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夕凪のパン屋  作者: 藤和
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エピローグ:夕凪のパン屋

 このところ、ベーカリーつきおれは繁盛している。これもひとえに大和と啓介の努力、そして琴子の助力のおかげだ。

 もしかしたら、商店街の商工会長があの文具店の主人に戻ったのも関係しているのかもしれない。あの不正を働いていた元商工会長が警察の調べの結果逮捕されたあと、商店街自体がすこし活気づいたのだ。元商工会長の悪事を暴いたのがベーカリーつきおれだという話が広まったこともあり、この店はより一層商店街になじむことができた。

 ベーカリーつきおれがこの町でオープンして、今年で三年目なのだという。Iターンの補助が出るのは今年度いっぱいまで。今年中に売上が黒字にならなかったら、店をたたむつもりだったと啓介は大和から聞かされた。

 そんな三年目にして、毎月黒字が続くようになった。税金の申告がたいへんにはなるけれど、啓介としてはうれしい変化だし、大和としても一安心だろう。

 日差しも穏やかになった秋の定休日、大和が缶チューハイを二本持って啓介にこう言った。

「おっさん、一緒に海行ってこれ飲もう。俺のおごりだよ」

 大和の方からこんなふうに誘ってくるのは珍しい。啓介はうれしさを感じながらいそいそと準備をする。

「それじゃあありがたく。すいませんね、若い子におごらせちゃって」

「毎日俺が作った飯食って今さらそれ言う?」

「それはそう」

 そういえば毎日おごられているようなものだな。ということに気づいた啓介は、照れ隠しに眼鏡の位置を直す。すると、大和はぶっきらぼうにこう続けた。

「前にうどんおごってくれたろ? これはそのお返しだよ」

 缶チューハイを一本啓介に押しつけて、大和は店の外に出て行く。啓介も微笑ましく思いながら、その後をついていった。


 ベーカリーつきおれのある商店街から海までは近い。ふたりでゆっくりと歩いて行く。日が傾いて赤くなっていくのを眺めているうちに海辺に着いた。

 ふたりは周りに誰もいない海辺の手すりに寄りかかって、缶チューハイを開ける。

「おっさん、このまま海見てな」

「え?」

 缶チューハイに口をつけながら大和が海を指さすので、啓介はじっとそちらを見る。

 太陽が海の向こう岸に沈んでいく。空が茜色になる。吹いている風が少しずつ冷たくなってくる。そして突然風が止み、海が止まった。

 いったいなにが起こったのか。呆然とする啓介に大和が言う。

「凪だよ。はじめて見ただろ」

 鳥の声だけが聞こえる、止まった海。それはあまりにも非現実的だった。

 思わず啓介が呆けていると、風がそよぎだし、海が動き出した。凪というものが幻であったかのようだ。

「店長、よく凪を見に来るんですか?」

 心ここにあらずといった啓介の問いに、大和が缶チューハイを飲んでから答える。

「ここにきてすぐの頃、役所の人に教えてもらって一回だけ見た。

 そのあとはいままで、ずっと見てる余裕なんてなかったけどさ」

 そう言って屈託無く大和が笑う。はじめて見るその笑顔に、啓介はつい訊ねたくなった。

「店長はどうして、香川に来たんですか?」

 その問いに、大和は俯いて返す。

「俺、東京の工場に勤めてたんだけどさ、ある日出勤したら潰れてたの。それで急に職がなくなって仕事探してるところに、香川のIターンの話が舞い込んできたってわけ」

 なんとなく身に覚えがある話を聞いて、啓介はためらいがちにまた訊ねる。

「ご実家は頼れなかったんですか?」

 すると、大和は膝に顔を伏せる。

「頼りたくない。

 あんなクソみたいな地元に戻るくらいなら、香川の方がずっとマシだって思って来たんだ」

「失礼ですが、ご実家はどちらで?」

「茨城。そこで幼稚園の時からずっといじめられてた」

 大和の少し引きつった声を聞いて、啓介はなるほど、と思う。ほんとうは恨み辛みがたくさんあるのだろう。いじめられていたから、根は素直なはずなのにひねくれた態度を取ってしまうようになったのだろうし、大和自身もそのことを気にしているのかもしれない。

 けれども、ほんとうは大和も、自分が生まれ育った茨城に愛着があるのだろうなと察しはつく。なぜなら、ベーカリーつきおれの名前の由来は、茨城にある月折山だろうからだ。月折山へは、啓介も高校生の時に一度だけ行ったことがある。なぜ行くことになったのかはわからないけれど、家族揃って山に登って、たのしくて爽やかな時間を過ごした。きっと大和はその山に慣れ親しんで育ったのだろう。なりたかったパン屋の店名に付けるほどだ。戻りたくないと言いながらも、心のどこかで望郷の念はあるのだろう。そして、大和はきっとその思いを認めたくないのだ。ひどい仕打ちをした人がいる地元に帰りたくないから。

 帰りたくても帰れない。事情は違えどその事実は、啓介と大和共通のものだった。

「そっちこそ、なんで実家にもどらなかったん?」

 大和のやり返すような問いに、啓介ははにかみながら返す。

「僕には、帰れる実家がないから」

 啓介にはもう実家はない。人生を一緒に歩むはずだった妻も、出産の時に娘共々失った。大学の寮にも長居はできない。もはやベーカリーつきおれ以外に居場所はないのだ。

 そんな啓介の言葉に、大和が顔を上げて笑う。

「そっか、おっさんもそうだったんだなぁ……」

 そして、泣きそうな声でこう続ける。

「それじゃあ、ずっと一緒にいてくれよ、啓介さん」

 笑っているのか泣いているのかもうわからない大和の頭を、啓介は優しく撫でた。


 ベーカリーつきおれオープン四年目。今年から県の補助金は出ない。それでも、ベーカリーつきおれは毎月黒字を出していたし、順調に借金の返済をできている。もう補助金がなくても、この店は自分の足で立って歩けているのだ。

 秋になったらいったん休暇を取って、東京の八咫烏文庫に行こうという話にもなっている。もちろん、啓介も一緒にだ。大和が大事に思っている場所に行くのはどことなく気恥ずかしいし緊張するけれど、なんだかんだで啓介は楽しみにしている。

 そんなある日の閉店後、啓介が大和に訊ねた。

「このまま借金が返せたら、東京進出を銘打って東京に戻ったりとか、考えてないんですか?」

 大和としては八咫烏文庫のある東京でパン屋をやった方がいいのではないだろうか。そう思った啓介の問いに、大和は不満そうな顔をして訊ね返す。

「それは考えてないな。それより啓介さんこそ、貯金して転職して京都に戻んないの?」

「ははは、別に京都は僕にとって安住の地じゃないしね。

 京都はこわいところだよ」

「そうなん?」

 冗談めかした啓介の言葉を聞いた大和は、いたずらっぽく笑って言う。

「俺、香川にお墓買おうと思ってるんだ」

 それを聞いた啓介がすかさず言う。

「ほんとうですか? じゃあ僕も一緒に入れてもらって良いですか?」

「啓介さん、部屋だけじゃなくて墓まで間借りするつもりかよ!」

 呆れたように声を上げる大和に、啓介は笑って誤魔化す。自分だけでなく、大和もこの土地に愛着を持ってくれていることに安心したのだ。

 すると、大和も笑ってこう訊ねた。

「それじゃあ、見晴らしの良い場所と店から近いところ、どっちが良い?

 俺は墓参りが楽だから店から近い方がいいけど」

「僕は見晴らしが良い場所の方がいいなぁ。

 僕がお墓参りすることはないだろうから」

「俺だけに面倒を押しつけんなよ!」

 ほんとうにお墓を買うのかどうか、それはわからないけれどふたりは仲良くケンカをする。これからもずっと、この土地で、この商店街で、このベーカリーつきおれで、穏やかな日々が続けばいいと思っている。よそ者だった啓介と大和を受け入れてくれたこの場所は、ふたりにとってもう十分過ぎるほどに大切なものになっていた。

 故郷に帰れないふたりは香川を安住の地と決めて、ようやく安心して生きることができるのだ。

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