第七話 ネイサンとロブ
__ロアナ王国サザラン領サザラン伯爵邸__555年9月10日
ロブは散策でもするような足取りでネイサンの後を追った。門番は本館に背を向け、玄関前の使用人はオスカー卿の行方が気になるのか夾竹桃のある庭園の方を眺めている。来訪者が水路庭園に立ち入ったことに気づいた者はいないようだった。
じきに、ネイサンは昨日わたしたちが朝食をとったあたりにたどり着いた。庭園中央の、水路が大きくアーチ状にカーブしたあたりだ。葡萄のパーゴラがレースのような影を作り、ネイサンの身体の表面をなでていく。おぼつかない足取りで時々躓きながら走る姿は、外見より幼く感じられた。走ること自体に慣れていないのだろう。
一方、ロブは周囲の視線を気にしつつも徐々に歩調を速めている。彼が警戒しているのは庭師のようだった。白葡萄のパーゴラ近くで生け垣の脇にしゃがみ込んだ麦わら帽子の男。ずいぶん熱心に草取りをしているらしく、庭園の侵入者などまったく視界に入っていない。
「あの子、庭師に助けを求めるつもりかしら」
カーテンに身を隠しながら、隣にいるジュジュに話しかけた。「助けてくれないわよ」と彼女は笑う。
「ロブのところに連れ戻されるだけだって、あの子だってわかってるはずよ。何しろわたしたちより年上なわけだし。庭師を利用するなら根を使うんじゃないかしら?
あっ、ほら」
ネイサンが進行方向を変えた。まっすぐ行けば水路の弧の頂点あたりにたどり着く。
「庭師に教えたほうが――」
わたしの心配をよそに、唐突に立ち上がった庭師が「やめろ!」と叫んだ。ネイサンはビクッと体を強張らせ、庭師の顔を凝視する。
「あれ、ライナスだわ」
「あの庭師が?」
色々と聞きたそうなジュジュを放って、わたしは窓を飛び越えた。ほぼ同時にライナスとロブが駆け出す。
「ジュジュ、レナード様に伝えて!」
返事を聞く余裕もなく、外廊を駆けて芝生を横切った。煉瓦敷きの遊歩道で勢いをつけて生け垣を飛び越え、水路沿いの縁石伝いに走る。門番も使用人も異変に気づいたようだった。
「万が一、根を見られたりしたら……」
使用人たちの視線を他に向かわせる方法は思いつかない。なら、〝根〟が剥き出しになるのを阻止するしかない。
ロブは先回りしてネイサンを止める算段のようだ。ネイサンは自分の足では間に合わないと判断したのか、行き先を変えてパーゴラ脇の花壇に向かった。狙いはおそらく花壇の横に置かれたブリキバケツ。
「お待ち下さい、ネイサン様!」
ロブの声を無視してネイサンがバケツに手を突っ込んだ。
「ネイサン様、何を……」
ロブはすぐ背後まで迫っており、今にも小さな背に手が届こうとしていた。しかし、ネイサンは振り返りざまにバケツを投げつけ、勢いに任せて体当りする。不意を突かれたロブは、体勢を崩して尻もちをついた。
「ロブ、大人しくしろ。命令だ」
ネイサンが倒れたロブの上に跨るその光景は、幼い子どもが少年従者を振り回して遊んでいるように見えた。おそらく遠くにいる門番や使用人からはそう見えているだろうし、フォルブスからの客人だからか干渉する気はないようだ。
一方、わたしとライナスが見ているのは子どもがじゃれ合うような微笑ましい光景ではない。ネイサンの右手首からは黒髪のような根が生えてウネウネと動き、それはすでにロブの耳に侵入しようとしていた。
「おやめ下さい、ネイサン様。わたしにはすでに根が」
「根が入ったイモゥトゥに別の根を入れたらどうなるかな」
ロブは懸命に根を避けていたが、突然「フグゥ……!」と変な声を漏らして痙攣しはじめた。ネイサンは強引に根を千切って少年の体から降り、よく見るとその右手首には指のような小さな突起ができている。
人が倒れたのだからさすがに誰か気づくだろうと思ったが、いつの間にか本館玄関前にいるのはレナード一人になっていた。メイドが門番と押し問答しているが、そのメイドはジュジュ。二人も水路庭園で起きていることを見られてはまずいと判断したようだ。
「ネイサン……」
ライナスが振り絞るような声で名前を呼んだ。根を見たせいか、顔色がずいぶん悪い。
「ライナス、フォルブスを裏切ったんだね」
ネイサンは恨めしそうにライナスを睨んだ。いつもならとめどなく言葉が溢れ出すライナスの口は、「ああ」と吐息のような声を漏らすだけ。
「逃げたのならフォルブスや神殿のことなんか忘れて好き勝手生きればいいのに。なんでサザランにいるんだよ」
「逃げたわけじゃない。おれたちの人生をめちゃくちゃにしたやつらをぶっ潰すためにここにいる」
「〝人生〟かぁ。そんな言葉が自然に出るくらい、ライナスは人間の生活に慣れたらしい。リュカもじきに体を手に入れるだろうし、ぼくだけ泥のままなのは不公平だからね」
ネイサンは横たわったままのロブを一瞥すると、つま先で無造作につついた。痙攣は収まりつつあったが、今度は苦しげなうめき声をあげ始める。
「違う人間の根が入ってるからかな。ちょっと時間がかかってる」
「違う根? どういう意味だ?」
「ああ、ライナスは知らなかったか。カラック村孤児院の生き残りに使ったのはフォルブスの血でできた根だよ」
「まさか、フォルブスも泥人形を作っていたのか?」
「エリオットの血でできた根には限りがあるから温存しておきたかったんだ。先々代フォルブス男爵が何体か泥魂人形を作って、その根を使った。
作りたての泥魂人形の根は本体の性質を良く受け継いでるみたいでさ。先々代フォルブス男爵はエリオットの信望者だったから、あの孤児院出身のイモゥトゥはみんなリュカに従順だ。君は例外だけどね」
「ああ、それでか」
ライナスが脱力したようにポツリと呟いた。自分以外のイモゥトゥがリュカに忠実なのはなぜか――という疑問は解消されたが、彼にとってはすでにどうでも良いことのようだった。
「ネイサン、この後どうするつもりだ。ロブの体を奪うつもりか?」
「邪魔しないだろう?」
「ロブとの同居は厄介だと思うぞ」
「余計なお世話。ロブも動かなくなったことだし、さあ、そろそろショーの始まりだ」
ネイサンの言葉の意味はすぐ明らかになった。ロブがゆっくりと上半身を起こし、何かに操られているかのようにのそりと立ち上がる。目は開いているが何も見ていなかった。
「ロブ、ここだ」
ネイサンが服を引っ張ると、ロブは彼を抱き上げて水路へと走った。縁石に膝をつき、湯浴みでもさせるようにそっとネイサンの体を水に浸す。
わたしは数メートルほど離れた場所で様子を眺めていたが、頭が沈む直前に一瞬だけネイサンと目が合った気がした。じきに水路の水は灰色に濁り、姿が視認できなくなると、間をおかず水面に黒い髪の毛のようなものが現れる。それは蔓が巻き付くようにロブの腕を這い上り、根先は触角のように入り口を探してユラユラ動いた。ロブは抵抗することなくそれを受け入れ、腕から肩、首筋を伝って顔に到達した根は、口や目、鼻、耳の穴から体の中へと侵入する。それは想像以上に大量で、顔全体が黒く覆われるほどだった。
「グッ……」
くぐもった声がし、ロブは水路脇に倒れ込んだ。すべての根が入り切ってしまうとピクリとも動かなくなり、ライナスが駆け寄ってロブの鼻先に手をかざす。
「息はしてる」
「このまま目覚めないなんてことは?」
「さあな」
恐る恐る近づいてみると、ライナスの手が震えていた。
「平気?」
「そっちこそ顔が真っ青だ。だが、そんなこと言ってる余裕はない。使用人がオスカー卿を呼びに行ったようだったし、ひとまずロブを移動させよう。この状態をリュカやヴィンセントに見られるのはまずい」
「違う。ぼくはネイサンだ」
抱き上げようとしたライナスの手を退け、少年はヒョイと身軽な動きで立ち上がった。数回咳払いし、体を慣らすようにジャンプする。
「ふうん。ライナスも三十四番に入った時はこんな感じだったのかな。ああ、でも同居っていうのは確かに鬱陶しい。頭の中がうるさいよ。
ロブ?
ハハッ、ロブだ。笑っちゃうね。
いや、理解しがたいんだけど、どうしてロブはぼくとリュカを分けて考えるんだ?
へえ、そう。
でも、ぼくもリュカもエリオットの根を受け継いでる。フォルブスが敬うべき存在だろう。この体が誰のものか、そんなの愚問じゃないか。
異論は?」
傍から見ればひとり言を喋っているだけだが、どうやらロブと話しているようだった。ライナスはそっとわたしの腕を引き、ネイサンから距離をおく。
「何かの拍子にロブが顔を出すかもしれない。油断するな」
「それはない」とネイサンが即座に否定した。
「なぜそう言い切れるんだ?」
「リュカはぼくらを雑に扱っていたけど、フォルブスはぼくらのことも同様に敬っていただろう?
特に先々代フォルブス男爵はそうだった。ロブの体を乗っ取ったのは案外最善の選択だった気がするよ。ライナスは三十四番を抑えるのにずいぶん時間がかかったみたいだけど、ぼくは――」
調子よく喋っていたネイサンが、突然驚いたように馬車の方を振り返った。
「足音が聞こえる」
足音に驚いているというより、イモゥトゥの聴力に感嘆しているようだった。
「たぶん、リュカたちだ」
「おい、ネイサン。どうやって収拾をつけるつもりだ」
「リュカをここにおびき寄せて水に沈めればいい。餌はここにいるんだから」
言葉の意図を察して体がブルッと震えた。
「この体を渡す気はないわ」
「そう。じゃあ、がんばって」
顔がロブだからか余計に腹立たしさを覚える。向こうはわたしの反応など気にも留めず、浮かれた足どりでバケツを拾いに行った。
レナードを呼ぶオスカー卿の声が聞こえ、振り返ると玄関先に三人の人影がある。オスカー卿とレナードとメイド姿のジュジュ。少し離れて馬車に向かうのはヴィンセントとリュカだ。キャビンの扉を開けて状況を察すると、ヴィンセントはリュカを置き去りに水路庭園を突っ走ってくる。
「ロブ! あの方はどうした!」
「申し訳ありません、ヴィンセント様。ネイサン様が馬車から抜け出し、庭園中を探したのですが見つかりません。ここの水路の水が濁っているのですが」
「水が? まさか飛び込ん――」
わたしたちのところにたどり着く直前、ヴィンセントが突然足を止めた。
「なぜおまえがここにいる、ライナス!
それに、隣にいるのはあの女じゃないか!」
「ネイサンが脱走したなら捜索に協力しないわけにはいかないでしょう?」
ライナスが挑発するような口調で言った。ヴィンセントは憎々しげに睨んだが、それ以上に困惑しているのが表情からうかがえる。調べようと思えばダーシャがここにいることも、ライナスがロアナ入りしていることもわかったはずだ。それなのに、これだけ驚いているということは聖地での一件以来こちらの動きには気を配っていなかったのだろう。
出し抜けにアハハッと脳天気な笑い声が庭園に響いた。声変わりし終えていない少年の声。
「本当に、ネイサン様はどこに行ったんでしょうね」
ロブの姿をしたネイサンはバケツで水路の水を汲み、ぐるっと体を回転させて勢いをつけ庭園に撒き散らした。べシャッと鈍い音をたてて地面に投げつけられたのはさっきまでネイサンが着ていた子ども服だ。




