狭間
春は桜が奥ゆかしい香りをまとい、夏はセミと子供の笑い声がこだまする。秋は色づく木の葉に季節の移ろいを感じる。冬はまだ経験したことがないが、しんしんと冷え込むことだろう。
ブランコと滑り台だけの小さな公園。
何度も訪れたそこは、静寂に満ちていた。
幻は消えている。けれど、今いる場所こそが幻のように感じる。
風がなく、空気が停滞している。
木々があれど生命の息吹は感じない。
虫の音も、近所の人たちの喧騒も聞こえてこない。
しっそりと静まり返っているのは、誰かが息をひそめているのではなく、そもそも息をひそめる生物が存在しないから。小さな昆虫や草花といった、人間がいなくても当たり前に存在する命の熱を感じない。確かに木々は生えているのに、作り物にしか感じない。
「ここが狭間……?」
漏れ出る声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。得体のしれないものに対する恐怖だ。
「そうです。現世と幽世をつなぐ門の内側」
万十郎の声に私は振り向いた。伝わる手の熱。瞳には確かな光が宿っている。
良かった。彼は生きている。作り物じゃない。
それだけで恐怖が和らいでいく。
現世を象徴する人間と幽世を象徴するあやかしが手を取り、ふたつの世界の境があいまいになる黄昏時に疑似的な門を作る。理論は分からない。私は万十郎の言葉通り、彼と手を繋いで夕暮れを歩いただけだ。途中見えた幻は異世界を繋ぐ通過点。そうしてたどり着いた場所は門を作るに相応しい鬼門となる地点。
まさか、何度も通った公園がそうだったなんて。
「大丈夫ですか」
「うん。もう色々放棄してるから」
非科学的にもほどがある。理論を説かれて、そこに至るまでの過程を告げられても理解できるはずもない。従っているのはそれを告げたのが万十郎だから。餅は餅屋。あやかし関係のことは万十郎に任せる。ただ、盲目にはならず、目で見て考える。お互い納得して行動する。
「放棄している表情ではありませんが。……冷静なようでほっとしました」
「これでもかなり混乱しているんだけどね」
私は苦笑した。混乱している自身を冷静に分析する。肝が太くなったというかどうにでもなれ精神というか。決して自棄を起こしたわけではないけれど。
狭間を訪れたのは目的があってのこと。でなければ、このような夢か現実か分からない場所など訪れない。
油断なく辺りに目を配りながらも、少し緊張が解けてきたとき、彼は現れた。
「――奇妙な気配がすると思って来てみたら、貴殿らか」
着物に羽織姿の白髪の青年。
白夜は周囲を見回しながら私たちに目を向けた。
「幽世の霊気が漏れ出るが幽世ではない。そして先ほどまでいた現世とも違う。門を渡ったときは一瞬で気付かなかったが、世界を繋ぐ狭間とはこのような場所か」
「ご名答です」
「それで、貴殿らはこのような場所に来てまで俺を呼び出すとは何用だ」
白夜の頭の回転の速さに私は内心瞠目した。
万十郎は笑みを消すと、白夜に向き合った。
「あなたにはすぐにでも幽世に帰っていただきたい」
現世にとって危険要素の大きすぎる、自制の効かない幽世のあやかしは早々に退場願いたい。
けれど、話し合おうにも詳しい居場所が分からない。
なら、来てもらうまで。
そうして、簡易門を開き、あやかしなら反応せずにはいられない幽世の気配を滲ませた。
分かってやってきた白夜は軽く鼻を鳴らした。
「無論、帰還する。現世は俺の居場所ではない。あのような呼吸のしにくい世界は御免だ」
あっさり断言され、私は肩透かしを食らった気分になった。
しかし、続く言葉に息をのむ。
「万十郎殿はどうする」
「僕?」
「まだ貴殿の答えを聞いていない。幽世に戻らないのか」
一瞬の間。けれど、私には長く感じた。
核心をつく質問に、万十郎は笑みさえ浮かべて答えた。
「幽世はもう僕の生きる世界ではありません」
断言に白夜は目を細めた。周囲の気温が数度下がった気がする。
「人間にひれ伏すか」
氷よりも冷たい声音だった。命の色なのに、この上なく冷たく感じる赤い瞳が私を見据える。
びくりと全身が震える。捕食者に睨み据えられたかのように思えたとき、万十郎の背が視界を遮った。
「ひれ伏したいところですが、同等ですよ。お互いを最大限尊重する間柄です」
あたたかく力強い言葉と存在に震えが止まる。
しかし、刺さるような声は続いた。
「貴殿の背に隠れて守られるばかりだというのに? あやかしが脆弱な人間ごときにくだるなど、やはり忌むべき存在は強者と成りえぬか」
どきりと心臓が鳴った。万十郎が貶められている。私のせいで。
「訂正して!」
私は万十郎の背から飛び出し、白夜を睨みつけた。
冷たい視線が刺さるが負けじと見返す。
「万十郎は家族に愛された。決して忌むべき存在なんかじゃない。それに、強者ってなに? 腕力も体力も身体の大きさも、そんなの生物によって違う。同じ人間でも個人差があるし、性別によっても違ってくる。あやかしもそうでしょう? なら強者は――」
思い浮かぶのは病院で眠っていた万十郎のこと。
薬液に浸かりピクリとも動かない小さな亀は、誰にでも害せるほど儚い存在だった。
目覚めて幽世へ帰ると言った時も身体を縮こませていた。
けれど、苦しみながらも本心を吐露したとき、その存在は大きく見えた。
弱っても挫けそうでも歯を食いしばって踏みしめる。
私はまだまだだ。自分の至らなさに歯噛みして、誰かにもたれてないとすぐに膝を折る。
けれど、万十郎は。
「願いを持ち、命を諦めない万十郎は強いよ。弱っていてもそれを感じさせず笑い、挫けそうでも踏みしめ、いつだって己より他者を優先する万十郎はとても強いよ」
背中から抱きしめられた。顔を向けると大好きな茶色の瞳。何者に負けないくらい強く光っている。
ああ、そうだ。思いの強さだ。自分の弱さを知って飲み込み、それすら糧にすることこそ強さだ。
「ちとせさん。貴女が側にいてくれるから、僕は強くあろうとするんです。貴女の存在が僕の強さです」
「私も、万十郎がいてくれるから頑張れるんだよ」
私は強くはない。けれど、弱いまま縋りついて共倒れにはならない。
何度も挫けて落ち込んで、そのたび励ましてもらって。けれど、歩みを止めない。
縋りつくのではなく、お互い支え合う。
「幽世で生まれたあやかしと、現世で生まれた人間が手を取り合うのって素敵じゃない?」
私の言葉に白夜は無言だった。赤い瞳が探るように見る。
やがて、白夜はふっと笑った。
「茶番だとは言い切るには、万十郎殿は命を懸けている。そして、彼の枯渇した霊力を回復させる程度にはお前も身体を張っているか」
「私が望んだことよ。身体を張ったわけじゃない」
「そうか」
視線が和らいだ。白夜は目を伏せ微笑む。
「先ほど言ったことは訂正しよう。今の万十郎殿はかつて戦場でまみえたときより手強く感じる。――なればこそ」
雰囲気が一変した。瞬きのあいだに、万十郎と位置が交代し、広い背中が眼前にある。
緊張感を滲ませながらもため息交じりの声がする。
「やっぱりこうなりましたか」
「幽世に戻らないのなら、今しか勝負の続きが行えないだろう」
肩越しに見える白夜は変わらない。笑っている。
だが、爛々と輝く瞳に、肌を突き刺すようなプレッシャーを感じた。
「ちとせさん」
「……うん」
直接あやかし同士の争いを見たことはないとはいえ、巻き添えを食らっては無事ではすまないだろう。離れないと危険だ。
そもそも、狭間で迎え撃ったのは、白夜が説得に応じてすんなり帰ってくれるとは思えず、仮に暴力沙汰に発展しても周囲に被害が及ばないようにだ。ここでなら、人間社会に適応せずともあやかし本来の力でぶつかり合うことができる。
けれど、危険なことに変わりない。どうせ幽世に帰ってくれるなら、痛いことはせずさっさと帰ってほしいと思うのは、平和に慣れた日本人であり、争いを嫌う女という生き物だからだろうか。
万十郎を見ると、彼は安心させるように微笑んだ。しかし、茶色の瞳にはごく僅かな――以前の私には分からなかった翳りがある。
――まだ何か憂いている?
いや、怖れだ。
白夜は故意に私を害そうとはしない。
なら――。
私は万十郎に強く抱き着くと、目に力を込めて笑った。
どんな万十郎でも好きだよ。だから――。
「万十郎を好きな私を信じて」
万十郎の持つ不安ごと愛する。憂いをみせるたび、何度でも好きだというだけだ。
だって私は万十郎が必要なのだから。
万十郎は僅かに目を見開くと眩しそうに笑った。
「はい」
万十郎は私の手を取ると、しるしに口づけた。温かい何かが流れ込んでくる。
「ちょっとだけ待ってください。すぐ終わりますから」
「――うん」
お互い距離をとる。瞳にはもう翳りがなかった。
万十郎は、離れた場所に佇むちとせに背を向けて、白夜に向き直った
「お待たせしました」
「もう少し遅ければ、こちらから仕掛けるところだったぞ。女を巻き込んでもいいのかと思った」
白夜の言葉に万十郎のこころが冷える。
ちとせに聞こえない程度の低い声で告げる。
「まさか。彼女になにかあれば僕は狂気のままあなたを惨殺しますよ」
「狂った貴殿とし合うのも楽しそうだが、やはり同じ土俵でないと面白くない」
お互い浮かべるのは凄惨な笑み。
ちとせには見せたことのない表情。これからも見せることのないように願う。
「帰って夕ご飯の支度をしないといけないので、さっさと終わらせます」




