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後編

 八年後、領主の館は突然の制圧に遭った。

「俺が生きているとも思ってすらいなかったろう? ――俺の名が呼べるか、この家畜」

 大勢の傭兵を引き連れた男は、その昔姿を消した筈のネビルであったのだ。彼は傭兵部隊で各地を廻りながら生き抜き、技を磨いた。そして若い身空で武功を立て、とうとう故郷へ戻ったのである。

 故郷へ凱旋したネビルが先ずした事は、己の父である領主をこれ以上ない程に殺し抜く事であった。次いで館内の血族を一人を除いて全員殺した。見せしめなどという目的はなく只殺し、その死体の山を館ごと燃やした。丸三日燃えた後、ネビルはその場に新たな館を建て、傭兵暮らしに飽いた仲間を引き入れた上で新領主の座に就いた。彼は領主の血を分けた子である事に関しては間違いがなかったからだ。

 この血腥い事件を以てしても、領民はネビルの就任を認めた。何故なら前領主が最低の最低以下であったからに他ならない。重税と圧政と蹂躙に嘆き反抗するだけの力のない領民は、新たな領主が彼の畜生の血を引くとてどうする事も出来なかった。しかし全ての不安は杞憂に終わった。ネビルの政は格段に綺麗で住みよかったのである。

 ネビルは確かに恐ろしかったが、以前の領主の様に理由もなく暴力を振るう事はなかった。ネビルの暴力には、常に理由があった。

「俺が憎いか」

 ネビルは一人殺さずに残した子供に問うた。子供は館の中で一番最年少で、一番傷だらけで汚かった。この子供が己の一番下の弟に間違いない事をそれで悟り、ネビルは彼だけを生かしたのである。

「いいえ、兄上。兄上はニシルの誇りです」

 弟はまっさらな瞳に尊敬の色を浮かべてそう返した。ニシルはいつかのネビルの様な、濁った様な瞳をその顔に嵌める事はないだろう。ネビルが汚れた間違いさえ犯さなければ、それはきっと生涯ずっと続くであろう。ネビルはニシルを『間違いなく』育てる為に彼を生かした。ある種、己のもう一つの可能性を見る事にも繋がっていたからだ。

「ニシル、俺はもう一つ大火を付けるかも知れん」

「それは汚いものですか」

「不浄であれば燃す」

「それは当然の事です」

 ニシルはまろい頭を縦に振り、八割もの兵を引き連れた馬上のネビルを見送った。この時既に領民はネビルの統治を認めていたので、残す兵力は二割でも足りたのである。

 ネビルが向かったのはヤシュレの追いやられた修道院であった。ヤシュレは院内で十年は過ごしている筈だ、院外の生活を拒むかも知れなかったがその際は諦める覚悟を付けていた。ネビルとて鬼ではない。

 だが、ヤシュレはその院内で殆ど監禁されて暮らしていたのである。

 修道女は「ヤシュレなどという名の尼は居ない」と口々に答えた。いぶかしみ、強引に入り込んだ院内の地下、そっと日の入る様な一室にヤシュレは居たのだ。

 強引に扉の鍵を壊し、足を踏み入れた際の事をネビルは今も忘れない。

「……どちら、さま、でしょう」

 強固な扉にあるのは小箱がやっと通る程度の小窓だけだ。その小窓から日々の糧を得るだけ、後は日光の差す石畳の下に座っていたというヤシュレは、おおよそ三十路であろうというのにすっかり言の葉を生じる事も難しくなってしまっていた。伸ばし放題の髪は藁の様にごわごわで、救いはといえばその地下室がそこそこ広く空気の入れ替えもされているという点であっただろう。日の光を浴び空気を吸い、身体を動かしていられるだけ、ヤシュレは地下室の住人として幸運な立場にあった。

 だが、それだけだ。

「あね、うえ」

 ぼろりと涙したのはヤシュレと離されて以来の事であろう。いきなり外からやって来て大粒の涙を流した男に、ヤシュレは警戒もなく近付いて、そっと問い掛けた。

「ね、びる?」

「ネビルです、……ネビルでございます、姉上、ヤシュレ姉上……」

「ねび……ネビル。ネビル、ないては、だめよ……」

 ヤシュレは垢でごわごわして肉のない手で、それでも涙するネビルを慰めようと腕を伸ばして来た。

「ねび、る、おおきく、なっても……なきむしねえ……」

 いつでもヤシュレはネビルの事ばかり気に掛ける。それはこんな境遇に在っても一片たりとて変わる事がない。

「姉上、もう姉上を疎む者もありません。わたしは強くなりました。強くなりましたので、こうして姉上をお迎えに上がりました。共に来て戴けますね」

 ヤシュレの反対を恐れつつ、それでもネビルは彼女に己のマントを翳した。彼女は困った様な顔をしつつ、「ネビルのよい、ように……」と小さく頷いてくれる。ネビルは優しいヤシュレをマントでぐるぐるに巻いて、殊更気を付けて抱き上げた。その身の何と軽い事か! 始終ネビルはマントで巻いたヤシュレに頬を寄せ、声も上げず只管に涙し続けた。

 そうして戻った地上で、ネビルは鬼の顔を晒し、全てを灰にした。ヤシュレを馬車に乗せて世話をする傍ら、修道院のみならず本山たる寺院も破壊する様檄を飛ばした。僧侶も尼僧も構わず殺し、全てを灰に――。ネビルのヤシュレを封じた悪魔への正当なる処罰である。

 これを機にネビルは悪鬼ネビルとしてその名を近隣に轟かせる事になるが、当の本人にはその様な事は些末でしかない。

 凱旋したネビルは誰の目にもヤシュレを晒さず、たった一人でその身の世話をし続けた。そうしてようやっとヤシュレが外に出得る程度に肉を付け身体を取り戻した頃、ネビルに案内されて人払いの済んだ館内を巡ったヤシュレは、逡巡の後に口を開いた。

「ネビル、何処かわたくしが隠遁するのにか、冥府に行くによい場所はないものでしょうか」

 これにはネビルもひどく驚いて、しかしヤシュレを刺激せぬ様努めて冷静に理由を問うた。

「わたくしは十年近くも人の目に触れぬ所で暮らして参りました。故に、今では人の目が恐ろしく思えてなりません。広い所も明る過ぎる光も、全てが恐ろしく思います。今更我が身が嫁ぐ事もなかろうと思いますと、家長たる貴方には甚だ迷惑な話とは思いますが、どうかネビルのよい様にしてはもらえませんでしょうか」

 更に問うと、ようやくヤシュレが修道院に封じられていた理由が判明した。ヤシュレの母は元々貴族の隠し子で修道院に追いやられていたが、領主の前に目を付けた者が居たのである。修道院本山の高僧だ。犯されたヤシュレの母はその手の被害者らしく口を噤んで前領主に召し上げられ、後年その事情が判明し捜索された。それがいつぞやのあの事態に繋がるのである。

「わたくしは表に在ってはならないのです」

 ヤシュレは院内で口々に罪の子だ罪の子だと貶められ、いつしかそれに浸り切った。元から慎ましく暮らしていた娘に更に十年ものの呪いだ、どんな鎖よりも強かろう。

「姉上、姉上にはネビルの顔も恐ろしいものでしょうか」

 中庭の一画で腰を下ろすヤシュレの膝の上、まるで許しを乞う様に項垂れるネビルに悪鬼の要素は見当たらない。

「いいえいいえ、貴方は特別。わたくしの立派なネビル」

 ヤシュレは柔らかに告げて、未だ涙するネビルの目許を優しく撫でた。ネビルはヤシュレの前では今以て泣き虫の子供と同じであった。

「では、姉上のよい様に。この中庭に、大きな塔では如何でしょうか」

「そんな近くに。わたくしは別に、遠く山の中に打ち捨てられるのでも構いません。わたくしは――貴方の誠の姉でもないのですから」

「それはこのネビルが許しません。ネビルは生涯姉上と共に居るのです。もう絶対に、姉上を誰にも連れ去らせは致しません」

「――ネビル、貴方のよい様に」

 ヤシュレは真摯な表情を見せるネビルの額に、柔らかに口付けを送った。大分肉の付いた柔らかな双葉が、ネビルの焼けた額を過って行く。

 惚けた顔でネビルはヤシュレを見つめた。ヤシュレはどんな時でも変わらずに、柔らかに微笑んでくれる。只管に、ネビルを見つめて。

(神だ)

 ネビルは其処に、神の再来を見た。幼き日に奪われた、ネビルの神様。

 柔らかな太陽が、其処に存在していた。




***




 それからヤシュレが心身共にすっかり回復した頃、中庭に建てられた石造りの塔に彼女は生活の拠点を移した。仕立てのよいドレスを身に纏ったその身体に肉は付いたが、髪はすっかり男児の様に短く切り揃えられている。髪を削がれた事も、その後放置された事も難だったらしく、軽い頭髪を固辞しているのだ。

 そうして日々少しずつ調理する事を覚え、火を焚き、湯を沸かし――ヤシュレはその狭い塔の中ですっかり生活する事が出来ている。ネビルは毎日其処を訪れてヤシュレの生活に不便のない様采配し、その無聊を慰めた。

「ネビル、今日のお仕事は大変な様ですね」

「どう致しました?」

「目許がひどい有り様ですよ」

 ゆっくりと撫で擦ってくれる手は白く柔らかい。ネビルはこの手を守る為なら如何な事でもしようと決心し尽くしている。

 領地は平穏だが、旧時代の最低統治の借金が未だ続いている様な状態と言えた。其処に付け加え、『悪鬼ネビル』を倒すのだと己を勇者の様に鼓舞してやって来る勘違い者が少なからず居る。小競り合いには修行だとニシルを立たせるが、ネビルも未だ獲物を振るって大地に立つ事が在った。

「兄上、『塔の君』には?」

 ニシルは今や立派な戦士だ。頭の回転もよく、ネビルはこの賢い弟を後継に据える事を胸中決めている。

「言うに能わず。即片付けて帰るぞ」

「畏まりました!」

 傭兵上がりのネビルの軍勢は血気盛んだ。今日も難なく厄介事を片付けて、街の酒場で大いに騒ぎ金銭を落とすだろう。湯水の様に落とされた金は酒場から問屋、生産者へと廻り、そうして領主の元へ戻って来る。全ての循環を、ネビルは掌握し尽くしていた。それがネビルとヤシュレの平穏な時間にも繋がるからだ。

「ネビルは此処ぞ!」

 ネビルは今日も戦い、人を殺し、そして帰る。彼には唯一、神様が居る。何も恐れる事はない。

「続け! ネビルには神が付いている!」

 ネビルには神様が居る。恐ろしく優しく、柔らかで脆い神様が。




 ネビルは今日も神様の為に過ごす。彼女との平穏の為に、幾らでも人を殺して。

恋愛というよりかは大分純粋にプラトニックでした。崇拝愛です。読了有難うございました。

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