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あやかし家政夫  作者: 琴花
第七章
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兎と亀

 万十郎から離れた私は、公園の入り口付近まで後退する。公園を出た先の本来あるべき道路はなく、どこまでも白い世界が広がっている。やはり、ここは現実と非なる場所だ。 

 そして、対峙するふたりのあやかしを見る。

 これから何が起こるのだろう。あやかし同士の喧嘩なんて見るのは初めてで、今更私にできることはないけど緊張する。

 強く手を握り締めた時、視線の先が揺らいだ。

 公園の中は時間が止まったように変わらない。揺らいだのは万十郎だ。

 あやかしの姿に変じる前兆だ。

 瞬きの間に輪郭がぼやけ、細かな粒子になる。着ていた衣服が地に落ちる。

 いつもなら小さな亀の姿が現れるはずだった。


「――えっ?」


 粒子が広がる。スモッグに似た、けれどそれよりずっと清らかな霞となり、どんどん大きくなる。時折金色に光りながら膨張する。すでに人の姿はなしていない。

 息をするのも忘れて見守っていると、霞が薄れた。


 足音がした。

 地鳴りのような、大きなものが動く音。

 身じろぎする気配。巨大な影。

 なにかとてつもないものがいる。


 背中を汗が伝い落ちていく。

 身体の底から響くような咆哮がして、完全に霧が晴れた。


 私は極限まで目を見開いた。


 見た目はやはり亀に似ていた。

 巨大な甲羅に長い首、太い足と揺らめく尾。

 けれど、甲羅は墨のように艶めく漆黒で、時折金色を帯びる。四肢は白に近い灰色。瞳は陽光を凝縮したような蜜色。

 

 圧倒的な存在感だった。

 神話の世界に出てきそうな美しさに、呼吸するのが憚られる。


 これが万十郎?

 この完璧な生き物が。


 疑問は突如響いた笑い声にかき消された。


「これが貴殿の本性か。万十郎殿」


 白夜は楽しくてたまらなそうに笑った。


「いいぞ。幽世ですら禁忌とされた、本性を晒しての仕合。――十年前の続きだっ!」


 言うや否や、白夜もまたその姿が粒子となって溶けた。

 着物が地に落ち、霞が広がる。

 そして、人の姿をなくした生き物がもう一体。

 長い耳、前は太く、後ろは巨大な四肢。真白い毛皮は天鵞絨(ビロード)のように滑らかな光沢をもち、瞳は炎のように燃えさかり、血のように冷たく澄んでいる。

 兎といって差し支えない。――はずだが、ないはずのものがあった。

 額から鋭い角が生えていた。

 天に向かって突き出すそれは、煌びやかな装飾のように光を放っていた。


 亀と兎。愛らしいはずの存在が、逆にこちらが矮小な生物に思えて身が震える。

 畏怖に跪きたくなる。

 私は知らず唇を笑みの形に歪めた。


「何を憂うことがあるの……?」


 こんなに圧倒的な生物が、たかがひとりの人間の一挙手一投足を気にするなんて。私には勿体なさすぎる。隣に立つなんておこがましい――。

 一瞬蜜色の瞳がこちらを向き、視線が交わった。

 感情を宿した色を見た瞬間、自嘲の笑みが消えた。


「そうか……」


 私は呟いた。

 万十郎が憂いたのはこれだ。

 本性を晒すことで、私のこころが離れてしまうことだ。

 見た目は神秘的でも、中身は変わらない。穏やかで優しい少し臆病なひと。私だけの可愛い亀。

 畏怖により感じた距離感がまた縮まる。


「大好き」


 思わず漏れ出た言葉は、離れた位置にいる万十郎には届くはずのない囁きだったが、蜜色の瞳は確かに柔らかく細められた。

 私は息を吸って大きく叫んだ。


「お腹すいたからはやく終わらせて帰ろうっ!」


 空気の振動はくぐもった笑い声によるものか。

 巨大亀は私から視線を外すと、巨大兎と向き合った。

 その後姿は広く大きく、再度振り向くことはなくとも、傍にいる感じがした。

 甲羅にある古傷が愛おしかった。

  





 兎は地を蹴り、木々の間を縫うように跳ねて翻弄し、氷雪を呼び寄せる。亀は襲い来る氷の塊を前足で叩き落とし、鞭のようにしなる尾で反撃する。

 兎の鋭い爪による一撃は亀の金剛石より硬い甲羅でふさがれ、亀の強靭な(おとがい)による攻撃は素早い兎に難なく躱される。

 双方細かい傷を負っても決定打にかけない争いが続いた。


 亀の領域外すれすれに着地した兎は、赤目を爛々と輝かせ、声もなく咆哮した。

 凍えるほどの寒さが押し寄せる。空には自然のものではない雷雲が広がる。

 遠く雷鳴が響いたと思ったら、轟音とともに稲妻が降り注ぎ、巨大な一筋が導かれるように兎の額の角に落ちた。

 兎はところどころ赤く滲んだ毛皮はそのままに、角は帯電するかのように輝かしい光を帯びる。

 兎は跳躍すると頭を上下させ、亀に向かって角を突き出す。

 途端、鋭い稲妻が亀に襲い掛かった。

 亀もその巨体からは想像もできないほどの速さで後退し、雷撃を躱す。

 しかし、雷による連撃に次第に亀は押され始めた。

 地面は黒く焦げ、木々は焼け落ち、遊具は粉々に破壊された。

 ベンチの残骸を踏みしめた亀のもとに強大な一撃が直撃した。

 遠くちとせの悲鳴が聞こえる。


 もくもくと立ち上る黒煙を前に、兎が着地した。角が放つ光は弱まり天鵞絨のような毛皮も毛羽立ち、若干色褪せている。

 煙が薄らいだころ、咆哮が轟いた。大地が割れ、浮き上がった砂塵が意思を持つかの如く兎をとり囲んだ。

 煙の中から黒金の甲羅を輝かせた亀が現れ出た。針のような瞳孔が砂塵の中にいる兎をみる。

 一粒一粒が殺傷能力の高い砂粒が兎の白を隠す。

 そして――。


「降参っ!」


 声が響き渡った。


 砂塵がおさまりぱらぱらと砂が散る。砂煙がやむと、全身に細かい傷を負った白夜が姿を現した。

 近くに打ち捨てられた着物を羽織る。


「思った通りの強さだ」


 その視線の先には同じく傷だらけの万十郎。僅かな粒子を纏いながら、こちらもまた、ところどころ焦げたコートを羽織って息をついた。


「そちらも」


 疲れの滲んだ声音だが、口調にはまだ余裕がある。

 白夜は肩をすくめた。


「まだ余力がありそうだな」

「まさか。砂塵を突破されたら僕の負けでしたよ」

「それは惜しかった」


 万十郎は離れた場所にいるちとせを確認して息をついた。

 

 ――良かった。無事だった。


 万十郎は息を詰めると、ちとせに向かった。

 本性を晒して勝負したのだ。ごく普通の人間であるちとせは、万十郎を恐れてしまったかもしれない。

 信じてはいるが、弱いこころがどうしても顔を出す。

 ちとせは、驚きに目を開き座り込でいた。

 万十郎はそっと問いかける。


「ちとせさん、怪我は?」 


 ちとせはしばらく口を開閉させたのち、万十郎ににじり寄った。


「万十郎、大丈夫なの? 全身傷だらけじゃない! すぐ病院に――」

「ちとせさんっ」


 思わず叫んだ万十郎に、ちとせは我に返ったように口をつぐむ。


「私は平気よ。全身温かな羽毛に覆われたようで氷も砂粒も当たってこなかったわ」

「そうですか。よかった――」


 しるしに口づけたとき霊力を送り込んだのだ。

 以前までは、せいぜい僅かな感情の変化を感じ取れるだけで、物理的に防御することはかなわなかった。しかし、昇華したことでそれも可能になった。

 けれど、こうして無事を確認するまで安心はできなかった。

 しかし――。

 万十郎の口元に笑みが広がる。

 

「まずは僕の心配ですか」

「そうよ。小さな傷でも黴菌が入ったら化膿して大変なのよ。すぐ消毒しないと」

「あやかしの治癒力は高いから大丈夫ですよ。それに、僕はあやかしの中でも特に頑丈な亀のあやかしですから」

「そうなの? けど、治療するにこしたことはないから。それに――」


 ちとせの目が白夜に向く。


「彼も手当してしないと」

「俺は平気だ。むしろ、幽世の霊力に満ちた大気を取り込むほうが治療になる」

「帰還する理由ができましたね」

「それを言うなら貴殿もだがな……」


 ため息交じりのの言葉に万十郎は苦笑する。

 全身の力が抜けた気がした。

 まったくちとせの懐の広さには恐れ入る。


 アパートで再会したときは、あやかしの存在をひどく怖がっていたのに、今はすっかり受け入れ馴染んでさえいる。

 現世には存在しない巨大な生き物に変化するさまを目の当たりにし、人間には起こしえない天変地異とも呼べる脅威を体験しても、その瞳に浮かぶのは驚愕のみで、恐れや拒絶の色は一切ない。

 幽世のあやかしとしての敵意を隠しもしない白夜にも気を使うほどだ。おかげで、白夜のちとせを見る目が少し変わったように思える。今も、ちとせが側にいても、自然に笑う。


「しかし、小娘に万十郎殿のような強き者を御せるとは思えんが」

「御すとかじゃなく、対等!」

「そうだったな」

「それに、小娘じゃなくちとせという名前があるの!」

「わかったわかった」

「ちとせさん、落ち着いて……」

「万十郎殿、傷が癒えたら再戦を希望する」

「お断りします」

「瞬時に切り捨てたな。つまらん」


 変化への順応性の高さが人間の強さだろう。

 悠久の時を生きるあやかしには持ちえない強みだ。


 空気が緩んだ瞬間、地鳴りがした。

 万十郎は思わずちとせを抱きしめると、腕の中で彼女が悲鳴のような声をあげる。


「なにっ?」

「狭間が壊れます。気をしっかり持って」

「そんな。どうなるのっ?」

「狭間は現世と幽世、両方の世界に繋がっています。人間であるちとせさんは、引き寄せられるまま現世に戻るはずです」

「幽世の住人たる俺は、幽世に引き寄せられるだろうな」 


 白夜の言葉に、ちとせが焦った様子で万十郎を見た。


「万十郎は?」

「僕は――」


 幽世で生まれ育ったあやかし。

 正に幽世の住人といって然るべきだろう。

 しかし――。

 万十郎はふわりと柔らかく笑った。


「僕の生きる世界は現世です」

 

 たとえ幽世に飛ばされることがあっても、必ず現世に戻ってくる。

 ちとせは瞳に涙を浮かべた。


 割れた大地が隆起しながら崩れていく。

 雷雲が去った空が黒く変色していく。

 僅かに残った木々が木の葉を散らし、灰となって流れて消える。

 世界が音もなく崩れていく。


「万十郎、格好良かったよ。すごくすごく格好良かった」

 

 ちとせは万十郎を力の限り抱きしめる。万十郎もちとせを強く抱きとめる。

 互いが互いに縋りつくように抱き合った。


 そして、世界が壊れた。




7章終了です。お付き合いくださりありがとうございました。

次はエピローグとなります。

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