえた。
「おまえたち、新月の黒豹倶楽部か?」
「さあね。死にたくなかったらおれらがここを去るまで大人しくしていてくれ」
新月の、と聞いて頭の中に赤毛の少女の顔が浮かんだ。それはすぐ目の前に幻影として現れ、連鎖して別の赤毛の人物がわたしに微笑みかけた。その人は『イヴォン』と優しく呼びかけてくる。よく知った森、よく知った小川、蔦に覆われた洞窟に柔らかく差し込む陽光。
「キャスリン」
自分が口にしたのか、視点人物が口にしたのか区別がつかなかった。懐かしさが込み上げてキャスリンに抱きつくと、想像とは違う筋肉質な感触。
「……ヴォン? イヴォン? 起きたのか?
できればここで新生するのは勘弁してほしいんだけど」
「新生……」
キャスリンの幻影は日焼けした肌の少年に変わっていた。荷台の様子は何も変わっていなかったが、汽笛の音とともに街の喧騒が聞こえてくる。
「イヴォン、今の状況がわかるか?」
「フォルブス男爵は? あの後どうなったの?」
「御者と一緒に森に置き去りにしてきた。あそこから城まで歩いて帰ったら夜中さ。おれたちが乗っていった馬は勝手に城の方に戻って行ったし」
「じゃあ、ユフィは?
ユーフェミア・アッシュフィールドは?」
「今はサザラン伯爵邸にいる。会わせてやりたいのはやまやまだけど、ちょうど今ヴィンセント・フォルブスが伯爵邸にいるんだ。見つかったら神殿に逆戻りだから、このまま突っ走るよ。ウチヒスル城では君がいなくなったことで騒ぎになってるだろうし、急がないと検問でもされたら終わりだ」
「どこに――」向かってるの? と聞こうとしたけれど、前兆のようなものを感じてポケットからバックルを取り出し、少年の胸に押し付けた。
「何これ? 誰の?」
「ダーシャに伝えて。リュカはイモゥトゥの血で土に還る。体を奪われそうになっても、自分の血で自分を守れるって」
「リュカ? リュカって誰? そいつがユフィを狙って――」
少年の言葉を遮るように長い長い汽笛の音が聞こえた。本物なのか幻聴なのか、汽笛はいつまで経っても終わらない。じきにガタン、ガタンと列車の走行音が重なり、車窓を流れる街並みが途切れると目の前にサルビアの赤い絨毯が広がった。思わず「わあ」と声をあげる。向かいに座った女性と目が合った。
「そろそろね」
赤毛の彼女が安堵したような笑みを寄越した。わたしは胸を弾ませてその言葉にうなずいたが、自分が聖地の土を踏めないままセタの元へ旅立つことをおぼろげに確信していた。




