呪いの言葉は祝福に
万十郎の宣言に、白夜は睥睨した。
「傷だらけの状態で、俺を止められると?」
「もちろん」
万十郎は不敵に微笑んだ。
白夜は眉を寄せるが、万十郎が姿勢を低くすると同じように構えた。
大きく抉られた背中の傷は核まで達しているようで、回復力に優れた亀のあやかしであっても治りそうにない。
同じく、流れた血と霊力もすぐには元には戻らない。
状況はあまりに不利だ。
それでも、悲嘆にくれることはない。
なぜなら――。
訝しむ白夜は、突然膨れ上がった万十郎の存在に、思わず大きく退いた。
そして、声を荒げる。
「まさか、本性を晒すのか」
成年に至ったあやかしが持つもうひとつの姿。
日常どころか、命を賭した戦場でも滅多に晒すことがない。
晒すとすれば、命以上のものが天秤にかけれているときだけだ。
白夜は目を瞠る。
門が。現世が。あの子供が――?
膨張する存在感。
白夜はこめかみに汗が伝った。
万十郎は金色の霊力に包まれた腕をあげると、白夜は回避の姿勢をとった。
そして、振り下ろされる腕。
瞬間、万十郎の後方で鈍い音がした。
白夜は目を疑った。
門に罅が入っている。
万十郎がこぶしを叩きつけた柱を中心に、細かい装飾が入った門に亀裂が入り、それが瞬くままに全体に渡る。
細かな破片が割れ落ちると、急速に風化したように、門全体が崩れていく。
「さよなら」
清々しい表情で万十郎は半ば砂となった門に飛び込んだ。
白夜が止める余裕もなかった。
長年、門の管理者をやってきた万十郎には、門の内側を見れば、誰かが界を渡っている状態かどうか分かる。渡っていたら波紋は大きくなり、そうでないなら凪ぐ。
少女が門の奥に消えて大きく揺らいだ内側の波紋は自然と収まり、やがて完全に凪いだことを確認して、門の破壊に及んだ。
前例のない暴挙だが、後悔はない。
ただ、長年面倒をみてくれた世話役や集落の民には申し訳ないことをした。
石が崩れ、界渡りの機能がなくなる寸前に、万十郎は門に飛び込んだ。
界渡りに失敗すれば狭間に落ち、戻ってくることはかなわないだろう。
それでも躊躇はなかった。白夜の行く手を防ぎ、少女を助けるには。
泉に映る景色は過ぎ去った過去、生きる今、決まった未来。
いずれにしろ変えられない。
しかし――。
最後にみた成長した少女の姿を思い出す。
彼女に向かう刃物。
まだ向かっているだけ。届いていない。
瞬きの間に彼女を貫くとしても、決まった未来はその寸前で途切れていた。
なら、助けることはできるはず。
あやかしは情が深い生き物で、唯一を見つけるとどこまでも愛し、尽くす。
しかし、父王という例外を知っているから、万十郎には縁のない感情だと思っていた。
……実際はこんなに強く持っていたのに。
(ちとせさん……)
こぽりと音がする。
薬液に浸かり、夢とうつつを揺蕩いながら、万十郎は懐かしい過去を振り返る。
そしてたどり着いた初めての現世。
界渡りをするうちに、人型を維持できなくなったようで、万十郎は亀の姿で泉からあがった。
万十郎を送って役目は終えたとばかりに、現世の門は砂となり泉に沈んだ。
森が深いところは同じだが、木の葉の色は現世のほうが鮮やかで、霊力の濃度に関係しているのか、大気は薄く感じる。
核が傷ついたうえ、人型にもなれず、まさに満身創痍だが、どうにか歩んで森を抜けた。
そして、初めて見る景色に一瞬心奪われた。
高く果てなく広がる抜けるような青空。
そして空よりも濃い色の海。所々、島が点在し、米粒のような船が往来している。
近く遠く聞こえる鳥の音に万十郎は目を閉じた。
柔らかな土、温かくも涼やかな草の匂い。
違う世界にやってきたのだ。
感傷に耽っていたからか、対応できなかった。
はるか後方、泉の方角から冷えた空気が万十郎に吹いてきた。
白夜の起こした風が門を渡ったのだと気づいたのは、突風が小さな亀を掬うように攫った後だった。
島の頂にいた万十郎は、ころんころんと面白いくらい転げ落ち、やがて止まったときは最後の一撃を与えられたかのごとく身動きがとれなくなっていた。
幸い、白夜本人は界を渡っていないようで、風も途切れ、一安心したのもつかの間、今度は人間の男のこどもが小亀の万十郎を見つけて悪戯する始末。
遠くなる意識をつなぎ止め、名前も知らない唯一の存在を思い――。
「何してるの?」
鈴のなる声がした。
ちとせさん。
僕にとって貴女がどれほど大きな存在か貴女は知らないでしょう。
泉に映っただけの名もしらぬ存在。肉親から当たり前に愛情を受け悩みなく笑う姿に、最初は忌避した。
僕も肉親から愛情を貰っていたのだと気づいて、でも気付くのに遅すぎて、逃げるように向かった先で貴女を目にして。
自分と重なる姿にこころが揺れた。
辺境を守るのは門の泉を守るため。門の泉を守るのは貴女の姿をいつでも見られるようにするため。
管理者といっても、結局は自分のために動いているにすぎません。
僕は欲深いあやかしです。
欲深いから、貴女を助ける。
あやかしだから、貴女を欲する。
貴女の意思を尊重しながら、貴女の領域に踏み込む。
笑いながら苦しくて、でも、傍に居られて幸せで。
だから罰が当たったんでしょう。
貴女を凶刃から救ったことで役目を終えたとばかりにこの身が崩れていく。
霊力が零れ、力が失われ、ひとの姿も保てなくなり。
それでも、どこまでも欲深い僕は、貴女が欲しくて、貴女を食べたくて、喰らいたくて。
ああ、お腹がすいた。
いつも感じたかぐわしい香り。
人間の食事も共に食べると、糧にはならなくても最高の馳走に感じられて。
そんな僕の様子を窺う瞳に映っていると思うだけで途方もなく嬉しくなって。
万十郎と呼ぶ声が好きです。
貴女が呼べば、ただの番号であった名前が色を持つ。呪いの言葉が祝福になる。
すました声で、怒った声で、照れた声で、優しい声で。
呼んでくれたら、いつでも僕は嬉しくて尽きていく霊力も何のその、貴女のものに馳せ参じます。
だから、呼んでください。
☆ ☆ ☆
「万十郎っ!」
ここが病院の一室であることも忘れ、私は叫んだ。
空也先輩の言う通り、左手の甲のしるしに意識を向けて、こころの中で万十郎が目覚めるように呼びかけた。願うように何度も。
そうするうちに、私の意識も雲に乗ったようにふわふわと覚束なくなった。
夢とうつつを彷徨うような感覚に陥り、半ば朦朧とするなか、ふと琴線に触れたかのように微かな反応があった。
それは私ではない、別の誰か。
その穏やかで優しい気配は確かに万十郎で、こころが求めるまま呼びかけた瞬間、私の意識は彼のそれに引っ張られた。
そして、万十郎の中で彼の過去を視た。
肉親を失い、愛情に飢え、望みもしない争いに巻き込まれ。
悠久の年月をこころを凍らせながら箱庭を護る寂しいあやかし。
彼を今すぐ抱きしめたい。
肩に手が置かれ、意識が現実に戻った。
私は滲む視界のなか水槽に手を入れた。
制止する声が聞こえるけど、躊躇なく緑色の水に浸した。
途端、微弱な電気が走ったような刺激を受ける。強すぎる薬は毒にもなるということか。
けど、こんなの痛みなんていわない。
硬い甲羅に触れる。古い傷跡は私を庇った時のこと。
「万十郎。ごめん、ごめんね……」
薬液の中で傷跡を撫でる。
ぽたぽたと熱い雫が零れる。
私は貴方に何をしてあげられる? どうすれば償いになる?
しるしが熱を帯びる。
起きて。お願い、目を覚まして――。
こぽりと水泡が浮かんだ。
小さな亀が首をもたげてこちらを見ている。
いまだ視界は滲んでいるけど目が合った。だって、「ちとせさん」と囁く声が聞こえたから。
私は言葉にならず、その場にうずくまった。




