第十一話 愛を教えない神
__ナスル王国トゥカ聖会特別保護地区トゥカ大聖殿付属治療院__555年9月4日深夜
案内されたのはタルコット侯爵のいる療養所ではなく、セタ治療院だった。『第一医務室』と札のかかった部屋に入ると、書類の積まれた執務机にランプを灯して仕事をする年配の男性の姿がある。どうやらここの医師のようだ。
わたしたちに気づいた彼が書類から顔をあげると、白衣の女性は早口のナスル語で何か話しかけた。短いやりとりのあと、こっちを振り返って「ナスル語はできませんよね?」とナスル語で聞いてくる。
「ロアナ語ならできます」
ロアナ語で返すと女性は意外そうにわたしを見た。中央クローナ風の服を着た少女がロアナ語を話せるなんて思わなかったのだろう。
「じゃあ行きましょうか、お嬢さん」
医師が椅子から立ち上がってランプを手に提げた。せっかちなのか、忙しいのか、「こっちだ」と振り返りもせず廊下を奥へと進んでいく。
「彼は大丈夫ですか?」
白衣の背に声をかけるとようやくわたしを振り返った。
「何事も絶対ということはないが、彼は大丈夫だろう。暴発によって右手周辺に刺さった破片は全部取った。側頭部は倒れた時にレールにぶつけて切ったらしく、縫合したがそれほど深い傷じゃない。まだ意識が戻ったばかりだからぼうっとしているが、かわいい女性が来たら頭もはっきりするだろうさ」
無愛想な医者かと思ったら茶目っ気のあることを口にする。が、彼はすぐに笑顔を引っ込めて唐突に足を止めた。「問題はもう一人の患者だ」と右側の扉に目をやる。扉の小窓から漏れる中の明かりがわたしたちの影を揺らした。
「クリフ・オールソンはここに?」
「ああ。聞いたかどうか知らないが、あの暴発は細工によるものらしい。彼を運んで来た衛兵が火薬量が増やしてあったのではないかとも言っていた。
完治したとしても右手から右肩、顔にも火傷の跡が残るだろう。しかし、まずはそれ以前の話だ。九月とはいえまだ暑い。気をつけないといけないのは感染症だ。当分の間は面会できないと思っておいてくれ」
医者は小窓からパッと視線を外すと、「ケイ公爵令息さんの部屋はすぐそこだ」と再び奥へと進んだ。その口調はアカツキを敬っているんだか皮肉っているんだかよくわからない。
二つの扉の前を素通りし、医師はその次の扉をノックした。返事を待つことなく押し開け、そのあとに「どうぞ」とアカツキの声がする。枕元にランプがひとつあるだけで部屋は薄暗く、ベッドの上に仰向けに横たわる彼はまだわたしに気づいていないようだった。その頭と右手には包帯が巻かれている。
「アカツキ」
声をかけると彼は頭を起こそうとし、「まだ寝ていなさい」と医者がその肩を押さえた。
「かわいい女の子が来ても慌ててはいけない」
医者の言葉は全部ロアナ語だったが、アカツキが聞き取りが苦手だと知っているらしく簡単な言葉でゆっくり喋った。
「わかった」とアカツキはぎこちない発音で答え、無事な左手をわたしに差し出す。
「握ってあげなさい」
医者がわたしの背を押し、ベッドサイドに座って彼の手を握ると思ったよりも強い力で握り返してきた。
「アカツキ、痛みはある?」
「ちょっとね。セラフィアは怪我してないか?」
「してない」
涙があふれそうになって言葉に詰まる。沈黙を埋めるようにわたしの背後で医者が口を開いた。
「アッシュフィールドさん、早く二人きりにさせてあげたいので先に問診してもいいかな? あなたの方が彼よりロアナ語が堪能なようだから通訳してほしい。まず吐き気はないかどうか聞いてもらえるか?」
わたしは医者の言葉をアカツキに伝え、その返事を医者に伝えた。その結果、頭の方は問題ないようだけど、右耳の聴力が落ちていると言われた。
「爆発音を間近で聞いたからだろうな。まあ、一過性のもので翌日に治ることもあるし、明日また確認しよう。わたしはこれで失礼するよ。今は鎮痛剤が効いてるが、痛みが我慢できなくなったり、他にも何かあったらそこのベルを鳴らしたらいい。アッシュフィールドさんの毛布と敷布はあそこにある。何か聞いておきたいことは?」
わたしが首を振ると、医者は白衣の裾を翻して部屋を出ていった。二人きりになり、アカツキはわたしの手を自分の方に引き寄せる。
「セラフィア、君が無事かどうかちゃんと確認したい」
「わたしは怪我しても放っておけば治るのよ。それに、わたしはセラフィアじゃ……」
アカツキの唇がわたしの指に触れた。
「セラフィア。君を愛してるって、ちゃんと伝えたことがあったっけ?
君が研究所にいた頃から、今も昔も君は特別な人だ。前より少し若返って感情的になったけど、やっぱり君は君だし、おれは君を愛してる。君は若いままの姿で、おれは年々年をとっていくんだろうけど、それでも傍にいたい。傍にいてほしい」
「……アカツキこそ、わたしを残してセタのところへ行ったりしないで」
その後は嗚咽で言葉にならなかった。アカツキは繋いだ左手の指先でわたしの手の甲をさすっていたが、その手から少しずつ力が抜けていく。
「アカツキ……?」
「鎮痛剤のせいかな。セラフィア、おれは少し眠るよ。君も風邪ひかないよう毛布を羽織って」
そう言って目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。わたしは彼の手を握ったまま頭をベッドに預ける。涙が止まると、安堵とともに言いようのない怒りが胸の奥に込み上げてきた。
――許せない。
人の命を何とも思わず自分の目的のためなら簡単に人を傷つける、わたしの恋人だった男。
自分に愛が欠落していることを、ルーカスはおそらく自覚していた。彼がセタ神を嫌ったのは自分が決してセタの元へ行くことのできない泥魂人形だからだろうか。
しかし、彼が愛を知らないのは泥魂人形だからではない。同じ邪術によって造られた泥人形でも、キャスリンはイヴォンに愛を注いでいた。でなければ、あんなふうにキャスリンに懐きはしなかったはずだ。
わたしはふと、交霊状態のイヴォンがこんなことを言っていたのを思い出した。
『リュカは伯爵様にとても似ているでしょう。外見じゃなくて中身のことよ。リュカは伯爵様の持つ地位や権力を欲しがっているような気がするの』
エリオットと同じ権力欲を胸に秘めていながら、人の目を避けて生きるしかなかった日陰の支配者。歴代フォルブス男爵がリュカに忠実だったとしても、フォルブスにとっては聖殿に祀られている聖人像やセタ神像と同じ〝偶像〟だったのではないだろうか。
信徒は崇拝対象を畏れ敬うが、神を愛するなど恐れ多いこと。ルーカスは他者と対等な関係を築くことはできず、崇拝されても愛されることはなかった。
――だから、わたしと恋人ごっこをしたのだろうか。
「愛の気づきを」
これこそルーカスのためにある言葉のような気がした。
「セラフィア、君が愛してるのは誰?」
思いもよらず返事が返ってきて、驚いて顔をあげた。眠ったと思っていたアカツキが薄っすらと目を開け、その手でわたしの頬に触れる。
「……あなた以外に誰がいるのよ」
彼の手のひらに口づけると、彼はわたしの手を引き寄せて同じようにキスをした。そして、そのまま目を閉じる。わたしは包帯を巻いた彼の痛々しい寝顔をながめ、ひとつの決意をして彼の横で眠りについたのだった。
翌、九月五日の朝。アカツキの食事の介助をしていると、オトとライナスが治療院を訪ねてきた。ライナスの手には封筒があるから見舞いだけというわけではなさそうだ。
「ユフィ、アカツキが死ななくて良かったね」
「二十歳そこらの小娘にはあれが死ぬほどの怪我に見えるんだな」
怪我人を前にこんなふうに軽口を叩けるのは、二人が死を何度も目の当たりにしてきたからだろうか。アカツキは苦笑している。
「ライナス、おれに何か言うことは?」
「ケイ卿が元気そうで何よりです」
「それだけか?」
「ユーフェミア嬢に聞いてないのか?
おれはあんたらを裏切ったわけじゃない。元々フォルブスを裏切るつもりでタルコットに接触したんだ」
「ひと通りのことは聞いた。おまえにも事情があることは理解してるつもりだ。だが、おまえがオールソン卿をどうするつもりだったのか聞きたい。彼がフォルブスの捨て駒にされることはある程度予想してたんだろう?」
「薄々は。ただ、ああいう形で切り捨てるとは予想していなかった。
フォルブス男爵からすればクリフは無能な息子だが、後継者のヴィンセントと瓜二つの息子をこんなにあっさり捨てるとは思わないだろう? 分身を禁術で作らなくても身代わりが最初からいるんだ。
だが、それが裏目に出たのかも。クリフが男爵の信頼を得れば、ヴィンセントは自分の立場が脅かされることになる。顔が同じだから入れ替わるのは簡単だ。だが、クリフが助かったとしても傷跡があれば入れ替わりはできない。死んでも同じだ」
たしか、オールソン卿自身も以前こんなことを言っていた。――ヴィンセントそっくりのこの顔を利用すれば、神殿やウチヒスル城内のほとんどの場所には出入りできるはずです――と。もしかしたら、これまでにもヴィンセントになりすましたことがあったのかもしれない。
わたしはライナスの話に言葉を失ったが、アカツキは何か思案しているようだった。
「男爵とヴィンセントの思惑が完全に一致しているわけじゃないってことか」
「そういうことだ。ケイ卿はリュカの狙いを彼女から聞いたか?」
「体を奪うと聞いたが……」
アカツキは半信半疑の表情で答える。
「信じられないのは仕方ないが嘘じゃない。ただ、リュカがイヴォンの体を奪うには泥を流して根だけの姿にならないといけないから、エリオットの姿をした泥人形はなくなることになる。それが理由でイヴォン乗っ取り計画にフォルブス男爵が反対した可能性はなきにしもあらずだ。
フォルブスだけの特別な使命がなくなるんだから」
「男爵はリュカがエリオットの姿であることに固執し、ヴィンセントはそうではない?」
「あくまでもおれの推測だ。だが、他にも反対する理由はある。リュカがイヴォンに入れば交霊能力は失われる。イヴォンの交霊能力は他のイモゥトゥとは段違いだから、もったいないと言えばもったいない。
交霊能力のなくなった聖女が信者の心を掴むのは難しいが、おそらく新生とともにエリオットの魂が聖女の体に宿ったことにするつもりなんだろう。
何にせよ、そんな計画は全部机上の空論で終わらせてやる」
ライナスはそこで言葉を切り、何か言いたげな眼差しでわたしを見た。
「おれは今日の夕方ここを発つつもりだ。そのあと、王都ハサでパヴラたちと合流する」
「連絡がとれたの?」
「いや、ハサの黒豹倶楽部宛てにさっき電報を打ったばかりだが、返信を待ってる余裕はない。ユーフェミア嬢はどうする? ここに残るか? それとも行くか?」
「行くわ」
即答すると、ライナスは自分で尋ねておきながら呆れたように首を振った。
「さすがにその状態のケイ卿は連れていけないぞ。それでも行くのか?」
「アカツキにはもう話をしてあるわ。イヴォンが連れ去られたのに、ここでのんびりしてるわけにはいかないでしょ。
オト、わたしの代わりにここに残ってアカツキを見てて。オトなら安心して任せられるから」
オトも行く予定だったのかライナスと顔を見合わせたが、肩をすくめて「ぼくは構わないよ」とうなずいた。
「でも、ユフィ。本当にアカツキをぼくに任せていいの? ぼくの恋愛対象が同性だって知ってるよね?」
「オトはそうかもしれないけど、アカツキは八十歳のおじいちゃんを好きになったりしないわ」
「まあ、ぼくもアカツキより十歳か二十歳くらい年上が好みだけどね」
馬鹿馬鹿しい軽口の応酬をニヤニヤしながら聞いていたライナスが、ふと思い出したように手に持った封筒を開けて一枚の紙を取り出した。
「それは? ライナス・ローナンお得意の提案書か何か?」
「そんなもん」
彼はアカツキに見えるようにシーツの上にその紙を置く。ザッカルング語の走り書きが十数行あるだけで、到底提案書には見えない。
「読めばわかると思うけど、ヒューバート教司にセラフィア基金に協力したらどうかって提案したんだ。セラフィア基金のことは新聞に載ったから大聖会の聖職者も知っているらしい。だが、当然多くの聖職者にとっては他人事だ。セラフィア基金はイモゥトゥを支援するもので、大聖会はイモゥトゥの存在自体を認めていないから。
でも、不当に虐げられている不老の人間を保護することは聖人ジチの教えに反するものじゃない」
「エイツ家はかなりの額を大聖殿に寄付してるわ。大聖会から基金に寄付するといっても多少の金額では」
「金じゃない。セラフィア基金に寄付をするんじゃなく、不老者が居住できる場所を聖地に作り、雇用や教育の機会を与えてはどうかという話をしたんだ。
エイツ男爵家とこういう形で繋がりを作っておけば、神殿の資金源であるサザランに対抗できる。エイツ男爵が実際にどれだけの金を大聖会に出すかは関係なく、サザラン家がなくても大聖会は成り立つんだと、大聖会内部の人間に思わせることが重要だ」
「腰の重い祭司を説得するためってことね」
「そういうこと。それから、イヴォンが書いた覚書を公表すべきだとも言っておいた。なるべく人目につくように新聞の紙面で、こんなふうに表明するんだ。
――イヴォンの同行者によると、下位聖職者の祀花守イヴォンは大聖会で上位聖職者になるための修行を希望しトゥカ大聖殿を訪れようとしていた。しかし、イヴォンを聖女と崇めるラァラ神殿の一部強硬派が暴走し、強引にイヴォンを連れ去ってしまった。
この覚書を読めばイヴォンがラァラ神殿から逃れたがっていたことは明白であり、助けを求める彼女が我々のすぐ目の前で連れ去られたことはまことに遺憾である。
先月、ラァラ神殿は高額の懸賞金をかけてイヴォンを捜索しようとしたが、おそらくあれも一部強硬派によるものだろう。ラァラ神殿がイヴォンを一部の強硬派から保護し、速やかに大聖会へ引き渡すことを求める――こんな感じでね。
ああ、この〝一部強硬派〟っていうところが重要なんだ。ラァラ神殿と完全に敵対するような書き方をするより、向こうに言い訳の余地を残しておいたほうが横槍が入りにくい。実際のところ、フォルブス以外の霧の銀狼団員は何も知らなかったはずだし」
紙も見ずにスラスラと話すライナスを、わたしとアカツキは感心半分、呆れ半分で眺めていた。
「本当に、転んでもただでは起きないわね。いい性格してるわ」
「お褒めの言葉に感謝します」
ライナスは仰々しく頭を下げる。椅子に座っていたわたしは伏せた彼の顔が強張っていることに気づいたが、その理由を問うことはできなかった。ライナスはわたしの想像よりたくさん転んで、そのたびに起き上がって生きる術を考えてきたのだろう――そんなふうに想像するだけだった。
その日の昼過ぎ、予想よりも早くパヴラから返信が届いた。受け取ったのは以前アカツキの通訳をしたというヨスニル出身の修行者。レナードが彼のことを知っていたようだ。
『二人ともパッシィと出会った。ジュハンがトルへで追いかけるからトエルインここに来る』
語学が堪能な人ならすぐに意味に気づくだろうが、クローナ大陸のほとんどの人間にとっては意味不明の文章。『パッシィ』はナータン語で『豹』。つまり黒豹倶楽部のこと。『ジュハン』の『ハン』は2を意味するから『ジュ』がふたつで『ジュジュ』。同様に『トルへ』は『船』、『トエイルン』は『五日後』。つまり、電報の内容はこういうことだ。
――パヴラとレナードは二人とも王都ハサの新月の黒豹倶楽部と合流した。ジュジュが船でこちらに向かっていて、五日後にはハサに到着するだろう。
幸い、パヴラたちがワイアケイシア急行に同乗していたことにロブは気づいていなかったようだ。
ロブの仲間が大聖殿の逃亡修行者三人だけだったことを考えても、彼はザッカルングでは単独で動いていたと考えられる。ヘサン伯爵邸を出る時にパヴラたちと別行動にしたのが功を奏したようだ。
その日のうちにアカツキは療養所に移り、オトが通訳兼世話係になった。タルコット侯爵は熱がひいたものの、捻挫が治るまで聖地に留まりわたしたちからの連絡を待つという。大聖会との話の擦り合せは侯爵に、セラフィア基金含めエイツ家や研究所関連の調整はアカツキに任せ、わたしはライナスと二人で聖地を後にした。
乗り込んだのは西クローナを往復するサルビア急行。わたしの鞄にはヒューバート教司から預かったサザラン伯爵宛の手紙が入っている。
次回から【第三幕ルーツ】に入ります
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