事の顛末と震えるこころ
数時間前、警察署に向かうタクシーの車内。
助手席に大家さん、後部座席に左から私、小町先輩、空也先輩の順に座った。
タクシーが走り始めて間もなく、隣に座った小町先輩が言った。
「古瀬は前科持ちなの」
「前科持ちって……なにかあったんですか」
立ち入った質問だったかもしれない。
けれど、関わってしまったのだから聞かずにいられなかった。
前席の大家さんが心配そうにちらと振り向くが、もとより説明するつもりだったようで、小町先輩は小さく頷いて話し始めた。
「もともと、古瀬は親の後ろ盾を背に、結構幅をきかせていてね。いわゆるイエスマンしか側に置かない、ちょっとした暴君だったの。けど、一昨年、古瀬の父親が失職してからは、名ばかりの学友は去り、品位のない噂話や視線に晒された」
元来人は噂好きで、その相手が身近にいる人物なら輪をかけて話のネタとする。
そんな人たちとって、古瀬の父親の失職は恰好の材料だったろう。
酔ってたからガラが悪いと思ったんだけど、元から素行不良だったのも拍車がかかったかもしれない。
「それで自暴自棄になったのだと思う。未成年なのにお酒を飲んで酔っ払った状態で登校したあげく、一時間目の講義が始まる寸前……飲酒を非難した女子学生に手をあげたの」
小町先輩は一度口を閉じた。
周囲に重苦しい沈黙が包む。
「……幸い、その子は軽傷ですんだけど、騒ぎが拡大して、乱闘騒ぎの末警察に御用。古瀬は退学処分になったわ」
私は言葉を失った。
父親の失職で居づらくなり自主退学したのかと思ったけど、事件をおこして末の強制退学だったとは。
「判決は執行猶予付きの懲役刑。だけど、執行猶予期間中にまた事件をおこしてしまった。それも殺人未遂……今度は実刑判決でしょうね」
小町先輩は話し終えると、疲れたようにシートにもたれかかった。
しばらく誰も話さなかった。
古瀬が再びパトカーに乗るはめになったのは私のせいだとは言わない。ナイフを向けられた恐怖は身体が覚えており、そう簡単に消せたりはしない。
だけど、後味の悪さが残る。そして、違和感も。
「それで……」
私は呟いた。
「被害者の女子学生はまつたけ荘に下宿するようになったんですか」
小町先輩は目を見開いた。
そしてゆっくり私を見る。
「……どういうことかしら」
どこか威圧感のある表情で問うた。
普段私に見せない望月としての顔だ。
「今朝、古瀬が小町先輩を捜したこと、先ほど彼と訳知り顔で話したことから、二人は以前からの知り合いだったと考えられます。彼が大手製薬会社の重役の息子で同じ大学の学生なら、お家つながりのいわゆる学友だったのではないでしょうか」
「えうね。それで?」
「古瀬が一昨年起こしたという事件、今の先輩の説明はその場で見ていたように具体的でした」
「実際に見たもの」
「なら、女子学生が手をあげられるところを、先輩が指をくわえてみていたとは考えられません」
「止めようにも間に合わなかったと考えられない?」
「講義が始まる寸前なら、周囲に人はいたはずです。それこそ、古賀が突発的に起こした行動でも、先輩が一言声をあげれば、望月家とお近づきになりたい学友の皆様が助けに入ったはずです。もちろん、一般の学生が止めに入った可能性もありますが」
「まあ、なくはないわね」
「仮に怪我を負わされた女子学生が別の人物であったなら、そのひとは今どうしているのでしょう。力で敵うはずもない成人近い男性に手をあげられたら、たとえ軽傷ですんでも、トラウマになっても不思議ではありません」
今も脳裏に浮かぶ刃物を持って向かってくる姿。
たとえ凶器をもってなくても、か弱い女性が暴力を受けたなら心に傷を負うのは想像に難くない。
「……それで、あなたは私になにが言いたいのかしら」
眉一つ動かさず、孤高の華が私に問う。
私は唇を湿らせた。
「女子学生が手をあげられたのは事実だと思います。けれど怪我をしたのは小町先輩です」
「私、普通の男性よりよほど腕がたつと思うけれど?」
「そうですね。けれど、とっさの判断では、攻撃する相手を止めるのではなく、攻撃されるひとを庇ってしまうのではないですか。……先ほどもそうでした」
小町先輩の無表情が僅かに揺らいだ。
「一昨年も、暴力を受けそうになった女子学生をまもるように、小町先輩が間にはいって代わりに傷を負った。もちろん周囲は騒然とするでしょう。結果的に、望月さんが暴力を受けたのだから」
大学を運営する一族の娘がいわれのない暴力を受けた。
それも、相手は先日失職した男の息子。
ただでさえ誹謗中傷の的となっていたのだ。周囲はここぞとばかりに糾弾したに違いない。
親の失職が古瀬自身のせいではないのなら、余計に頭に血がのぼったに違いない。結果、彼は警察を呼ぶほどの乱闘騒ぎを起こし、退学処分をうけた。
「すべて仮説です。けど、刃物を持って私に向かってきた古瀬を庇ってくれたとき、先輩は相手に背中を見せて完全に無防備でした。いざという時は攻撃するのではなく守る優しい女性です。そして自ら傷つこうとも誰かを庇う強いひとです。そんな先輩が……何より望月の名を重荷に思っていても、校内では悠然と振る舞う先輩が、何事もなければ、一般の人が下宿するようなアパート暮らしを望んでするとは思えません。先輩なら嫌だと思いながらも身の丈に合った場所で暮らし、どこまでも望月であることを意識しそうです。だから、まつたけ荘にいる時点で違和感を覚えました」
一息に話し終え、私は僅かに切れた息を整えた。
返事はない。ただ、弟に似た綺麗な黒い瞳が私を見る。
彼女の隣のもう一対の瞳もそっとこちらを窺い見る。
「……間違ってたらすいません」
「いいえ。その通りよ」
小町先輩は大きく息をつき、シートにもたれかかった。
「よく分かったわね」
「すいません。知った風な口をきいてしまって」
「謝る必要はないわ。事実だもの。……けど、買い被りすぎよ」
「そんなことは――」
「あの子も退学したの」
小町先輩は自嘲気味に笑った。
「私が庇った女子学生。小さな個人病院の娘なんだけど、望月とつながりを持てると夢見た病院長の親に追い立てられ、周囲からは私に庇われた幸運の持ち主ともてはやされ、嫉妬され、結局圧力に耐えきれず去っていった。外傷はなくても、こころに傷を負った」
「そんな……」
「そして、私はそんな格差に嫌気がさして逃げ出したの。弟ひとり囮のようにマンションに残してね。……私は弱いの。とても弱い生き物なのよ」
笑っているが泣いているように見えた。
どんな慰めも受け入れないと強張った横顔が語っていた。
「……もういい」
沈黙を破ったのは空也先輩だった。
ぽんと優しく姉の頭を撫でる。
「空也」
「もういい。……もういいから」
ぽんぽんと優しく、赤子をあやすような仕草で彼女の頭を撫でた。
それから、誰もが口を閉ざし、タクシーは静かに警察署に向かった。
☆ ☆ ☆
すっかり冷めたお茶で唇を湿らせる。
小町先輩のプライベートにかかわるので詳細は伏せたが、古瀬は彼女と因縁があり、今回もそれに関連した事件だと端的に説明した。
話し終え一息ついた私は、そっと万十郎を窺う。
私に向いた瞳は静かに凪いで、感情が読めない。
それが僅かに動揺をもたらす。
私は言葉少なめに謝罪した。
「ここまで大事になるとは思わなかった。万十郎を一方的に巻き込んでしまった。ごめん」
「それはちとせさんも同じでしょう。あなたもこのアパートに住み、望月さんと面識があるというだけで巻き込まれてしまった。おかげで規則正しい生活リズムが崩れてしまいました」
突っ込むところはそこなの……?
思わず、私は苦笑した。
「一日くらい平気だよ」
「まあ、明日は休日なので特別によしとします」
そして、労わりとともに告げられた。
「大変でしたね」
私は首を振った。
今思えば気付くことはあった。
小町先輩がまつたけ荘に下宿していることは伏せられているため、校内のひとが訪れることはない。
また、望月姓自体は決して珍しいものではないので、近隣住民の彼女に対する認識は「明るい美人さん」という程度だ。
そんな中、富裕層向けマンションに暮らしているはずの小町先輩を捜して、庶民向けアパートのまつたけ荘に下宿している私に古瀬が接触してきたことは不自然だ。
それに、今朝会った古瀬を追い払ってくれた時、大家さんはどこか浮かない顔だった。
――「面倒ごとにならないいいけど」と。確かそう言っていた。
大家である松木さんなら、小町先輩がまつたけ荘に下宿した経緯は知っているはず。だけど、私に話して余計な心配をかけることはせず、古瀬が現れたと内々に小町先輩に忠告した。
結果、小町先輩と一緒に登校することになり、衆目を集めたわけだけど。
とにかく、私が思慮が足りなかった。
「迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑などと思ってませんよ。ですが、ひとつ言わせていただければ、あなたは自分の価値を分かっていない」
「――自己評価の低さのこと?」
思い出すのは、事件が起こる寸前、アパートの前で語った言葉。
万十郎は頷いた。そして、茶色い瞳に感情の色が灯った。
非難の色だ。
「僕が来るまで、あなたは満足な食事や休息をとらず、無意識に自身を傷めつけていた。そして、それをどこか良しと思っていた」
「そんなこと――」
「ないと言い切れますか?」
言葉強く告げられ、否定しようした思いが尻すぼみになった。
確かに、私は医師になるという夢のためなら、多少の苦労は厭わなかった。
そうして、食事や睡眠を犠牲にして机にかじりつた。
結果、やつれた私を心配して、両親が得体のしれないあやかしを藁にも縋る思いで遣わしたのだ。
――それだけ努力しているのだと、どこか自己犠牲に酔っていた?
言葉を失う私に容赦のない声がかかる。
「向学心に優れている。素晴らしいことです。けれど、あなたの夢は、周囲に目を向けず、耳を貸さず、なせるものですか? 努力だけで、自分の力だけで達成できるものなのですか」
刃より鋭い言葉に表情が歪んだ。唇を噛みしめて俯く。
万十郎の顔が見られない。
そうではないと否定したい。
なに馬鹿なこと言ってるのと一蹴したい。
――できない。
言葉を失うほどの衝撃だった。
胸が痛くて仕方ない。
つまり、図星だということだ。
万十郎の吐く息が聞こえる。
「――すいません」
私は頭を振った。
謝るなら言わないで。――自覚させないで。
震える声で呟いた。
「ごめんね。……私は本当に子供だ」
「いいえ。僕も口が過ぎました。それだけ必死だということでしょう」
でも、と万十郎の声が続く。
頭をあげると、どこまでも真剣な瞳があった。
「あなたが誰かを気に掛けるように、あなたを心配するひとがいるということを、心に留めておいてください。怪我をされては気にするし、病気になられても、やはり心配です」
「うん」
私を抱きしめ庇った小町先輩。古瀬を押さえつけた空也先輩。
そして、私に背を向け凶刃の間に立った万十郎。
アパートに来た日も、突然鳴り響いた甲高い音に警戒し、私を背に庇った。
結局はやかんの沸騰する音だったけど、あの時の動作の速さは、そのあと過ごして分かったのんびりとした彼からは考えられない行動だった。
「あなたに刃物が迫った瞬間、僕は怖くてたまらなかった」
「――万十郎?」
私は目を見開いた。
万十郎が瞳を伏せる。握り締めた手は僅かに震えていた。
「心配してくれて、――護ってくれてありがとう」
私はそっと、彼の大きな手に自身の手のひらを重ねて言った。
僅かの間ののち、彼は大きな感情の籠った声で呟いた。
「――貴女が無事でよかった」




