迫る凶器
隣で成り行きを見守っていた万十郎の突然の言葉に私は呆然とした。
私にしか聞こえていないであろう内緒話のような囁き声は、目の前の煩わしい羽虫を追い払いましょうか――その程度の軽さだった。
「だめよ。何を言っているの」
小声でたしなめるも、なぜという顔をされた。
「あの男はちとせさんにとって害悪です」
「そこまで!? けど、だからって――」
「僕の一番はちとせさんです」
「な――」
告白まがいのことを言われ思わず赤面するも、そこに甘い雰囲気はなく、すぐ我に返った。
そして、金色に染まりつつある瞳で古瀬を見る万十郎に、私はとっさに叫んだ。
「だめっ」
その場にいた人たちの視線を集めた。
小町先輩と対峙した古瀬が私を見て嘲笑った。
「なんだ。やっぱりお前、望月小町の知り合いじゃねえか」
私は唇を噛みしめると、彼を万十郎から隠すように前に出た。
「今の言葉、取り消して」
古瀬に言う。内心では万十郎にも。
「先輩は人間よ。感情のある一人のひと。それはあなたも同じでしょう」
そう。どれだけ性格が歪んでいようが、彼も人の子だ。叩き潰してよい羽虫ではない。
「安アパートの一庶民が偉そうな口を聞きやがって。こんなやつに庇われるなんて、望月も落ちぶれたもんだな」
「その一庶民もあなたも同じ人間。小町先輩もね。生まれが選べないところも一緒。だけど、その先は違うわ」
「は?」
私は一度口をつぐんだ。
古瀬は大手企業の重役の息子だったが、親の失職で退学。
小町先輩は病院と大学を経営する名家の令嬢。
落差は激しい。
――だけど。
「私は小町先輩が望月家であってもそうでなくても好きよ。例え、なんらかの理由で家柄を失うことになっても尊敬する思いは変わらない。けど、あなたは?」
「なんだと?」
「その態度、自暴自棄になってるの? それとも、元から? そんな誰かを貶すような態度だから、人が離れていったんじゃないの」
親の社会的価値が失われて、子供の未来に暗雲が立ち込めても、本人の内面に惹かれたら離れたりはしない。
それは理想論かもしれない。
半ば理性を失った酔っ払いに言っても効かないだろうけど、言わずにはいられなかった。
場がしんと静まり返る。
しかし、次の瞬間。
「この女、言わせておけば――っ」
赤く染まった顔で咆哮のように叫ぶと、古瀬が私に向かって突進してきた。
その手元には鈍く光る鉄色の物体。
それが何か理解して――。
「ちとせっ」
柔らかい感触が私を包んだ。
小町先輩が私を庇うように、背に華奢な腕を回した。
「小町先輩っ!?」
悲鳴をあげると同時に目の前に広い背中が現れた。
古瀬の叫び声と同時に、カランと乾いた音する。
遠くざわざわと声がこだまする。
「――ちとせ」
「ちとせさん」
小町先輩と万十郎の声に我に返った。
二人とも心配そうな顔で私をのぞき込んでいる。
その向こう側では、空也先輩が古瀬の顔面を片手で鷲掴みしていた。もう片方の手で手首を叩き、凶器を道端に転がしたようだ。
私はうるさいくらいに高鳴る心臓を持て余しながら浅く早く息をつく。
身体の震えがとまらない。
「ちとせ、大丈夫?」
そっと身体を放して私を窺う先輩に私は声を荒げた。
「大丈夫、じゃないですよっ」
そのまま、小町先輩をまきこんでずるずるとへたり込む。
「なにをしてるんですか。そりゃ、売り言葉に買い言葉をしてしまった私が悪いんですが、だからって刃物の前に飛び出すなんて――」
「勝手に身体が動いちゃったのよ。それに、弟を信じてるから。ちとせこそ、無事? なんともない?」
「はい……。小町先輩は……?」
「おかげさまで気力体力充実よ」
「そうですか……」
呼吸を整え、もう一対の瞳を見る。
「万十郎もありがとう」
小町先輩に抱きしめられた先に見えた背中。
彼も身を呈して守ろうとしてくれた。
――そういえば、以前もあった気がする。
記憶を探っていると、万十郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「僕はちとせさんの家政夫ですから」
それ、家政夫の域を逸していると思う……。
遠い目をする私と対象に、小町先輩は「さてと」と言って立ち上がると、空也先輩が拘束している古瀬に向かうと極上の笑みを浮かべた。
「銃刀法違反に殺人未遂、警察署に行きましょうか」
「望月さんに、百長さん、市河君もみんな大丈夫かい?」
青ざめた表情で駆け込んできたのは大家の松木さんだ。
周囲はちょっとした騒ぎになっており、遠巻きに見る人だかりから這い出るようにやってきた。
私たちが無事であることを確認すると、深く安堵の息をついた。
「よかった。けど、いったい何があったんだい」
「今日一日騒がせた人物と相対しました」
小町先輩が簡潔すぎる言葉で語った。
事情を知らなければなんのことかさっぱりだろう。
だけど、松木さんは感づいた様子で、空也先輩の近くで項垂れた人物を見る。
古瀬は戦意喪失したようで目が虚ろだ。
酔いはさめたのか血色は悪く、空也先輩に鷲掴みされた跡だけが赤く残っている。
「――あんたは」
目を見開き呟いた松木さんの行動は素早かった。
野次馬を散らして警察署に連絡し、エプロンからハンドタオルを取り出し凶器を包む。タクシーも呼び、あっという間に、その場に居合わせた私たちを警察署に連れて行くよう段取りを立てた。
ただ、万十郎は残ってもらった。
元学友であり事情も知っている望月姉弟と、今朝と今も巻き込まれた私は仕方ないにしても、今回騒動に立ち会っただけの万十郎は行く必要はないと説得した。
迷惑をかけたくないのもあるけど、先ほどの不穏な言葉と金色の瞳を思い返すと、取り返しのつかないことが起こる可能性がどうしても捨てきれなかった。
多少渋られたが、どうにか納得してもらい万十郎には留守をお願いした。
静かに事の成り行きを見守っていた万十郎は、少し不安げな顔をしたが、「帰ったら夕飯にしましょう」と見送ってくれた。
そうして、やがてやってきたパトカーに古瀬をタクシーに望月姉弟と私、大家さんを乗せて警察署に行き、長時間の取り調べを受け、帰宅したのは深夜とも呼べる時間だった。
「疲れた……」
今日何度目か分からない呟き。見慣れたまつたけ荘を見て、やっと帰ってこられたと実感した。
人生で縁がないに越したことはない警察署。入り口は役所とそう変わらないが、奥に入るにつれ雰囲気が硬質さを帯び、狭い部屋で婦人警官に事情聴取された。居心地の悪さいったらなく、正直、二度目はごめんだ。
聴取は一人ずつ個別に受けたため、解放されるまで時間がかかった。
それでも、日付が変わる前に帰宅できたのは、未成年者を長時間拘束することを抗議した大家さんと望月という家名が効いたからだろう。
――遅くなってしまったな。
ひとりぽつんと待たせたあやかしの青年を思う。
巻き込んだ末、自宅待機をさせてしまった。
私の都合で振り回してしまったのに、こうして夜の闇に部屋から明かりが漏れ出ているのを見るとどこかほっとする。
いつでも島に帰っていいと言ったのに、こうして待っていてくれる。
――なら、言い訳なんてできないか。
ちゃんと今日起こったことを話そう。
「――ただいま」
「おかえりなさい」
当たり前のように返ってくる返事に私は曖昧に笑った。
「ごめんね。遅くなって」
「いえ。お疲れ様です。まずは手洗いうがいですよ」
「わかってる」
相変わらずのお母さんっぷりに思わず苦笑すると、万十郎は「あっ」と何かを思い出したように呟いた。
「どうしたの?」
「間違いました。えっと――」
そして、小首をかしげて茶目っ気な笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。ご飯にします? お風呂にします? それとも僕?」
奇妙な間があいた。
万十郎の表情が笑みから戸惑いに移る。
「あれ? 違いました? ああ、三つ指をつくんでしたっけ」
「いや、そういうのいらないから」
お母さんっぷりが嫁っぷりに変化している。
即座に否定するも、あやかしの青年は若干不満そうに眉をよせた。
「そうですか?」
「普通でいいから。というより、誰の入れ知恵よ」
「望月さんが教えてくれました。遅くに帰宅した主にはこのように出迎えるのだと」
「ですよねー」
こんなからかいのネタを仕込むのは彼女しか思い浮かばない。
今日のしおらしい小町先輩ではなく、昨日以前の小町先輩だろうけど。
「……とりあえず、ご飯で」
さっきまで感じたくよくよした気分はいつの間にか消え去った。
夕食は親子丼と白菜の浅漬けにお吸い物。丼といっても、遅い時間なのでご飯の量は少なめだ。つゆは多めなのでさらさらと食べられる。味も好みのやや甘じょっばい薄口だ。浅漬けは白菜のシャキシャキ感がと酸味が口直しにちょうどよく、お吸い物の三つ葉が爽やかな風味を感じさせる。
「相変わらず美味しい」
「良かったです」
そういう万十郎は実家から宅配された水がコップに一杯だけ。
「万十郎は食べないの?」
「僕は今日はこれで」
「そう」
栄養にならない人間の食事を迫ったのは私だ。
たまには水だけで済ませたいのかもしれない。
食べ終えてやっと人心地ついた気がする。そのまま横になってくつろぎたい衝動に駆られるが、一口お茶を飲み、私は万十郎に向きあった。
「今日は色々とごめんね」
「――なんの謝罪ですか?」
少し間があいて問われた。
「えっと、一日訳も分からず迷惑かけたこと」
「別に迷惑とは思ってませんよ。今朝もちとせさんが普通に接しようとしたので、僕もそうしただけです」
「今朝って――」
古瀬に絡まれたのを知っていたのか。
茶色の瞳に感情はよみとれない。
「あやかしは気配に敏感なので、すぐ外で騒ぎが起これば容易に感づきます」
「そうなの?」
亀のあやかしである万十郎は頷いた。
「大家さんの声も聞こえたので、僕が立ち入る必要はないと思ったまでです」
「そっか……」
筒抜けだった。
あの場は大家さんが追い払ってくれたことだし、彼も酔いも醒めてもう来ないだろうと思った。だから、万十郎に言って余計な心配をかけることはないとも。
軽く見ていた。
古瀬は前科持ちだったのだ。




