第九話 嘘だらけの世界
__ロアナ王国サザラン領サザラン伯爵邸__555年9月10日
午前の混じりっ気のない陽光がサザラン伯爵邸に照りつけていた。肌をなでる風は滲んだ汗を軽やかに奪い去ってくれるけれど、わたしの内側から溢れ出す溶岩のようなドロドロした熱を鎮めはしなかった。
「あなたが憎い。死んでも死にきれないくらい、あなたが憎くて堪らない。わたしの人生を奪っただけでなく、わたしの大切な人まで傷つけた。罪のないイモゥトゥだけでなく関係ない人まで巻き込んで。そんな人が愛を口にしないで。
わたしは今も昔もあなたを愛していないし、あなたはわたしを愛していない」
涙を流しながらヨスニル語で訴えるわたしを見て、警備員の中には痴情のもつれと勘違いした者もいたようだった。いや、実際に恋人同士だったのだから勘違いとも言えない。
リュカに動揺する素振りはなく、聖職者らしい慎ましい佇まいでわたしを見つめていた。一体、真っ白な顔布の下でどんな表情を浮かべているのか。
「君は誰?」
「セラフィア。ソトラッカ研究所の不老因子研究部所属セラフィア・エイツ。去年の六月、ローサンヌ広場裏の借家に住んでいたあなたをオールソン卿から紹介されたわ。告白されたのは去年の聖人の日」
ネイサンが小声で「そういうことか」とつぶやいた。だが、彼もリュカも驚くどころか、それが当然のことだとでもいうように平然としている。
「やっぱり、あなたにとってはわたしも他の人間も利用するためだけに存在してるのね。だからオールソン卿のことも平気で切り捨てた」
「ぼくがクリフを切り捨てたというのは、どういう意味?」
「とぼけるつもり?
ロブを使ってオールソン卿が銃を撃つように仕向けたでしょう?
暴発するように細工された銃を!」
リュカは「へえ」と感心したような声を漏らしたが、一体何に感じ入っているのか理解ができなかった。ロブの働きに対してというふうにも見えない。
きっと、いくら言葉を重ねても彼の心には何も響かないのだ。
あの、人の形をしたもの。その胸の中にはエリオットの血と唾液が混じった粘土が詰まっているだけで、そこに心臓は存在していない。かつては恋人としてその手を握り、同じくらいの背丈の彼の肩に腕を回し、唇を重ねた仲だというのに、なぜ彼に〝鼓動〟が存在しないと気づかなかったのだろう。
言いようもないもどかしさが怒りへと転じ、わたしはライナスの手を振り解くと警備員の銃を奪ってリュカに向けた。
「ユフィ!」
ライナスとジュジュが止めようとしたが、銃弾が彼ら足元を抉る。撃ったのはフォルブスの護衛だ。その護衛をリュカが「どけ」と退ける。
「君がセラフィアだなんて話はまったく信じられない。セラフィアはぼくに銃を向けりしないし、第一、銃なんて彼女には似合わない。もしかして、君は交霊で彼女を見たのかな?」
わたしの口からは意図せず笑いがこぼれた。辛うじて形を保っていた砂の城が、乾ききった風に吹かれてサラサラと崩れていくような気分だった。
「そうね。あなたはいつもそうだった。わたしが同情心であなたに対して強く出られないのを知りながら、わたしの言葉を全部自分の都合のいいように受け止めて、最終的にはあなたがすべて正しいという結論で会話は終わるの。
愚かだった。
あなたに何をしてあげられるのかばかり考えて、わたしの気持ちを本気で伝えようとしたことは一度もなかった。あなたの求める言葉を返すのがあなたのためだと思ってた。だからあなたの告白を拒むこともなかったし、雰囲気に流されて『愛してる』なんて言葉も口にした。あの頃はあなたの本性を知らなかったから、週一回、数時間顔をあわせるだけのあなたに悪い感情なんて抱きようもなかった。
あなたに対する好意がまったくなかったとは言わないわ。ただ、それは過去の感情に過ぎないってだけ。
わたしがあなたをどう思ってるか。今ほど本気で伝えたいと思ったことはない。あなたが耳を塞いでも、目をそらしても、何度でも言うつもりよ。
わたしはあなたを憎んでる。
セラフィア・エイツはあなたを憎んでるの!」
「興味深い」
高揚した声を発したのはネイサンだった。それがロアナ語だったせいで警備員やオスカー卿まで反応している。
「イヴォンは新生前症状で過去の自分になりきっていたけど、君の症状もずいぶん変わってる。交霊状態で他人になりきるなんてね。しかも、現状を理解したうえでセラフィア・エイツになりきってる。
それとも、やっぱり演技?」
ネイサンは全部演技だと思っているらしく、最後の一言をからかうように口にした。リュカは沈黙したまま、わたしの答えを待っている。
今後のことを考えると、交霊状態のフリをするのが賢い選択に違いなかった。死んだ人間がイモゥトゥの体に憑依したとなれば、リュカやフォルブスはまた残虐な人体実験に取り掛かりかねない。頭の片隅ではそんなふうに考えたものの、あらゆる負の感情が体中を渦巻く状態で理性的な選択をしろというのは無理な話だ。
「もう、好きに解釈したらいいわ。あなたたちに言葉は通じないみたいだから」
「失礼な言い方だね。ぼくは今では君と同じ人間だよ」
「肉体がどうこうっていう問題じゃなく、価値観の問題よ。あなたもルーカスも、それにヴィンセント・フォルブスも、人を殺すことを何とも思っていない。そんな人たちと理解し合えるはずがないわ。
わたしは夾竹桃祭の夜にあそこにいるルーカスの手で殺された。彼の手にワインを零し、露わになった〝根〟を見てしまったから。彼はその根をわたしの耳に押し込んで、ああ、思い出すだけでも吐き気がする!
ひどく苦しかった。頭が割れそうで、声も出ないのに、ルーカスは笑ってた!
笑いながらわたしの死体の処理をロブに命じた!
馬車を呼びに行ったのはあなたでしょ、ネイサン!」
「まあまあ、落ち着いてよ。
ぼくはセラフィア・エイツと顔を合わせたことはない。御者を呼びに行った子の姿をどこで見たの?
交霊で見たなんていうのは何の証拠にもならないんだよ。いくらでもでっちあげられるんだから」
「アカツキが調べたのよ!
御者を呼んだのは五歳くらいの子ども。それだけじゃないわ。わたしはルーカスの家で小さな子どもの足音を聞いたし、研究所のイモゥトゥが交霊で見たのは親子以上にそっくりな顔をした――」
「ダーシャ。そろそろ戯言はやめてくれないか」
強引に話を遮ったリュカの声は微かに震えていた。これまで彼の平然とした態度に苛立っていたのに、こうして動揺した姿をわずかでも見せられると心が乱れる。それが一層腹立たしい。
「戯言じゃないわ」
「戯言だ。セラフィアは自殺した。あの夜ぼくが別れ話をしたせいで、彼女を傷つけてしまった。
ダーシャ。君の悲しみには共感するが、セラフィアのフリをしてぼくの傷を抉らないでほしい」
「救いようがないわね。
傷ついてるフリなんかしないで。そんなふうにしてもわたしはもうあなたを憐れむことはない。
わたしはあなたに殺された。あの夜に死んだわたしはまだこの世を彷徨ってる。それはきっと、あなたの罪を暴き、リーリナの沼に沈めるためだわ。
イス皇国に隠れていたダーシャが、新生前症状を抱えながらクローナ大陸を横断して最西端のロアナまで来られると思う?
ダーシャの魂はあの夾竹桃祭りの夜にセタの元へ行ったの!
代わりにこの体に入ったのがわたし、セラフィア・エイツよ!」
「やめろ!」
「やめない!
戯言だと言うなら、それはルーカスとセラフィアの関係のことよ。あなたがわたしにした話は全部嘘。あなたの素性も、イヴォンとの関係も、わたしへの愛も。全部、全部、あなた自身もエリオットの紛い物だわ!」
一度おさまっていた涙が次から次へと溢れ出し、祭服姿のルーカスが歪んで見えた。
ルーカスは泣かない。何があっても涙を流すことはできない。血を流せないのと同じように。そう思っていたのに、
「違う!」
震える声は涙で目を潤ませた人のもののように聞こえた。
「君はセラフィアじゃない!
セラフィアはそんなふうに感情的に声を荒げたりしない。人前で涙を流したりしない。彼女はいつも冷静で、穏やかで、献身的だった。こんなふうに悪意を持ってぼくを傷つける言葉を口にしたりしない!」
祭服の裾を翻し、彼は馬車へと走った。突然駆け出した主人をヴィンセントと護衛たちが慌てて追いかけ、警備員が阻止しようとしたがオスカー卿がそれを止めた。
フォルブスの護衛の一人が御者台に座り、白塗りの絢爛なキャビンにリュカと少女が乗り込む。もう一人の護衛は扉に手をかけたヴィンセントのそばで銃を構えていた。
「オスカー卿!」
ヴィンセントが振り返って声を張り上げる。
「王家と何か企んでいるようだが、今さらラァラ派を裏切るなど愚かなことだ。当代サザラン伯爵は、歴代で最も愚かなサザランとして名を残すだろう」
「フォルブス卿。当家はラァラ派との決別を決めました。歴代フォルブスがしてきたことは卿もご存知のはず。今からでも聖人ジチの前で恥じることのない選択をされますよう」
オスカー卿が毅然として言い返すと、ヴィンセントは忌々しげな顔でキャビンに乗り込む。護衛が扉を締めて御者台に飛び乗り、馬車はすぐに出発した。正門付近には裏門から回り込んだのか数人の使用人と、無関係の通行人の姿があったが、誰も馬車の行く手を遮ることはなかった。
馬車が門を出、蹄と車輪の音は遠ざかって聞こえなくなる。気が緩んだせいかわたしは地面にへたり込んだが、もうひとつ問題が残っているのを思い出した。
「ヨスニル語だから全部聞き取れたわけじゃないけど、さっきの話は嘘? 本当?」
顔を覗き込んできたのはロブの姿をしたネイサン。泥だらけのまま隣に座り、好奇に満ちた眼差しを寄越す。実際に出会うまではネイサンの境遇に同情したこともあったが、ロブの顔を見るとまったくそんな気は起こらなかった。
「ねえ、ライナス。あなたの片割れのことは任せていいわよね。この顔を見ると引っ叩きたくなるの」
敢えてヨスニル語で言ったにも関わらずネイサンにも聞き取れたらしい。
「ねえ、ライナス。どう考えてもこれはセラフィア・エイツじゃない。ぼくの知ってるセラフィア・エイツは、引っ叩くなんて暴力的なことは言わない」
「じゃあ、リュカの前で清楚なフリをしてたんじゃないか。あいつとの関係は戯言だったって、さっき本人が言ってたじゃないか」
ライナスも未だこの状況に困惑しているのか珍しく複雑な表情を浮かべていた。そこに安堵の色が見え隠れするのは、やはりネイサンをリュカから引き離せたことが嬉しいのだろう。
その後、ネイサンはライナスとレナードから尋問を受けることになり、本館の中に入っていった。入れ替わりに庭園の一角に集められたのはサザラン家使用人と警備員。オスカー卿が彼らに状況説明するのを、わたしとジュジュはガゼボでひと休みしながら聞いている。
どうやら本館の窓からあのグロテスクな光景を覗き見た者がいたらしく、使用人たちは戦々恐々としていた。一方、警備員も消えた子どもが見つからないことに不信感を抱いており、オスカー卿は誤魔化しきれないと判断したようだ。
――あの子どもはフォルブスが邪術で作ったもののようだ。
そう明かして固く口外を禁じた。
その場にいた使用人の中でも執事を含め何人かは、自分たちの主人がラァラ神殿と手を切ろうとしている理由がようやく腑に落ちたというような、どこかしら覚悟を決めた表情をしていた。ライナスのことはフォルブスの秘密を探る協力者だと説明し、邪術に侵された少年はその協力者が監視するということで他の使用人たちの動揺もおさまったようだった。
おそらく、この場にいる者の口から今日起きたことが漏れることはないだろう。ウチヒスル奇病事件の真実がこれまで長きに渡って地下に眠っていたように。
次回から第三章に入ります。
更新までしばらくお待ち下さい。




