1.1王子殿下とわたしの名前
カラカラと、車輪の駆動の名残が聞こえる。
今、空が見えたらきっと足の間からになるんだろうなと思うけど、ここは馬車の中なのでそれを確かめるすべはない。見えるのは出入りをするためのドアだけ。上にあったら困るじゃないの。
どうにか起き上がりたいがいい感じにどこかにはまっているのか上手く動けない。体は柔らかい方とはいえ、この姿勢、ちょっときついわね…。
うーむと唸っていると近づいてくる足音にその音をかき消される。どうやら急いでいるらしい。
いや、ちょっとお待ちになって。あなたはこの馬車をひっくり返した方ではありませんよね?
そんなわたしの声なき問いかけに答えてくれようもなく、車体を登ったらしいその正体不明の人物によって、本来とは異なる位置にある扉が開かれる。だから待てって言ってるじゃないの。
途端に目に入った色合いに安堵する。白雲の髪、蒼天の瞳。思っていた物とは違う、けれども同じ、空の色。良かった、少なくともこの人は馬車をひっくり返したりはしない。
「ぶべっ」
「何て恰好をしているんだ!」
着ていた外套は投げつけてきたりするけど。
不可抗力ですと言いつつ申し訳ないと謝罪する。乗っていた馬車がひっくり返ったせいでスカートの中身を盛大に公表する体勢になっていたのだ。そんな見苦しいものを扉を開けて早々見せてしまってホントスイマセン。ついでに起き上がれないので起こしてもらえませんでしょうか。
器用に上から車内に入ってきた彼は、投げつけた、もとい、足元にかけてくれた外套が落ちないように慎重にわたしを起こしてくれた。お礼は忘れず言ったのに、ものすごい険しい顔で睨まれる。人の下着見た後でそんな顔しないでほしい。…あれ、履き忘れてたりはしないよね。
「…怪我は?」
一瞬とんでもなく取り返しのつかない忘れ物をしたのかと思って焦ったけど、彼の険しい表情の理由は別にあったらしい。ほっとして元気よく立ちあがり、満面の笑みでこう答える。
「大したことありません!!」
言い終わるか終わらないかのぎりぎりのラインで顔面を掴まれる。わあ、手、大き痛いです。
静かに籠められる力が増していくのを感じ取り、このままだと握りつぶされる可能性があると察知した私は華麗に話をそらそうと口を開く。
「王子殿下がご無事で何よりでイタっ!ちょ、なんで眉間に関節入れてくるんですか!!」
「手の平に息がかかってくすぐったかった」
「それは大変失礼いたしましてです、はい」
反省しているのでこめかみに曲げた指を移動させないでください。
大陸の中にはいくつか国がある。わたし達の住むブリオニア王国は決して大きくはないしものすごい豊か、というわけではないけれどのんびり平和に暮らすには十分な、つまりは最高の国。とはいえわざわざ攻め入ってまで強奪するような資源もないし、周りの国もみんな似たり寄ったりなのでわたし達のおじい様世代が子どもの頃くらいにあった戦禍も今じゃ微塵も感じ取れない。
それでも、王子殿下の乗っていた馬車をひっくり返されたりするから不思議なものだ。
当の殿下は大したことないという申告を全く受け付けずにわたしの身体検査をしている。どこも血は出てないしひっくり返った時に打ったところが痛いくらいなので本当に大したことはないのですけど。
「頭は打ったか」
「大回転したのでどこを打ったかまでは把握できませんね…私より殿下は?同乗者さんたち逃がした後すぐに大立ち回りに行ったじゃないですか」
「あんなことで傷など負うものか」
「あんなこと、ねぇ…」
頭部の確認を入念に行う殿下の向こうに見える死屍累々。多分、あの人たちがこの馬車を追いかけてきてひっくり返したんだろう。相手が殿下で運がいいのか悪いのか。どう考えても勝てないけど、腕が良くて弱者をなぶる趣味のない人の手にかかったら苦しみは少なかったかしら。
「…命までは取ってないぞ」
「器用にもほどがありません?多対一でどうやって手加減して勝つんですか。というかお召し物も何も返り血がついてないのはなぜですか王族特有の結界か何かあるんですか」
「そのいつも通りの馬鹿らしい発想からして打っていたとしても大事ないな」
「それは安心していいのでしょうか。悲しむべきでしょうか」
「勝手にしろ」
ではお言葉に甘えて勝手に拗ねます。
むくれた途端に頭をはたかれた。どうして。
「その顔は二度とするな」
「理由をお教えください」
「絶対嫌だ」
「何でですか」
「うるさい黙れ」
「ひどいっ、横暴!次期国王候補その2がとても暴君になりそうですよ臣民のみなさ、ごめんなさいごめんなさいあなた力強いから痛いですぅぅぅぅ」
お母様にもちもちですねと撫でてもらうのが幸せなので、引き伸ばされると困るんですこのほっぺ。
何とか2倍の長さになるのを免れた頬をさすりつつ、現状の把握を試みる。
「ここ、どこでしょう?」
「…」
「どうやって帰りますか?」
「…」
「――最近の私のお母様の可愛い話聞きます?」
「お前、本当に少し黙ってろ」
「ギョイ…」
現状、わたしは黙るしかないようです。
大人しく殿下の命令に従っていたら唐突に殿下が歩き出した。自ら斬捨て、もとい、戦闘不能にした人々の方に向かいおもむろに上着を剥いでいく。
「えっ追いはぎ?」
「俺は何と言った?」
「申し訳ありません黙ります」
淡々とした話し方をする人だけど、怒気はにじむ。奴は存外短気だからなぁと愉快そうに言っていた王女殿下を思い出す。短気は損気と申しますのでどうか顔面わしづかみもほっぺ引き延ばしの刑もご勘弁ください。
わたしの祈りが通じたのか、殿下は顔をつかみもほほをつまみもせずはぎ取った服を投げつけてきた。今は直立しているのでスカートの中身は見せておりませんがなぜでしょう。
「その服、主教堂の関係者だとすぐにわかる。こいつらが何者かは知らんが俺の乗っていた馬車に迷わず襲いかかってきたのだから同行者が誰かは把握しているのだろう」
「あ、なるほど。身元隠すために着替えろということですね。承服しました」
「この場ですぐ着替えようとするなら俺はお前を斬る」
教堂の制服である足元までの長さのワンピースのボタンにすでに手をかけているわたしの方を見ずに、殿下は腰に下げた剣に手をかけている。
「…そんなこといたしませんよ。私、淑女です」
「淑女なら一旦そこの馬車に戻って着替えるよな?」
「もちろんです、淑女ですから」
淑女だろうがなかろうが、命は大事なので大人しく馬車に戻って着替えます、はい。
殿下がはぎ取って投げつけた、もとい、見繕ってくださった服は斬れてもいないし血もついていない。ちょっと大きいけど、成長を見越したという判断で収まる範囲だろう。
落ちてくる袖に苦労しながらよっこらせと馬車の中を登る。殿下みたいにひょいひょい出入りできる人間はそういない。
ぐてりと外に出たわたしを、めんどくさそうに引っ張り出した殿下もすでに服を着替えている。紳士は大空の下着替えてもいいものらしい。
「脱いだ服はもってろ」
「え?邪魔じゃないですか?あれ無駄に丈長くてかさばりますよ。殿下のお召し物と違ってそんな値の張るものでもないし」
「…仮に、捜索に来た人間が横転した馬車の中で着ていた人間のいない服を見つけたらどう判断する?」
「動くのに邪魔だから脱いで逃げたんだなあ…痛いですほっぺ伸ばさないでくださいぃぃ」
「もういい、ともかく持ってろ。中に置いてきたなら取ってくる」
わたしが答える前に馬車の中に入ってすぐに出てくる殿下も、自分の着ていた服は持っていくらしい。
どこに用意してあったのか、庶民が使うような旅行カバンがある。その中に2人分の服を詰める殿下の頭をじっと見つめる。
「殿下、」
「取りあえず、近くの町まで行く。おおよそだが場所は把握しているから、ともかく国と接触を取る手段を確保する必要がある」
「あの、殿下」
「なんだ」
「帽子被りません?」
これからの方針を説明しながら立ちあがって歩き出そうとしていた人は、途端に固まる。ついでに顔が引きつっている。予想通りの反応だけど、譲るわけにはいかない。
「どっちかといえば覆面の方がいいと思うんですけど、さすがにお嫌でしょうから帽子で」
「…必要ない」
「ダメです、身元隠すなら絶対必要です、帽子」
「必要ない」
「ハイドランジア様!」
仕方なしに大声で「二の名」を呼べばびくりと動く背。合わせて流れる純白の髪は、どうしたって目立ってしまう。空色の瞳と合わされば、なおさら。
「どうしたって連想されるんですから諦めて隠してください、アナスタシウス・ハイドランジア=ナスタチウム第一王子殿下」
「……忠言痛み入るな、アルディジア=クローブ」
ひどく苦々し気に言うこの人の2番目の名は、国教クレナータ教の元主神で現主神の夫の物と同じ。剣と戦いの神。白雲の髪に蒼天の瞳。ここまでは問題ない。この人にピッタリ。
問題は、クレナータ教でのハイドランジアが大層浮気性で本妻に同情した他の神々や人間によって主神から降ろされたこと。これがまず一つ。あとは、まあ、これはこの人にも陛下方にも非はないけど、ついでにわたしのお父様、お母様にも非はないけど。
クレナータ教の現主神でハイドランジアの妻の名前がアルディジア、ってことが何とも気まずいだけ。主に、わたしたち当人の間で。