死の足音 二
「ちょっとーはるかー! どういうことなの、昨日の話はー!」
翌日。登校して早々、はるかはエリに問い詰められた。早紀もエリの隣で神妙な顔で頷いている。
「うん……」
あのあと、はるかが我に返ったときには、ヴェルフェンの姿はなくなっていた。
あまりのことにふたりに話さずにはいられなかったが、キスをされた直後とあって、頭が混乱して携帯ではうまく伝えることができなかった。
あらためてはるかはふたりに、昨日の出来事を話した。
予想どおり、ふたりは難しい顔で顔を見合わせる。
命の期限に恐怖したことについては、「考えすぎだよ」と。そうして死神とのキスに関しては、「やばいんじゃないの?」と。
あの喪失への恐怖をひとことで切り捨てられたことに息は詰まり、足元は崩れそうにおぼつかなくなる。けれど、ふたりの反応は当然のことだと、どこか他人事のように感じる自分もいる。
「でもさ」
エリが興味を抑えられない顔で訊く。
「そのキスって、人間と同じ感触があったりするの?」
「え」
「死神なわけでしょ? 半分透けてて。先輩のときとやっぱ、違うわけ?」
ふっと、あのときのシーンが脳裏によみがえる。黄昏ゆく部屋の中、近付く辛そうなヴェルフェンの顔。目を閉じることすらできなかった。
吐息を感じることもぬくもりが伝わることもなかったけれど、思い出すだけで唇に甘い痺れが走り、胸に熱いものが広がっていく。
「感触は、なかった」
「やだ、顔赤いよ」
「だって。だって、……キスだよ?」
ずっと見ていたと言われ、愛していると言われた。『愛している』という言葉の意味も重たさもぴんとこないけれど、『好き』よりも深い想いがなければ口にはできないはず。『気に入っている』だけだったら、死神が〝獲物〟にキスなんてしないはずだ。
あんなくるおしい顔で。胸が痛くなるほどにあんな切ない眼差しで。
最初はついばむように、すぐにしっとりと愛しむようなものへと変わっていったキス。
そんなの、したことがなかった。元彼は、もっとがつがつと情熱をぶつけてきていたから。
ヴェルフェンとキスをしたことで、あらためて、命の最期を受け入れてしまった気がした。
ただ、不思議とイヤだとは思わなかった。
初めてキスに酔ったせいかもしれないけれど。
「ね。その死神って、そんなにもかっこいいの?」
「―――え?」
目を輝かせるエリに、はるかは甘みを帯びた記憶の底から引き戻される。あまりの突拍子もない発言に、一瞬耳を疑ってしまう。エリははるかに向けた指をくるくるまわし、にんまりとする。
「やだ。思い出して、ぽーっとしてる」
「……」
返す言葉を失うはるかに、早紀も興味を示しだす。
「うん。ヤなヤツだったら、もっと拒絶反応出るよね?」
「死神だもんね」
「え。あぁ、う……ん。かっこいいことはかっこいい、かな……?」
ホントに!? と、早紀とエリは盛り上がる。声が一オクターブ上がったふたりに呑まれ、まばたきもできないはるか。
「誰に似てる?」
「その死神が命を取りに来るんでしょ? うっわぁ、なんか、すっごい展開だよね? 禁断の愛ってやつ?」
「あ……、いや。どう、かな……」
すごいどうしようと身震いしてまで騒ぐふたりとの間に、違和感を感じた。ふたりから突き刺さる、眩しくて弾けた空気。いままで感じたことのない強くてまっすぐなその雰囲気が、はるかには軽々しくて刹那的に感じた。薄っぺらくて不快―――嫌悪感すら湧き起こってくる。同じ言葉で話しているのに、意味がかみ合わなくてすれ違っている。
通じ合わない。
まるで、ふたりとの間に透明な壁が差し込まれたかのような。
はるかの意識と早紀たちの意識が、ずれてしまっている。
取り壊せない見えない壁が、いつの間にか厚く、冷たく、厳然とそびえていた。
そんなふたりとの隔絶感に戸惑いを覚えながらも、それもそうだと、やはりもうひとりの自分は静かに受け止めている。
彼女たちにとって〝死〟は他人事であって、人生の道のりはこの先何十年も、何事もなくずっと続いていると信じきって―――自覚もなく盲目的に信じきっているのだから。
ほんの少し前までは、はるかもそうだった。
誰かが事故などで亡くなったというニュースを見ても、祖母が死んだときでさえも、自分自身に降りかかる身近な問題として気にしたことなんてなかった。
〝死〟は、自分とはまったく次元の違うところにあるモノでしかなかったから。
死神と恋愛関係になるのかと盛り上がっている早紀とエリの声が、遠い。
そういうものだとは、頭では判るけれど。
でも。
はるかは、まわりにそっと目を遣る。
朝の時間にざわめく教室。いつもと全然変わらない。それなのに、いつもと違う。耳に届くのは皆のなんでもない話し声。だがそのざわめきは突然はるかの目の前で重なり合い、うねり、強い雑音となっていき、そうして、ふつりと消えていった。
「……」
見えない壁が、エリたちとの間だけではなく、音をたててはるかのまわりに落とされていく。
早紀やエリ、クラスのみんな、後輩や教師、はては家族やすべての人々までもが、遠く引き延ばされていく。見えない壁に囲まれて、はるかだけひとり、置いてけぼりをくらっている。
ここにいるのに、皆がすり抜けてしまったような疎外感。
世界から、追放されてしまったような。
自分だけが、違う場所にいる。
音のないスローモーションで、ただ浮かれている早紀とエリ。
なにが嬉しいのだろう。なにを興奮しているのだろう。
どうしてそんなに楽観的でいられるのかが判らない。
―――所詮、他人事だから。
誰にとっても〝死〟は、他人事でしかない。自分自身の死も、だから、もちろんそれ以外のひとの〝死〟ならばよけいに。
残り一年を切ってしまった人生の時間。
早紀とエリは、ヴェルフェンとはるかの関係を勝手に美化して盛り上がっていくばかり。
彼女たちの中に入って、面白おかしく笑うことができなかった。
皆との間に立ちはだかる見えない壁。きっと、誰にも壊すことも越えることもできない。
違う道を、歩きだしてしまったような。
(〝ような〟、じゃない)
はるかと彼らとの時間は、きっと既に、向かう先が違ったものになってしまっている―――。
昼過ぎの五時限目。窓からは穏やかな陽光と、柔らかな風が流れ込んできていた。
古文の時間だった。お昼を食べたあとに加えて、暑くもなく寒くもない心地のよい午後のひとときだ。生徒たちの意識は、自然まどろみがちになる。
それを狙い、教師は生徒に質問をする。当てられた生徒は教師の質問に答え、正解に、ややつまらなそうに淡々と説明を続けていく教師。
ノートにそれを書きとめるはるかの手が、ふと、止まる。
(係り結びの法則……。―――それが?)
教師の説明に、ノートに記した原文の該当部分を青ペンで関連付けていると、そんな危険な考えがそろりと脳裏に忍び込んできた。
(これ、なんの意味があるの?)
意識の底を、ひやりとした冷たい疑念が掠めていく。
(勉強なんかして、なんの意味があるの)
ヴェルフェンが言っていた人生の期限。最初の出会いが五月だったことを考えると、来年の五月がその〝時〟なのだろう。
宣告されたのは五月十二日。きっと、その日が最期の日だ。
(大学に合格しても、一ヵ月しかないってことじゃない)
ほんの、僅かしかない大学生活。そのための受験勉強など。
自分はいま、こんなことしている場合なのか。
平安時代の係り結びの法則がなにになるというのか。『こそ』『けれ』が命を救ってくれるとでも? 奇跡を起こしてくれるとでも? あと一年もない人生に、昔の文法が命の助かる方法を教えてくれるとでも?
(まさか)
後世に残す文章なら、死神から助かる方法を書いておいて欲しかった。季節の随筆や紀行文ばかり習わされたって、全然、なんの役にも立ちはしない。せっかくの昔のひとの教えなのに、全然教えになってないではないか。
時間の無駄としか思えない。なんのために学校に来て受験勉強をしているのだろう。
なにかを学ぶのならば、遠くにある将来の役に立つかどうかではない。一年後の死を回避できるものでなくては、一年後に意味のあるものでなければならないのだ、少なくともいまのはるかにとっては。
教科書の文章。それを写し、赤ペンと青ペンで線を引いて解説を加えていくばかりのノート。
(文法がなに。謙譲表現とか言葉の意味がなによ。それがどうだっていうの)
高校で勉強する内容が、自分を救ってくれるとはどうしても思えない。
封建制度と騎士の関係が、正弦定理の知識が命を救うのか?
救うわけがない、聞いたこともない。なんの役にも立たない知識だ。
意味のない受験勉強に、貴重な時間を費やすのは無駄ではないのか。
そんなことより、もっと、もっと人生を充実させることをすべきでは?
魂の輝きは置いといても、残る時間は、確かに後悔のないものにすべきだ。
あと一年もないのだから。
後悔がないよう、もっと楽しい思いをしなければ。
(楽しい思いを―――、って、なによ?)
自分の望むことをすべきだとしても、それがどんなものなのか思いつけない。
ずっと、いまが楽しければいいと思っていたから。
将来のことは、そのときに考えればいいのだと。いまから考えてどうするのだ、と。
情けなさがこみ上げてくる。
なんて薄っぺらな十八年だったんだろう。莫迦みたいだ。自分がしたいことが判らないだなんて。唯一描いていたぼんやりした将来の光景が、義従姉が着たようなウェディングドレスが着たい、だなんて。そんなの、幼稚園児のレベルではないか。それを、なんの疑問もなく抱き続けていた愚かな自分。
なにがしたいの。なにをしたいの。なにをしていけばいいの。
―――時間がない。
後悔のない残り時間を送らなければならないのに、どう作り上げればいいかが全然判らない。全然、手がかりすらも判らない。
授業をさぼって遊びに行くことだろうか。好きなだけコミックを読み、ドラマや映画を存分に堪能すること? 小遣いも関係なくおしゃれをして、彼氏も作って、ずっと一緒に過ごすこと? 学校も受験勉強もすべて放って? それとも、がむしゃらになってこの一年以内に結婚相手を見つけてあのウェディングドレスを着ること?
本当に?
本当に、自分はそうしたいの?
思考が、ぎしりと軋みをあげる。
―――違う、気がする。それに、思いつく限りに奔放になるなど、そんな危ない橋は渡れない。
本当に、真実、一年後に死が訪れるという確証はないのだから。
確証は、ない。
未来に、確実なんてないのだから。
ヴェルフェンは実際に起こると自信をもって言ってはいるが、絶対にそうだろうか。そう言い切れるものだろうか?
絶対なんて、ありえない。
死なないかもしれない。すべて幻なのかもしれない。
投げた枕が通り抜けたように、死神が命を奪いに来たとしても、死ははるかを通り抜けるかもしれない。
(死ぬとは、限らない)
そうは思う。
死ぬわけはない。
けれど。
どれだけ否定をしても、深く根付いた不安は消えてくれない。意識の裏には常に死の影がある。既に受け入れてしまった死が、目をそらそうとするたびにはるかに牙を突きたててくる。
(―――判んないよ……!)
古文は好きな科目だったのに、色褪せてしまって全然面白くもなんともない。一秒一秒時間が過ぎるごと、自分は死ぬ、いやそんなはずはないと、思いはくるくると翻り、翻弄されて意識はまるで生木を裂くように剥がれていく。
拷問とすら思える倦んだ時間。
苦痛で苦痛でならなかった。




