2:パン屋としての生活
啓介がベーカリーつきおれの店員になって一ヶ月が経った。給料も求人票通りの金額が支払われているのでその点の不安はないけれども、他の不安が啓介にはあった。
人通りの多い商店街から一本入ったところにあるこの店の売れ筋は、チョココロネやメロンパン、それに焼きドーナッツといった菓子パンが主だ。売れ筋といっても一日に何度も焼くような売れ行きではない。保育園や幼稚園が終わったのであろう頃に、子供にねだられた母親がおやつにと買っていくくらいで、売れても合計で十個くらい。毎日大量のパンの廃棄を出していた。廃棄のパンをふたりがかりで食べるのもなかなかにたいへんだ。
毎日朝早くからたくさんのパンを焼いて、定刻通りに店を開いても客がほとんど来ない。それが啓介の不安だし、大和も同じ不安を抱えているのだろう。パンをたくさん棚に並べたまま店を閉める大和の背中には、いつも落胆が浮かんでいる。
Iターンの制度を使って補助を受けているとはいえ、これだけ毎日赤字を出していたら長くは持たない。むしろ、いままで店を続けられていることの方が不思議だ。
そんなベーカリーつきおれを支えているのが、大和のところに週に一回入ってくるパンの注文だ。注文が入った時は、さすがの大和もうれしそうな顔をする。
今日も閑古鳥が鳴く店内で、大和のスマートフォンが鳴った。週に一回の注文のメールが届いたようだ。
大和は早速メールの内容を確認して、啓介に指示を出す。
「おっさん、注文はいったから店番してて。
俺は奥で焼く」
素っ気ない大和の言葉に、啓介は店内を見渡して訊ねる。
「いつも思うんですけど、店頭に並んでるパンを詰めて送るんじゃだめなんですか?
毎日あれだけ廃棄を出しているんですし」
すると大和はぎろりと啓介を睨んで返す。
「だめに決まってんだろ。
一度に送る分は一度に焼かないと賞味期限がずれる。
それに、いったん店頭に出したパンはいくら個包装してあっても、遠くに送るとなると衛生的にヤバい」
「は、はい……」
すこしひるみながら返事をする啓介を一瞥してから、大和はレジカウンターの奥にあるドアを開けて、奥のパンを焼くオーブンのある場所、大和がパン小屋と呼ぶ場所へと入っていった。
その姿を、啓介はドアについたガラス越しにそっと見守る。パン生地をこねる作業台から離れた場所にある手洗い場でマスクを替え、キャップからビニール製のヘアーキャップに付け替え、しっかりと手を洗い消毒もして薄いゴム製の手袋をつける。あまりにも手慣れたようすは、商店街の中にあるパン屋の店長というよりは、工場の工員のように見える。
ふと、ガラス越しに大和と啓介の目が合った。啓介は慌てて視線を外してパンが並ぶ店内の方を向く。
退屈なほど静かな店内。そこを啓介が見渡していると、ふと、入り口から誰かが入ってきて啓介を見る。それから、懐かしそうな大きい声で話しかけてきた。
「おおひさしぶり! 香川君だったかな?」
おおらかでおっとりとした大柄の男性だ。彼に親しげに話しかけられて啓介は曖昧に笑う。
「お久しぶりです生駒さん。えーっと、京都の所属だったんじゃなかったんですか?」
すこし身を引いた啓介が大柄な男性、生駒にそう訊ねると、生駒はにこにこと笑って返す。
「いやあ、だいぶ前に高松に異動になったんだよ。妻にはひとりで行けって言われたけれど、なんとか説得してこっちに引っ越してきたんだ。
香川君こそ京都住みじゃなかったか? どうしてここに?」
無邪気に訊いてくる生駒に、啓介は答えるべきかどうか一瞬考えてから、素直に話しても問題ないだろうと事情を話す。
「実は、勤めていた京都の会社が潰れまして、社宅を出ないといけなくなったんです。
それで、実家ももうないし頼れるところもないしで、住み込みの店員を募集していたここに来たんです」
「いやいやそれはたいへんだ。でも、ここもいいところだろう」
マスク越しでもよく通る声で笑う生駒の言葉に、啓介はまた曖昧に笑う。この店の経営が芳しくないことが気にかかって、まだこの土地の良さがわかりきっていないのだ。生駒のようにこの土地の良いところがわかるようになるのはいつだろうか。
他に客もいないしと、しばらく啓介と生駒のふたりで話をする。そうしていると、奥から大和が出てきた。おそらく、捏ねたパン生地を寝かせる段階なのだろう。
「ずいぶんと賑やかだけど知り合いか?」
訝しげに啓介に訊ねる大和に、啓介は生駒を手で指しながら返す。
「あっ、店長。そうですね、知り合いです。大学時代によく寮に突撃してきてきた機動隊の人です」
「はぁ? 機動隊? 突撃?」
余程おどろいたのか、大和が素っ頓狂な声を出す。それから、啓介から少し離れて警戒するような顔をする。
「おっさん、そんなヤバい大学通ってたのかよ」
そうとらえられるのも仕方ない。啓介がどう返すべきか悩んでいると、生駒が愛想良く大和に言う。
「いやいや店長さん、突撃といっても昔からのじゃれ合いみたいなものですよ」
「じゃれ合いで突撃なんてするもんですかね?」
訝しげな大和の言葉に、啓介がしどろもどろになりながら説明をする。
「あー、あの、まあ、昔からよく突撃される寮ですけど、ほんとうに揉めていたのは僕の親の世代なんです。受検ができないほどの大騒ぎになる大学が各地で出るほどの社会問題だったみたいです。その時みたいな争いはしてない……はず? なので」
啓介が助けを求めるような目で生駒を見ると、生駒も笑いながら話す。
「そうそう。俺が機動隊員になってからは香川君がいた寮で逮捕者が出ることはなかったし、ほんとうにじゃれ合いですよ。そんなにひどい衝突はしてないんでね」
あっけらかんとした生駒に、助かったと思いつつも啓介がため息をつく。
「まあでも、いきなり突撃されるのは困りましたけどね……」
「香川君はお行儀がいい方だったから関係ないと思っているだろうけどね、あの大学の学生はなにかとすぐやらかすだろう」
反論するような生駒の言葉に、啓介は母校のことを思い出す。大学や寮の周りに置かれた、なにかを主張するようないくつもの立て看板のことに思い至り、たしかになと認めざるを得ない。しかしそれはそれとして。
「最近は大人しい子が多いはずなんですけどね」
言い訳になっているのかいないのか、弱々しい啓介の言葉に生駒はただにこにこするだけだ。
ふと、生駒がパンの香りが漂う店内を見渡して、トングとトレーを手に取る。それから、迷わずにチョココロネを四個取ってレジへと持ってきた。
「ついつい昔の話で盛り上がったけど、今日はこれを買いに来たんだ」
「あ、ありがとうございます」
はっとした大和が素早くタブレットを操作して会計をする。その間に啓介はチョココロネを一個ずつビニール袋に入れてから、紙袋にまとめる。
「甘いものが好きなんですか?」
啓介の問いに生駒は機嫌よさそうに答える。
「子供と妻が好きなんだよ。いつもはスーパーのパン屋で買ってるんだけど、たまにはこういうパン屋で買ってもいいかなって思って入ったんだよな」
「そうしたら、僕がいたと」
「そうそう。びっくりした」
会計を済ませチョココロネの入った袋を生駒に渡す。受け取った生駒は大事そうにチョココロネを抱えてこう言った。
「それじゃあ、これがおいしかったらまた来るよ。
期待してるぜ店長さん」
「あっ、はい! よろしくお願いします!」
突然話を振られておどろいた大和が慌てて頭を下げる。啓介も一緒に頭を下げた。
生駒が出て行ったあと、大和がカウンターから出て、トングでチョココロネを二個とりわけ啓介に渡す。
「おっさんの奥さんも甘いもの好きだったっていってたろ。
これ、奥さんと娘さんに」
チョココロネを受け取った啓介はにこりと笑って大和に言葉を返す。
「ありがとうございます。妻と娘もよろこびます」
すると、大和は照れくさいのか不機嫌そうにそっぽを向いてから、またパン小屋へと戻っていった。
夕方頃、注文のパンを焼き終えて梱包まで済ませた大和が、店内へと戻ってきた。
しばらく黙ってふたりでレジカウンターの内側に並ぶ。
店の外から時折人の声が聞こえてくる。なのに店内はひどく静かだ。その静けさに据わりの悪さを感じて、啓介が口を開く。
「ところで、いつも注文してくださってるお客様との付き合いは長いんですか?」
その問いに、大和はすこしおどろいたような、照れくさそうな顔をしてぶっきらぼうに答える。
「東京にいたときからのお得意様。
この店を開いたときから毎週パンを買ってくれてる」
「そうなんですか。
このお店って、通販対応もしてるんですか?」
「あ~、あのひとは特別だから。
それに、通販対応しようにもホームページとか作れる気もしないしな」
諦めたような大和の言葉に、啓介はしれっと返す。
「ホームページですか?
お店の地図とか営業時間とかを載せるくらいの簡単なやつなら僕が作れますよ」
「マジで?」
「はい。お店の写真とか撮らせてもらえれば」
当然といった啓介の言葉に、大和は驚きを隠せないようだ。目をまるくして啓介を見たままこう訊ねる。
「それじゃあ、パンの注文とかできるページとか作れんの?」
「あ~、ショッピングカートは決済手段をどうするかとかいろいろあるんで、ちょっと難しいですね……」
渋い顔をして答える啓介を見て、大和は首をかしげる。それから、きっと啓介を見てこう言った。
「それじゃあ、通販はできなくてもいいからうちの店のホームページ作ってくれないか? パソコンは貸すから」
その言葉に、啓介はにこりと笑って返す。
「わかりました。
パソコンは店長のを借りなくても、僕のがあるのでそれでやりますよ」
すると、大和は天井を指さして言う。
「いや、パソコンってこの店の備品だよ。
普段は俺の部屋に置いてるけど、どうせパソコンってビデオ会議の時しか使わないから、普段はおっさんが使っててよ」
「あ、備品ですか。ならそれを使った方がいいですね。
でも、パソコンってノートですか? デスクトップですか?」
納得してから訊ねる啓介に、大和はいらついた様子を見せる。
「パソコンって言ってんだろ。なんでノートとか机とかって話になんだよ」
「あー、うん……えっと……」
いかにもパソコンに詳しくないようすの大和に、どう説明しようかと啓介は悩む。そういえば、大和は普段自分のスマートフォンかレジ会計用のタブレットを使っているところしか見たことがない。IT企業勤めが長かった啓介には、パソコンのことがわからないということがよくわからなかった。
なにはともあれ、啓介がいろいろと手を尽くして大和から話を聞く限りでは、備品のパソコンはノート型のようなので、数日店頭に出るのを休ませてもらい、パソコンを貸してもらってホームページを作ることにした。




