第6楽章 小部屋のオペレッタ2番
ある小さな村に、ひとりの少女がいました。
若くて、美しくて、働き者で、優しい心の持ち主でした。
でも、この物語の主人公は、その少女ではありません。
これは、ガラスの靴にも、王子様にも選んでもらえなかった、
美しい少女の「姉」のお話。
――1号車 一等客車
ここは、他車両での喧騒が嘘のように、静まり返っている。
でも、あれだけ油を注いだのだから、さぞ炎は燃え広がっていることだろう。
あの5人は喜んで、その炎を掻き回しているに違いない。
アイリーンは、ふっと口の端で笑う。
殴られて腫れた頬が、じくじくと痛んだ。
どこかの義歯が、折れているのかもしれない。
口の中はいやにぬめり、死んだ魚のような鉄臭い唾液が、唇からあふれて止まらなかった。
でも、そんなものは、アイリーンには慣れた味だ。
列車の音に混じって、かすかに銃声が聞こえる。
廊下を数人の足音が慌しく駆けて行った。なにか声をかけあっている。
久しぶりに聞いた、男の怒鳴り声だ。
そういえば、旅をともにしている猟奇殺人鬼たちは、気に入らないことがあってもめったに声を荒げないタイプの男ばかりだと気付いた。
うっかり女を殴ってしまうマトモな男より、イカれた猟奇殺人鬼の方が優しいなんて面白い。
「なにが、おかしい?」
訛りのきつい声に、焦りを感じ取って、アイリーンはますます唇をゆがめる。
部屋に残っている男が、椅子に腰かけたまま、アイリーンを見下ろしていた。
顔を覆った黒布の間から、残忍そうな目がのぞいている。
「巣穴のネズミが、怯えてるのがおかしくて」
舌がしびれてうまく動かず、ジョークはちゃんとした言葉にならなかった。
それでも、声の調子で分かったのか、男は持っていた長銃の柄を振りかぶる。
「やめなさい!」
1号車の乗客であろう女性が、アイリーンをかばう。
女性の被った繊細なレースのベール越しでもよく通る、透き通った声。
アイリーンの転がっている場所からでは、女性の背中しか見えないが、どうも彼女は自分の胸のあたりで両手を組んでいるようだ。
「こんな愚かなことをするなんて……あなたがたの神もお許しにならないでしょうよ」
女性のベールが、飛ぶ。
男に殴られたのかもしれない。
女性の部屋付きの下女が、悲鳴をあげる。
かばってくれたことよりも、アイリーンは女性のベールのほうが気になっていた。
あんなきれいなベールを投げるなんて。
アイリーンも、昔ベールを被っていた。
でも、あんなふうにきれいな模様のついたものではなくて、肌に触れるとチクチクして、硬い紙みたいにごわついた布だった。
ぼんやりと落ちたベールを見ていると、その視界に栗色の髪の束が落ちてきた。
女性が身体をかがめ、アイリーンをのぞきこんでいる。
「あなた、名前はなんというの?」
自分のせいで殴られたのに、その相手の名前を聞くなんて、キオみたいなお人好しは意外に多いのかもしれない。
アイリーンは、口の中で血の塊を転がし、素直に答えた。
「……アイル?南の発音ね。きれいな名前だわ」
アイリーンは、白髪の陰から鋭く女性を一瞥し、かすかに唇を震わせる。
もしも、普段のアイリーン・ネルソンであれば、すぐにこの中年女の頭蓋を、そばにあるランプで叩き割っていたはずだ。
アイル。
それは、何年かぶりに呼ばれた本当の名前だった。
「気をしっかりね、アイル。きっと、助けが来るわ」
助け?
いつ?いつくるの?
さっきから、耳鳴りがひどかった。
男たちの怒号がいつまでも響いている。
あれは、だれの声だろう。
父親か。
いや、父親は殺したはずだ。念入りにシャベルで頭を叩き潰した。
では、自分を生き埋めにした見届け人か。
いや、見届け人もちゃんと――うん?シャベルで殺したのは見届け人のほうだったか?
よく思い出せない。
でも、自分をこんなふうに親しげに呼ぶのだから、父親でも見届け人でもないはずだ。
母親か、それとも妹かもしれない。
あるいは、愛しい――
「アイル」
アイリーンは、苦々しく舌打ちした。
舌はうまく鳴らなかった。
血を流しすぎた。頭が重い。目がかすむ。
豪奢な金と深緑の絨毯が、乾いた風に流される土と雑草の地面に見えてきた。
「アイル」
やっぱり、妹が呼んでいる。
起きなければ。
日が高くなる前に起きて、羊と山羊を呼び集め、家に戻り、家のことを済ませなくては。
そうでないと、また父親に殴られる。
やはり、さっきから怒鳴っているのは、あの忌々しい父親だ。
いつか殺してやる。できるだけ早いうちに。
それにしても、ああ、ひどく眠い。
「アイル、起きてちょうだい」
ちょっと待って。
今、起きるから。
ソコラ。
「アイル!ねえさん!起きてちょうだいな!」
アイルは、がばっと日陰から起き上がった。
まだゆらゆらしている頭をふって、まわりを見回す。
家から連れてきた羊も山羊も、すっかりイチジクの葉を食べ終えたようだ。
満足げな顔で、草地に寝そべっている。
アイルの傍らでは、ソコラが驚いた顔でこちらを見つめている。
いつも優しく垂れた目が、今は天敵を見つけたうさぎのように丸くなっていた。
「ああ、びっくりした!いくら呼んでも起きないんだもの!」
アイルは、頭からかぶったベールの土を払い、形を直した。
「ごめんなさい、ちょっと不思議な夢を見てたの」
「夢?」
「きっと、昨日あまり眠れなかったからだわ。厩に一晩中いたから、身体が痛くて」
ソコラが気の毒そうに、アイルを見る。
昨夜は父親の機嫌がよくなくて、お茶の時間に大切な砂糖をこぼしてしまったアイルは、家畜たちといっしょに厩に閉じ込められていた。
そのまま、夜明けとともに起き出し、いつもの朝食の準備をこなし、家畜の世話をしていたのだ。
羊や山羊を草原に放している間だけ、父親や村人の監視を逃れ、ゆっくり休むことができる。
つい、長く寝入ってしまうのも仕方なかった。
でも、早く帰らないと、硬く絞ったベルトでぶたれてしまう。
アイルとソコラは、笛を鳴らし、散らばった家畜を呼び戻し始めた。
日は、まだまだ明るかった。
また、長い長い一日がはじまる。