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あやかし家政夫  作者: 琴花
第五章
33/49

夕暮れの雪

 私は隣を歩く小町先輩の顔を窺った。

 いつもなら視線にすぐ気が付くのに、珍しくぼんやりと虚空を見つめている。その姿は数分前の私と同じだったけど、そんなこと知る由もない。

 夕暮れに染まる横顔は相変わらず美しい。嫉妬など通り越して観賞用として見つめるのにちょうどいい。

 私は顔を前に向けた。

 特に会話もなくのんびりと帰宅するのもたまにはいい。

 聞こえるのは落ち葉を踏みしめるふたつの足音。銀杏並木から黄色い落ち葉がはらはらと舞い落ち、僅かな風でそれらが触れ合い、転がる。

 静かな時間は唐突に終わりをつげた。






 白いものが舞った。

 桜の花びらのような紙吹雪のような真白い小さなもの。

 それが雪だと認識したとたん、背筋に冷たいものが走った。


 ――これはただの雪じゃない。


 紅葉真っ盛りのこの時季にはまだ早い。

 証拠に空は変わらず茜色で、雪を降らす灰色の雲は見当たらない。


 視線を感じると、一本の銀杏の木のそばにひとがいた。

 現代日本には珍しい和装の男性だ。

 和傘をさしてこちらに歩いてくる。

 すれ違う瞬間、傘がずれて男性の顔が明らかになった。


 私は目を見開いた。

 白い髪に赤い瞳。

 純白ともいえる絹糸のような髪は、染めた色でも、まして老化による白髪でもなく、瞳はガラス越しに透けた血の色のよう。

 脳裏に浮かんだのはアルビノという言葉。メラニンの欠乏である先天性白皮症だ。 

 しかし、大衆に知られつつある遺伝子疾患の人物であるとすんなり納得するには、第六感ともいうべき背筋の冷たさが邪魔をした。

 年のころは二十歳をいくつか過ぎたくらいだろうか。水色の紬に紺の羽織姿の白髪の青年は、私の斜め前で止まると、ゆるく笑った。


「こんにちは。よい天気だな」

 

 茜色の空に雪という摩訶不思議な気象のなか、伸びのある美声が響いた。

 赤い瞳は私を見て、薄いくちびるは私に語り掛けている。そう認識しただけで、こころまで揺り動かそれそうだ。

 返事どころか、瞬きもできない私を一瞥すると、青年は微笑を崩さず一言。


「亀の君にはよろしく伝えておいてくれ。ついでに、隣にいるなりそこないにも」

「――え?」


 思わず口を開くも、桜吹雪のように雪が舞い、目を閉じた。

 そして、再び目を開いたとき青年の姿はなく、いつもの帰り道の景色があった。

 私は何度も瞬きをした。


 ――なんだったのだろう。


 白昼夢を見たわけではない。あれほど強烈な夢など、凡庸を自負する私には思いも浮かばない。

 舞台にでも立てそうな見栄えの良さと美声。それだけではない。

 望月姉弟に勝るとも劣らない華やかさ、そして、あやかしの片鱗を見せた時の万十郎にも似たなまめかしさ。

 冷風に晒されたように顔や手が冷たく、別の意味でも背筋を冷たい汗が滑り落ちた。




「ちとせっ」


 名を呼ばれ我に返ると、私を見る小町先輩の真剣な表情があった。


「大丈夫? 今、気配が」

「気配?」

 

 和服の青年のことだろうか。

 彼ならば、気配どころか、先ほどまですぐそばにいたのに、小町先輩は警戒するように周囲を視線を向けている。

 そういえば、青年と対峙していたとき、先輩はとなりにいただろうか。

 常識で考えるといたはずだ。ほんの数秒、瞬間的に姿が消え去るなとありえない。

 けれど、社交性がありながらも警戒心の強い先輩が、突然現れた青年に用心しながらも声をかけないとは考えられない。


 それに、青年が言った言葉。

 彼は、隣にいるなりそこないによろしくといった。

 状況を考えると小町先輩をさすのだろうけど、何のなりそこないなのか分からないし、彼女には一番ふさわしくない言葉だ。

 そして、亀の君――。


 私は無意識に左手の甲を撫でた。 

 雪の舞う夕焼け空の中でうっすら笑う白髪の青年の姿を思い出し、私は身震いした。


 再び固まった私に眉を寄せた先輩を見て、私はどうこたえるべきか迷った。

 けれど、不意のざわめきがそれをかき消した。

 帰宅する人や往来する車といった生活感のあるそれではない。

 日常の中の非日常のざわめき。

 それは――。

 突如として沸き上がった不穏な予感に、私は思わず駆けだした。


「ちとせ?」


 突然走り出した私に、小町先輩の戸惑いの声がする。

 救急車という声が聞こえ、私は一瞬立ち止まった。

 その瞬間、表情をこわばらせた先輩が隣に並び、そのまま追い越していった。

 我に返り、先輩に追いついたのはすぐのこと。彼女は人込みの真ん中にいた。

 交通量は多くないが、道路の真ん中で座り込んでいる、そのわけはすぐに理解した。


「志津子さん!」


 老婦人が倒れていた。

 その隣で、小町先輩が初めて見る真剣な表情で志津子さんの首筋に手を当てている。大丈夫ですかと声をかけるも、夕焼けに照らされた横顔は苦悶の表情で、浅く荒い息を繰り返すだけだ。

 反対側には孫娘のあやちゃんがいた。

 声もなく立ち尽くす様子に、私は思わず小さな彼女を抱きしめ、そのまま一緒にずるずると座り込む。


「救急車は?」

「さっき呼んだ」


 小町先輩と周囲のひとの声がきこえる。

 

「ちとせ。彼女と知り合いなの?」

「あ……」


 名を呼ばれ、質問された。

 なのに、思考が停止して、喘ぎ声しかでない。

 視線は、意識のない志津子さんに釘付けだ。

 腕の中の、感情が失われたかのように目を見開く少女。

 倒れた老婦人。

 祖母と孫娘。


「おばあちゃん……」


 腕の中で囁くような声が現在と過去を交差させる。

 そう。あのみかんの木のなる故郷の島で、おばあちゃんは――。


「ちとせ!」


 叫び声がして、顔をあげると、志津子さんの側にいる先輩がこちらを向いていた。

 いつもの陽気な姿など嘘のように、眉を吊り上げた険しい表情をして、小町先輩は言った。


「なにぼうっとしてるの。しっかりしなさい」

「あ……」


 凛とした声に促されるように、ゆっくりと思考が戻る。

 私はぼつりと呟く。


「名前……岸田志津子さん」


 そう、おばあちゃんじゃない。

 

「最近知り合った方で、この子が彼女の孫娘です」


 そう、私じゃない。

 救急車のサイレンの音が聞こえた。






 望月大学病院の総合受付のソファに私はひとり座っていた。

 日中は外来で賑わっただろうこの場所も、診察時間の終えた今は静まり返っている。


 あれから、私は小町先輩とあやちゃんともに救急車に乗って、歩いてきたばかりの道を引き返すように大学病院に向かった。

 けたたましくサイレンを鳴らしながら救急車は救急入口に滑り込むように入り、私は意識の戻らないまま扉の奥に消えていく志津子さんを見送った。

 小町先輩は出迎えた看護師と真剣に話し合いながらどこかに行って、私は、私の服を握り締めて放さないあやちゃんと近くの椅子に座って半ば呆然としていた。


 やがて、連絡がいった家族から迎えが来た。

 黙り込んだままぴくりとも動かなかったあやちゃんは、やってきた女性の姿をとらえると、張り詰めていたものが切れたように泣き出し、「ママ」と彼女に縋りついた。

 あやちゃんの母親は感極まった様子で小さな身体を抱きしめ返し、何度も我が子の頭を撫でていた。


 そうして、再会した母子が挨拶もそこそこ帰路につき、私はぼんやりとしていた。

 意識が混沌としてままならない。まざまざと蘇る倒れた志津子さんと立ち尽くすあやちゃん。二人が私と祖母に重なる。

 両手を組み、額に当てる。静寂のなか、時計の音が響く。


「ちとせ」

 

 いつの間にいたのか、小町先輩が静かな声で私を呼んだ。

 隣に座ることなく、目の前に立つ先輩の表情は感情を消し去ったようで、声音と同じく温度を感じさせない。


「あなた、本当に医者になるつもりなの?」


 私は目を見開いた。

 突然の言葉に返答できず口を半開きにした私に、小町先輩は普段の明るい印象をかき消してひとつ息をつき、重々しく呟いた。


「子供と一緒に震えているようでは無理ね」


 静かな、けれど突き刺さるような一言に、私は返す言葉もない。


「今日はもう帰りなさい」

「けど」

「あなたがここにいてもなにもならないし、家で待ってるひともいるでしょう」

 

 至極正論を述べられ、私ははっとした。

 今のいままで万十郎のことなど忘れていた。

 壁にかけられた時計を見ると、もう深夜と呼べる時間だ。

 連絡ひとつよこさず放置して、さぞかし心配しているだろう。

 私は一呼吸おいて顔をあげた。


「帰ります。あの、志津子さんの容態は――」

「処置が早かったから一命は取り留めたそうよ。肺炎ですって」


 肺炎。

 こちらを見る先輩の目が訝し気に細められる。

 私は首を振った。


「そうですか。……よかった」


 胸のうちのわだかまりを吐き出せないかわりに、大きく息をつく。

 なんにせよ、助かったのだ。良かった。

 小町先輩はなにやら複雑な表情で私を見るも、顔をそむける。


「迎えは頼んだから。気を付けて帰りなさい」


 これまたいつの間にいたのか、闇の中から現れるように小町先輩の後方から空也先輩が姿を現した。

 そのまま一瞥もせず、小町先輩は奥に消えていった。

 

「あの」

「――ん」


 わざわざ迎えに来てくれたのか。

 確かに夜も遅いけど、大学の裏手にある病院だ。

 アパートまでの距離は遠くない。一人で帰れたのに。

 申し訳なさに委縮して謝るも、首を振られた。

 こちらは変わらず無表情で、けれど瞳にはどこか思案の色を感じさせながら一言。

 

「帰るぞ」

「……はい」


 私は、ソファから腰を上げた。






 外は真っ暗だった。星月もなく、頼りない外灯の明かりのみが周囲をぼんやり照らしている。

 虫も鳥の声も聞こえない静まり返ったなか、私は空也先輩とふたり帰路についた。


「市河には事情を告げて帰りが遅くなると伝えた」 

「そうですか。ありがとうございます」


 それから、沈黙が続いた。

 もともと極端なくらい口数の少ない先輩だ。なんらおかしなことはないが、それでもいつもは感じられた緩やかな空気が、今回はどこか緊張をはらんでいた。

 すでに小町先輩から伝え聞いているだろう。頼りない後輩に怒っているのか。

 思うといたたまれない気持ちになる。


「すいません」

「ん?」

「えっと、迎えに来ていただいて」


 言いたいことはそれではないのに、いや、それもあるけど、本音のところを話せない。

 俯く私に、「ん」と頷く気配がした。

 それからしばらく二対の歩く音だけが聞こえた。

 数時間前は騒然とした現場も、今は静まり返っている。

 通りかかるとき、空也先輩は立ち止まりぽつりと呟いた。


「あちら側の気配」

「え……?」

「誰かと会った?」


 私はゆっくりと目を見開いた。

 白髪の和服の青年。夢のような状態で、けれど確かに現実に遭遇したひと。

 あれからの騒動で、誰にも言っていない。小町先輩にも。

 けれど、今言われた言葉は、疑問形だけど確信を持っていた。

 私の反応に、空也先輩は息をついた。


「そうか」

 

 重々しく、吐き出すような声音だった。


「何か、知ってるんですか?」


 問いかけるも、難しい顔をして黙り込み、結局一言も話さないまま帰宅した。


 


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