6:うどんとの出会い
デザイン学校に通っている常連……名前は高松琴子というらしい……琴子に駅に出すポスターを発注してしばらく。納品を待ちながら、大和と啓介はベーカリーつきおれを動かし続けた。
啓介がこの町に来てもうすぐ一年になろうとしている。はじめてこの地を踏んだときのように日差しは差すようにまぶしく、海がきらめくようになった。
ベーカリーつきおれは、いまだに赤字を解消できていない。黒字になる月もある。といった程度で、まだまだ経営は苦しいままだ。
そんななか、低賃金とはいえ大和は一度も啓介の給料を不払いしたことがない。おそらく、啓介の給料を払うために大和は相当切り詰めた生活をしているのだろう。店に出ていないときはルーズな格好だけれどもしっかりと清潔感のある服を着ている大和。よく手入れされた服だからぱっと見では気づきづらいけれども、大和が着ている服はもう何年も着古しているのだろうと、服装に疎い啓介でもさすがに勘づいている。理由は単純、大和が下着以外の衣類を買ってきているところを見ていないからだ。
「若い子にばかり苦労させるのは、おじさんとしてよくないね……」
閉店後、自室で廃棄のパンと大和が作った野菜たっぷりのスープを食べながら、啓介はそう独りごちる。
かといってどうしたものか。この店のために啓介ができることはもうすでに最大限やっているし、大和のような若い子がよろこびそうな焼き肉に誘うというのもなかなかに懐がきびしい。
焼き肉に誘うというところまで考えて、啓介ははたと気づく。自分も大和もこの一年、外食をしていないのだ。
「さすがに焼き肉は無理だけど、そうだなぁ」
啓介はスマートフォンを取り出してメッセージアプリを立ち上げる。それから、大和にこうメッセージを送った。
「明日はお店も休みだし、お昼にうどんでも食べに行きませんか?」
そう、うどんで有名な香川にいるにもかかわらず、啓介も大和もうどんをお店で食べたことがない。せっかくなら一度は食べに行ってもいいだろうし、うどんくらいなら啓介がおごるのも可能な金額だ。ずっとパンのことばかり考えている大和の気分転換になったらと啓介が返信を待っていると、大和からこう返ってきた。
「おっさんが店調べてくれるなら良いよ」
素直に話に乗ってくれて助かる。そう思いながら、啓介は近隣のうどん屋をパソコンで調べはじめた。
そして翌日のお昼時、啓介は大和を連れて町中を歩いて行った。
アーケードのある商店街と違い、住宅もある町中は日差しを遮るものが家以外になく、焼き付くような日差しが容赦なくふたりに降り注ぐ。
汗だくになった大和が、手の甲で汗を拭いながら啓介に言う。
「こんな暑い日に熱いうどんなんて食うやついるのか?」
いささかげんなりしているようにも聞こえるその言葉に、啓介はそれもそうか。と思いながらも道の先を指す。
「あの青い看板のところがお店ですし、とりあえず入ってみましょう。
お店は冷房効いてると思いますし、おなかは空いてるでしょう?」
「まぁ、ここまで来てなにも食わないで帰んのもしゃくだしな」
そんな話をしながら、ふたりは青い看板の店に入る。引き戸を開けると、冷たい空気がふたりの身体を包んだ。
「いらっしゃい!」
威勢の良い声が響く店内を見渡すと、いくつも置かれたテーブルは全部満席で、客のほとんどが汗をかきながら熱いうどんをすすっている。お揚げと天かすが乗った、湯気が立つシンプルなうどん。それをすする客はみんな無心だ。
その光景に、啓介だけでなく大和も気圧されているようすだ。とりあえず足を動かし、かろうじて空いているカウンター席に座る。店員に注文を訊かれ、啓介はすかさず答える。
「かけうどんふたつ」
それを聞いて、大和が少しだけ不満そうな顔をする。
「一番安いの選んだのかよ」
お昼をおごると言って期待させておきながら、一番安いうどんというのに釈然としないのだろう。大和のその気持ちは啓介にもわかる。けれど、啓介は困ったように笑って返す。
「まあ、安いは安いですけど、いちばんのオススメがかけうどんだと口コミで見たので」
「かけうどんがいちばんのオススメ? それなら食べてみるけどさ。
足りなかったらあのおにぎりとかも注文すっからな」
「それくらいの追加注文はかまいませんよ」
少しの間啓介と大和で言葉を交わしていると、すぐにうどんが目の前に差し出された。かけうどんとは言っているけれども、他の客が食べているような、天かすとお揚げの入ったうどんだ。
「俺の知ってるかけうどんと違う」
入っているお揚げを見て、大和がおどろいたようにつぶやく。啓介は割り箸を渡しながら笑う。
「そうですね。でも、具が多い分には良いでしょう。いただきましょうか」
大和が割り箸を受け取って割ったところで、ふたりでいただきますをする。
お揚げを囓ると染みていたつゆが口の中でじゅわっと広がる。おそらく、汁に合うように味付けされているお揚げなのだろう。外で散々汗をかいてきた身体に、この甘塩っぱいつゆがありがたい。
続けてうどんをすする。太めで腰が強い。食べ応えがある。出汁のきいた汁を纏った太いうどんが口の中に入ってくるのは、ずいぶんとインパクトがある。
一度にうどんをすすりきるのは無理だと判断した啓介が、いったんうどんをかみ切って一息つき、ちらりと大和を横目で見る。ひとくちすすっては噛みしめながら、なにかを考えているようだ。汗をかいて真剣な顔でうどんを食べている。
思ったより気に入ってくれただろうか。啓介はそう思いながら、うどんを食べるのを再開した。
はじめて食べたお店のうどん。その衝撃が強かったのか、うどん屋からベーカリーつきおれに帰る道すがら、大和は啓介に話しかけながらずっと考え事をしているようだった。
「おっさん、やっぱここだとうどん一強なのかな」
「うーん、たしかにうどんは圧倒的支持を受けてますね」
「うどん屋のあんなところ見せられたら、パン屋が勝てる気はしないな……」
珍しく大和が弱音を吐いたか。そう思って啓介が心配になっていると、大和は強い視線で前を見据えてなにか口の中でつぶやいている。
「俺は香川のやつらの芯になってるものを全然知らずに今までやってきたってことだな」
「ま、まあ、そうなりますかね。僕もそこはいたらなかったです」
急に吐き出された大和の言葉に啓介がうろたえていると、大和は啓介にこう言った。
「他のうどん屋も覗いてみたいな。
おっさん、他の店わかる?」
「えっ? えっと、地図には印つけてあるから一応わかりますよ」
突然の言葉に啓介が慌てて胸ポケットからたたんだ地図を出して広げる。それを見て大和がはっきりと言った。
「これからうどん屋を回るぞ。香川のうどんがどんなうどんか、知る必要がある」
もしかして、パン屋を辞めてうどん屋にでもあるつもりだろうか。いやでもまさか……啓介はそんな不安を抱えながら、大和を次のうどん屋へと案内した。
夕方までうどん屋をめぐってベーカリーつきおれに戻り、大和は啓介にこう宣言した。
「香川で俺のパンはうどんには勝てない。
だから、俺はうどんに合わせるパンを作る」
一瞬、啓介には大和がなにを言っているのかわからなかった。
「えっと、うどんの付け合わせにするパンってことですか?」
戸惑いながらそう訊ねると、大和ははっきりとこう言う。
「もちろんそれもレパートリーには入れる。
それ以外にも、うどんを食べる一食前に食べるパンも開発する」
「……どういうことですか?」
大和の言わんとしていることが啓介にはいまいちつかめない。いつもなら啓介がこういう態度をすると大和はいらつくのだけれども、今日は新しいアイデアに興奮しているのだろう、不機嫌になることもなく話を続ける。
「今日食べてみた感じ、香川のうどんはトータルで塩分が多い。
汁はもちろん、うどんそのものにもだいぶ塩が使われてる」
「そうなんですか?」
「そうだ。だから、うどんを食べる前日の夜や当日の朝の食事に、うどんを食べる準備として塩分控えめのパンを提供するのはどうかって思ったんだよ」
その説明を聞いて、啓介はやっと合点がいった。
「なるほど、健康的にうどんを食べるためのサポート食品を目指すんですね」
「そんなところだ」
大和がにやりと笑う。いたずらを思いついた悪ガキのような顔だ。大和のこんな顔を見るのははじめてだけれど、勝ちを確信したときの顔なのだろうなと、啓介は察した。
いつか足りないと思っていた決め手、それはこれなのかもしれない。
それから数ヶ月、大和はうどんに合わせるパンの開発に取り組んだ。開店してから作業をしているので、店頭は啓介のワンオペだ。ワンオペでもそこまでたいへんではない日々が過ぎていく。赤字は消えない。そうしているうちに街路樹が赤く色づく季節になった。
夜明け前のパン小屋は、秋になってもオーブンの熱で暑い。そんな中で啓介は、やっとできあがった新商品を袋詰めしていた。
クルミや季節の野菜を無塩のトマトペーストでまとめたものを中に入れた、少しふんわりとした惣菜パン。パン生地の部分も塩分は控えめにして作ってある。
これが、大和が考案した『うどんを食べるためのパン』だ。
このパンの試食には、広告のデザインを手がけてくれた琴子をはじめ、他の常連客も加わってもらった。すでに常連になっている客は、そこまでうどんにこだわりがない人が多かったけれども、それでも安心してうどんを食べられるというのは魅力的なポイントのようだった。
それになにより、シンプルにおいしい。
このパンのおいしさを担保するには、おいしい野菜が手に入るのが必須条件だと大和は言っていたけれど、そこばかりは啓介がどうこうできるものではない。
今袋詰めをしている新作パンは、ベーカリーつきおれを救ってくれるのだろうか。
うどんを食べる準備をするためのパン。その評判は少しずつ商店街で広まっていった。
いままで食事といえば米とうどんだと言っていた人も、うどんを食べる前の一食をそのパンに変えると塩分が控えられるというところに興味を持ったらしく、興味深そうに買っていくことがある。店舗用品店の主人もそのひとりだ。
「このパン、この前試してみたけど普通のパンとどう違うんだい?
そもそもパンってそんなに塩使うもんなのか?」
うどん用パン二度目の購入となる店舗用品店の主人の疑問に、大和が応える。
「そうですね。普通のパンは発酵させるのに塩を使うんですけど、このパンは膨らませるのに塩を使ってないんです。
だから、普通のパンみたいにすごくふかふかというよりは、どらやきみたいな感じでしょう」
「たしかに言われてみるとそんな感じだな。
でも、そもそも普段の飯がそんなに塩使ってるとも思えないんだよなぁ」
首をかしげる店舗用品店の主人に、大和はさらに続ける。
「自分で料理するとわかりますけど、料理って結構塩使うんですよ。
ごはんのおかずもそうですし、うどんもコシを出すのに塩を入れたりしますね」
大和の説明を聞いて店舗用品店の主人はおどろいたような顔をする。
「うどんって汁だけじゃなくてうどんにも塩入ってんのか!
へぇ、それじゃたいへんだ。最近お医者さんに塩分を取り過ぎないように気をつけろって言われててね」
そこに啓介がパンを袋詰めして店舗用品店の主人に手渡しながら言う。
「でも、うどんおいしいですからね」
「そうなんだよ。うどんだけは絶対にやめられねぇ」
笑ってパンを受け取った店舗用品店の主人が片手を挙げる。
「まあ、このパンは息子がおやつに食べるのにちょうどいいって言ってたし、たまに買いに来るよ。それに店長さんの言うとおりなら、これがあれば俺も安心してうどんが食べられるしな」
そう言い残して、店舗用品店の主人は店から出て行った。
店内には主婦とおぼしき女性がひとり。彼女の買い物袋はカウンターで預かっている。
彼女はカメのメロンパンとチョココロネをトレーに乗せて、店舗中央のテーブルに乗せたうどん用パンの前で立ち止まる。
「店長さん、これがうどん用のパンなの?
うち、よくお昼にうどんを食べるんだけど、朝ご飯これにしたら健康にいいかな?」
興味津々といったようすの彼女に、大和は丁寧に返す。
「そうですね。そうなるように考えて作っていますけど、俺は医者じゃないんで確実なことは言えないです。でも、お昼うどんだったら朝ご飯にそのパンはおすすめですよ。野菜もたっぷり使ってるんで」
大和の返事に彼女はうれしそうな顔をする。
「野菜たっぷり使ってるの? それならこれいいかも。
うちの子が野菜食べ渋るんだよね。パンに入ってれば食べてくれるかも」
彼女はそう言って、追加でうどん用パンを三個トレーに乗せ、カウンターに持ってくる。
「お昼以外を全部このパンにしたら健康にいいかな? 塩分控えられるでしょ?」
会計をしながらうきうきとそう訊ねてきた彼女に、啓介が慌てて返す。
「さすがにそれはまずいです。そのパンは塩をほとんど使っていないので、逆に塩分不足になって体を壊してしまいます。だから朝ご飯やおやつにするくらいがちょうどいいですね」
その言葉に大和が頷くと、彼女はおどろいたような顔をする。
「そうなんだ。
このパンをいっぱい食べた方が健康にいいって言えばこの店も儲かるのに、ちゃんとそう言ってくれるなんて信頼できるね」
彼女の言葉に、啓介はマスクの下で苦笑いをする。まったくもってその通りだ。うどん以外の食事をこのパンにすれば健康にいいと言い切ってしまえばもっと売れるのだろうけれども、客の健康を害してまで売り込むのは啓介はもとより、大和の望むところではない。リピーターとして末永く通って欲しいというのはもちろんあるし、なにより、他人の人生を犠牲にしてまで儲けを出すのはふたりの意に反するのだ。
会計を済ませた彼女に啓介が入り口で買い物袋を渡して見送る。店内は啓介と大和のふたりだけになった。
静かになった店内。啓介がトングでパンの並びを整えながら大和に言う。
「うどん用パンもぼちぼち売れるようになってきましたね」
その言葉に、大和は難しそうな声で返す。
「他のパンに比べたら、売上が伸びるのも早かったしな。
でも、もっと売れるように宣伝とかしたいところだな」
パンの並びをあらかた整え終わった啓介はまた店内を見る。この店もこのところはだいぶ繁盛するようになってきた。以前は追加でパンを焼かなくても間に合っていたのに、最近は昼過ぎにもう一度パンを焼かないと欠品がでるようになったほどだ。それでも、まだ赤字の月がある。なんとかチョココロネやカメのメロンパンに続き、うどん用パンもこの店のヒット商品にしたいところだ。
「駅広告、新しくするかなぁ」
大和のつぶやきに啓介は頷きながら返す。
「そうですね、琴子さんにまた依頼しますか」
「そうだな。今度は前よりギャラも払えるし」
以前ベーカリーつきおれの駅広告を製作した琴子は、この店に広告を出していたおかげもあってか、商店街のお店からちょくちょく小さい仕事やそこそこ大きい仕事をもらったようで、結局就職せずにフリーランスのデザイナーになっている。大阪の学校に通うために借りていたアパートも引き払い、今は香川にある実家に帰ってきてそこで仕事をしているとのことだった。
その琴子に、大和がスマートフォンのメッセージアプリでメッセージを送る。駅広告の仕事の打診だろう。
送信してほとんど間を置かず、大和のスマートフォンが鳴る。
「もう返信来たんですか?」
「うん。これから詳しい話聞きにここ来るって」
最近の子は返信が早いな。と啓介が感心していると、そんなに間を置かずに店のドアが開いた。琴子がやってきたのだ。
そのことに啓介も大和もおどろく。
「いくらなんでも早すぎない?」
思わず声を上げる大和に、琴子は興奮したようすで返す。
「ちょうどそこのコンビニにいるところでメッセージが来たから。
それで、駅広告を新しくしたいの?」
早速の琴子の問いに大和が返す。
「そうなんだよ。最近うちでうどんに合わせるパン作ったじゃん。
それをPRするのに駅広告新しくした方がいいかなって思って」
「ああ、あれおいしいもんね。でもそんなに売れてない?」
「売れてはいるんだけど、まだチョココロネやカメのメロンパンに負けてるんだよな」
大和の言葉を聞いた琴子が、ちらりと啓介を見る。
「ちなみに、このお店の主な客層は?」
データの話をしていると直感したのだろう。大和も啓介の方を見る。ふたりの視線を受けて啓介は胸ポケットからメモ帳を取り出して開く。
「そうですね、最近中年以上の男性も少し増えましたが、依然女性と子供のお客様が多いです。朝の時間帯は学生さんも多いんですけど」
それを聞いた琴子はすこし考える素振りを見せてからこう言った。
「それなら、駅広告を変えるより、宣伝チラシを作って配った方がいいかもしれない」
「宣伝チラシ?」
予想外の提案に、啓介と大和が疑問の声を上げる。
「そうはいっても、チラシのポスティングをして大丈夫なんでしょうか?
合法的になるとなると、新聞にチラシを挟み込んでもらって配ってもらうとなりますけど、さすがにそこまでの予算は厳しいですし」
啓介が唸るようにそう言うと、琴子はこともなげに言う。
「違いますよ。うどん屋さんにチラシを置いてもらうんです。
だって、うどんを食べるためのパンなんでしょう?」
思わず啓介も大和もはっとする。たしかに、うどんを食べる人にリーチしたい商品なのだから、琴子の言うことももっともだ。しかし、大和には懸念があるようで顔をしかめている。
「でも、そう簡単にチラシ置いてくれるかな。うどん屋にパン屋のチラシが置いてあるってなんか変な感じするし、こういっちゃなんだけど俺たちよそ者なんだぜ?」
これは啓介も思うところだ。けれども、琴子は強く押す。
「そうかもしれないけど、安心してうどんを食べるためのパンってなれば興味を持つ人も多いでしょ。
とりあえず、チラシのサンプル作るから、それができたら私が昔から通ってるうどん屋さんと交渉してみる」
自信満々のことこの言葉に啓介はすこし考えてから、それならといったようすで口を開く。
「でしたら、ついでに商店街にあるビジネスホテルにも置いてもらえるかどうか打診してみてもいいかもしれませんね。
朝食バイキングがはじまる前にホテルを出るお客さんもいるでしょうし、おそらくその時間帯にこの店は開いています」
それから、大和の方を見て訊ねる。
「こういう感じでどうですか、店長」
啓介の問いに大和は難しい顔をする。
「どうやったら一番広告効果が出るかは俺にはわかんねえ。
だから、そういうのに詳しい琴子ちゃんとおっさんに任せる」
大和の言葉に琴子が握りこぶしを作る。
「任せて。絶対にうどん用のパンを売れ筋商品にするんだから」
そう宣言してから、琴子はこう付け加える。
「でも、私はカレーパンも好きだけどね」
おどけるようなその言葉に、大和は笑って言う。
「それじゃあ、今回の報酬におまけでカレーパンも付けとくか」
「やったあ!」
琴子がはじめてこの店の仕事を受けたときのようなギスギスした空気も今回はない。啓介は安心して、契約書の内容を用意できるなと思った。
琴子に正式に宣伝チラシの依頼をしてから、何度か意見の突き合わせをし、チラシができあがった。チラシの入稿まで琴子がやってくれたので、啓介達としてはこの上なく助かった。
そしてチラシが届き、そのことを琴子に伝えるとすぐさまに店まで飛んできた。
「それじゃあ、うどん屋さんと交渉してきますね」
チラシを手に取った琴子がそう言うので、啓介は彼女を制止する。
「待ってください。琴子さんひとりには行かせられません」
「え?」
突然のことに不思議そうな顔をする琴子に、啓介が説明する。
「たしかに、琴子さん行きつけのお店に置いてもらえるよう交渉はしますが、この店の誰かがついていかないと、先方も納得しないでしょう。なので……」
啓介と大和、どちらがついていくか。伺うように啓介が大和を見ると、大和はすこし引け腰になって啓介に言う。
「俺、そういうの苦手なんだよ。おっさんが行ってくれ」
「わかりました。というわけで、僕もご一緒します」
その言葉に、琴子は力強く頷く。そして早速、琴子行きつけのうどん屋へと向かった。
琴子行きつけのうどん屋は、商店街から少し離れた場所にあった。民家が並ぶ中にあるこぢんまりとした店。お昼時も過ぎた頃だからだろうか、店内は静かだ。
店の扉を琴子が開ける。
「おじさん、こんにちわー」
琴子が中に声をかけると、休憩中だった店主が愛想良く返事を返す。
「おう、琴子ちゃん来たのかい。ところでその人は?」
愛想が良かったのもつかの間、啓介の姿を見るなり怪訝そうな顔になる。それを察した啓介はお辞儀をして、店主に丁寧に挨拶をする。
「はじめまして。私、ベーカリーつきおれというパン屋の店員の香川と申します。
今回、高松さんの提案で、こちらのお店に当店のチラシを置いていただきたく伺いました」
すると、店主は困ったように琴子のことを見る。
「琴子ちゃん、どういうことだい? なんでパン屋がうちにチラシを置くなんて言い出してんだ」
その問いに、琴子は元気よく返す。
「実はこのパン屋さんね、うどんをおいしく食べられるパンっていうのを作ってるの」
「うどんをおいしく食べられるパン? うどんと一緒に食うってことかい? そんなんだめだようちには置けねぇ」
すげない店主の言葉に、琴子は言葉を詰まらせる。そこに、啓介が詳しい説明をする。
「いえ、うどんと一緒に食べるパンではありません。
うどんを食べる一食前をそのパンにすることで、よりうどんをおいしく召し上がっていただけるよう開発いたしました。
うどんを作ってらっしゃる方ならよくご存じだと思いますが、うどんには結構塩分が入るでしょう? そこで、塩分を気にしている人も、塩分をほとんど使わずに作ったパンに一食置き換えることで、心置きなくうどんを食べていただけるようにする。というのが当店でおすすめしているうどんのためのパンのコンセプトです」
その話を聞いて、店主は興味深そうにする。
「なるほど? うどんをうどんだけで美味く食うためのパンってことかい?」
「そのとおりです」
すかさず啓介がチラシを鞄から取り出して店主に渡す。うどんのためのパンをメインで載せているそのチラシを見て、店主はすこしうなり声を上げてから啓介に言う。
「とはいっても、うまいもんじゃなきゃこの店でおすすめはできねぇ。
このパンの味はたしかなんだろうな」
「そうおっしゃると思って、お試し用にお持ちしました」
またすかさず鞄の中からうどん用のパンを出して店主に差し出す。店主は啓介を一瞥してから袋を開け、パンにかじりつく。確かめるように噛みしめながらパンを食べきって何度も頷いた。
「まあ、うどんに比べりゃ物足りないが、これのあとにうどんを食うならちょうどいいだろ。
あいわかった。このチラシ、うちにおいてもいいぜ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
思ったより好評なようで良かった。啓介はそう思いながらチラシの束を店主に渡す。すると、店主はこう言った。
「でも、うどんよりこのパンの方に人気が出てもらっちゃ困るね」
にやりと笑う店主に、啓介は困ったように笑う。そこへ琴子がすかさず割り込む。
「大丈夫だって。このパンはうどんあってのものなんだから」
「そうか、それならいいや」
豪快に笑い声を上げる店主に、啓介はなんとか胸をなで下ろした。
これからうどん屋でうどんを食べていくと言う琴子をうどん屋に残し、啓介はベーカリーつきおれへと戻る。それから、引き続き店を大和に任せすこし奥に下がらせてもらい、自室のパソコンを開く。商店街にあるビジネスホテルに、チラシを置いてもらえないかの問い合わせメールを送るのだ。そのメールでは、この店が早朝から開いていることをアピールし、朝食バイキング前にホテルを出る客向けに。とも書き添える。メールを送信して、あとは返信を待つだけとなった。
返信を確認できたのは翌日の夜。ホテル側としては商店街のよしみもあるし、チラシを置いてもかまわないとのことだった。
そうして、とりあえず市内二カ所にチラシを置いた効果が出たのか、男性客やビジネス客など以前とは違う客層も増え、売上は伸びていった。特に、うどん用のパンの売り上げが伸びている。
そのようすを見ていた大和が、感心したようにつぶやいた。
「やっぱこういうことは琴子ちゃんやおっさんに任せて正解だな」
そのつぶやきに、啓介は笑って返す。
「店長が作ったパンが、ちゃんとおいしいからですよ」




