昇華
金色の瞳が私を見下ろす。
初めて見た時は怖くて仕方なかった。獣のような瞳に射すくめられ、恐怖に震えた。
けれど、今は違う。
ただ綺麗で見惚れる。満月の光のような瞳が私を映すことに喜びを感じる。
熱い吐息とともに、長い指が私の輪郭をなぞるように触れる。
頬から顎、首筋をくすぐって肩のラインを手のひらで包み込む。
「……怖いですか?」
無意識の肩の震えが伝わったのだろう、案じるように囁かれた。
私は頭を振った。
確かに、これから訪れる未知の領域に対する怖さはある。
けれど、それ以上に彼が欲しかった。私のものにしたかった。
それに、衣服を脱ぎ捨て抱き合ってなお、私を案じてくれる彼が愛おしかった。
想いに応えたい。
――違う。想いを素直にぶつけてもらいたい。
過去を視て、彼の痛みを知った。乾きを知った。
深い傷跡は私を庇ってのものだと知った。
癒したい。支えたい。何も言わず微笑むばかりの彼のこころを深く知りたい。
戒めを脱ぎ捨て、優しい嘘を取っ払って、本当の思いをぶつけて欲しい。
私は受け止めたい。受け止めるから。
だから。
「きて……」
呟くと、彼の瞳の奥に揺れる熾火のような熱が燃え上がった。
普段の穏やかな風貌は鳴りを潜め、獰猛な獣の部分が顔を出す。
私の一言で最後の枷を外したあやかしは、艶めく声で囁いた。
「――いただきます」
痛みは歓びへ。
零れる涙は幸せのもの。
私は胸が痛くなるほど温かな気持ちを得た。
玄関先で赦しを得たまま、欲をぶつけるようにもつれ合った。
彼女に覆いかぶさり、柔らかな肌を堪能したところで、大きな瞳に映る自分を見た。
黄色の目を爛々と輝かせ、欲望のまま喰らい尽くそうとする浅ましい獣。
彼女の頬は羞恥に朱が走り、幾度も交わした口づけに唇は赤く色づき濡れていた。
身のうちの熱を逃がすように、息をつく。
そっと輪郭をなぞると、肩が小さく震えた。
細い首、薄い肩。少し力を入れただけで壊れそうな肢体。
「……怖いですか?」
怖くなったのは自分だ。
このまま己の欲望を満たせば、彼女は壊れてしまうかもしれない。
凶刃から救われ、あとはただ輝ける未来を歩くだけの彼女を、もはや足枷としかならない自分が壊してしまうかもしれない。
それだけじゃない。
彼女と距離を置こうとしたのも、怖いからだ。
再び、恐怖の目で見られて拒絶されることが、どうしようもなく怖くて恐ろしい。
彼女を壊すくらいなら、僕が壊れてしまえばいい。
彼女に拒絶されるくらいなら、僕が消えてしまえばいい。
たくさんの初めての感情をもたらしてくれたひと。
大切にしたい。僕だけのものにしたい。
傷つけたくない。他は何もいらないから。
様々な感情が渦巻く。彼女しか見えない。
ああ。僕は本当は、彼女が、ちとせさんが――。
「……きて」
欲しい――。
潤んだ瞳は強い意志を持って僕を見る。
考えていることなどお見通しとばかりに、口元には笑みさえ浮かべて。
燻った炎が瞬く間に燃え盛る。
つられるように笑う。
拍子に、言葉で表せない想いを凝縮させた雫が眦から一粒零れた。
「――いただきます」
――完敗だ。
☆ ☆ ☆
気づけば、太陽は中天をとうに過ぎていた。
「寝てた……?」
慌てて起き上がろうとして、あらぬところの痛みに唸った。
全身が倦怠感に包まれ、再びベッドに沈み込む。
身体は重く言うことを聞かないが、思考は鮮明になった。
そうだ。食べられたのだ。
「私、万十郎と……」
知らず頬が熱くなる。
ひとり身悶えしていると、起きた気配を感じたのか、台所から万十郎が顔を出した。
穏やかな風貌はいつもと変わらぬ様子で、内心ほっとする。
「ちとせさん。具合はどうですか。水飲めます?」
「ちょっとだるいけど平気。ありがと。飲む」
万十郎に支えられて上半身を起こす。いつのまにか、洗い立ての部屋着に着替えさせられていたのは気付かなかったことにする。
思った以上に喉が渇いていたようで、渡された水はあっという間に飲み切った。
おかわりは断って、コップはテーブルに置いてもらう。
食べられたということは精気を失ったということ。
全身に力が入らないのはそのためだろう。
けれど、休めば体力が回復するように、失った精気も戻ってくるのだろうか。
考えないようにしていた疑問が表面化した時、万十郎が口を開いた。
「失った精気は時間が経てば戻るので、明日になれば普通に動けると思います」
「そう。良かった」
私は安堵の息をついた。
今日は祝日なので学校は休みだけど、明日は普通にあるから助かった。
「けど、今日はゆっくり休んでください」
変わらず甲斐甲斐しく世話を焼くあやかしに苦笑する。
そして、肝心なことを思い出す。
「万十郎こそ大丈夫なの? ……その、飢えは満たされた?」
僅かな羞恥を感じながら聞くと、万十郎は静かに微笑んだ。
心臓が音を立てた。
いつもと同じ笑み。だけどどこか違う。
「ちとせさんのお陰です」
視線から目を逸らせない。
「……ほんとうに? 言わないからセーフとかじゃ駄目だよ。そんな優しい嘘はいらない」
あくまで疑心暗鬼な私に、万十郎は丁寧に答える。
「本当です。こんなに満ち足りた気分は何時ぶりでしょうか」
感慨を込めた呟きに、二心は感じない。
私は今度こそ安堵の息をついた。
「良かった……」
血色の良い顔。目には力があり、声には張りがある。
病院で話した時とは雲泥の差だ。
「……一週間前、病院で眠る万十郎を起こすため、名前を呼びかけていた時、あなたの過去を視たの」
万十郎は、黙ってベッドの向かいに座り、私を見た。
「小さいあなたがいたわ。綺麗なお母様と一緒に」
孤独な少年時代。
静かに過ぎる青年時代。
節目節目に私がいた。正確には、泉に映る私の姿があった。
「ずっと前から私のことを知ってたのね」
泉に映る現世の景色。
私も幼い頃、母と祖母と泉に来たことがある。
透き通った水面を覗いて喜んでいた。
私にとっては十年と少し前。
けれど、万十郎にとっては、もっと昔の話。
「まるで俯瞰しているようで、細かな事情は分からなかったけど、ただ強い感情が伝わってきたわ」
万十郎が現世に来るまでの瞬間を視た。
彼は、幽世に迷い込んだ私を庇って重傷を負った。
手を下そうとしたあやかしを現世に渡らせないために、門を壊した。
そして、私の危うい未来を退けるために、現世に赴いた。
万十郎は幽世で穏やかに過ごすより、名前も知らない子供のために長い年月を費やした。
謝罪なんてできない。
感謝なんて言葉では言い表せない。
ただ……。
「……抱きしめさせて」
愛おしい。
ベッドの上から、向かい合う万十郎の頭を抱きしめた。
万十郎はされるがまま、静かな時間が流れた。
やがて離れると、万十郎は照れくさそうに笑った。
「僕はそんな高尚な存在ではありませんよ」
「それなら私もよ。泥臭くて人間臭い。……けど、それが生きてるってことじゃない?」
ようやくそう思えることができるようになった。
人間は悩みもなく綺麗なまま生きることなんてできない。
あやかしだってそうだろう。
色んな感情に振り回されて、生きていると実感できる。
「――そうですね」
万十郎は眩しそうに目を細めて私を見た。
「僕はやっぱり貴女と生きたい」
その言葉は静かに私の中に染み渡る。
「――私も」
そっと呟いた。
あやかしの寿命は長い。私は置いて行ってしまう側だ。
けれど、最後の一瞬まで万十郎のことを想っていよう。
「ちとせさん?」
そっと頬に手が添われる。
いつの間にか泣いていた。
「ごめんなさい。寿命の関係で、どうしたって私は置いて行ってしまうのだなと思ったら……」
言葉が途切れた。
万十郎が微妙に目を泳がせていた。
「……万十郎?」
「はい」
「まだ何か隠してる?」
万十郎は押し黙る。
私は目を伏せると、首を振った。
「言えないことがあるのはいい。けど、私のため言わないのなら話して」
そうして、再び顔をあげじっと見つめると、万十郎はやがて観念したように笑った。
「僕もちとせさんも、残された年月は同じくらいだと思います。――あやかしは、核が傷つくと極端に寿命が縮まるんです」
私は目を見開いた。
「……どういうこと? 治ったんじゃないの?」
「一度傷ついた核は完全に治ることはありません。幽世で、生まれつき核が傷ついたあやかしがいましたが、その者は百年足らずで亡くなりました。……あやかしの寿命は短くて数百年、長くて二千年です」
言葉が出なかった。
「……だから、言わずにいようと思ったんです」
今度は私が抱きしめられた。
心臓の位置に耳が当たる。けれど音は聞こえない。
彼はあやかしだから。
そこにあるのは心臓ではなく、核なのだ。
人間は、怪我でも病気でも、完治してなお、説明できない違和感が残ることが多々ある。
同じところを骨折したり、病気だって再発する。
あやかしもそう。
ただ、代償が大きすぎるだけ。
「僕は嬉しいんですよ」
万十郎がそっと呟いた。
「貴女を喪ったあと、長すぎる年月を独り思い出を抱えて生きるよりは、一緒に老いることができるなら、そっちのほうが幸せです」
「万十郎……」
愛しくて、苦しくて、辛くて、でもやっぱり大好きで。
万十郎はそっと身体を離すと、私の手を取った。
墨色の六角形に金色の丸模様。
印にそっと口づける。
「僕はあやかしですが、人間に近い存在でいられる。ちとせさんの側にいて、生きていると実感できます。すごく嬉しいんです。だから、そんな悲しそうな顔をせず、僕の気持ちを受け入れてください」
痛いほど伝わってくる純粋な思い。
ここまで思われて尽くされて、受け入れずにいられようか。好きにならずにいられようか。
「――うん」
頷いたとき、六角形の中の丸模様が膨らんだ。
金色の光を帯びてふわりと蕾がほころぶように、清らかなひとひらが広がる。
そして。
「――花が咲いた」
清楚な金色の花。
墨色を背景に、柔らかく輝く。
「――昇華」
万十郎が呟いた。
「丸模様は蕾。印を刻んだ相手と、真に身も心も繋がれば、花開くんです。お互いに印を刻んだあやかし同士であっても花開くことは滅多にないのに……」
そのまま、呆然とした様子で花咲く印を見つめていたが、感極まったように強く抱きしめられた。
身のうちの思いをすべて吐き出すような囁き声が聞こえる。
「ちとせ……。僕の半身……」
僅かに震える声に、愛しいあやかしの腕の中で私はそっと目を閉じた。
静かな時が流れる。
このまま時間が止まればいいのになんて、らしくもないことを考える。
「この瞬間が永遠になればいいのに」
鼓膜を震わせる囁き声に思わず笑うと、万十郎は戸惑いの声をあげた。
「ちとせさん?」
「ふふ。私もまったく同じことを思ったから」
小さな笑い声が重なった。
愛しくも安らかな時間を大事にしたい。
そのためには――。
「さしあたって、危険極まりない白いあやかしをなんとかしないといけないわね」
私は雪の夕暮れに出逢ったあやかしを思い出す。
人外の美しさ。赤い瞳は、一括りに人間を脆弱な存在だとしか見ていなかった。
幸いにしてまだ騒動は起こっていないが、社会のルールから逸脱し、人間に危害を加えることを躊躇しないあやかしは現世にいてはいけない。
「けど、どうやって幽世に帰ってもらうの?」
説得に応じて素直に帰ってくれるだろうか。
そもそも、どこにいるかも分からない。
まさしく、人間には手の負えない状況だが、万十郎は余裕の表情だ。
「多少荒っぽい方法ですが、手はあります。――向こうから来てもらえばいいんです」
そう言って強気に笑う姿を見て、私は目が覚めてから、万十郎に感じた違和感に思い至った。
万十郎は、いつも一歩下がって見守るだけだった。私を庇護しながらも、何事に対しても受け身だった。
けれど、今は自らを前面に出している。強気に構え、押し進める。
優しくて明るくて、自信に満ちている。
これが、本来の万十郎なのだ。




