昨日のそれから4 二人で囲むテーブル
時刻は朝の六時半を過ぎたころ。
「ちとせさんはいつもは何時に起きて登校ですか?」
「一時限目に講義があれば八時起床の八時半登校かな。二時限目からならもう少し遅いけど」
「なら、まだ早いですね。もう一度横になれば?」
「二度寝は無理」
むしろ、少し頭を冷やしたい。
その時、窓ガラス越しに鳥の声が聞こえた。
「……ちょっと歩いてこようかな」
「早朝散歩。健康的でいいですね」
「……いつもなら真っ先に机に向かうんだけどね。まあ、いいや。行ってきます」
「行ってらっしゃい。僕は朝食の支度をしていますね」
「うん。ありがと」
そして薄手のトレーナーとズボンというラフな部屋着にスニーカーを履いて外に出た。
「まぶしい……」
両手で額の上に廂を作る。朝の光って意外と強くて明るい。
けれど、それほど暑くないのは、やはり確実に季節が廻っているからか。
私は両手を下ろし、朝日を浴びながら特に目的地もなく歩いた。
割合人の姿が多い。犬の散歩をしている人やウォーキングをしている人、あくびをしながらポストから朝刊を取り出す人もいた。
普段出歩かない時間なので、見慣れた道でも新鮮に感じる。
やっぱり気分転換は大事だ。
私は進路を変えて、昨日立ち寄った公園に向かった。
たどり着くと、昨日座ったベンチに腰掛け、一息つく。
誰もいない朝の公園はしんと静かで、目を閉じると葉擦れと鳥の音が聞こえる。
――私、うまくやっていけるかな。
一見凡庸とした青年であるのに、時折見せるあやかしの顔はとてつもなく蠱惑的で、絡めとられそうで怖い。
彼は、私があやかしの面を怖がっているのを知っているので気遣ってくれるが、無意識に出される獣の瞳には、ただ、心を強く持つしか対処しようがない。
遠く車の音が聞こえ、現実に引き戻される。
私は目を開けるとうんと伸びをして立ち上がった。
そろそろ戻ろう。
そして、帰路についていると、洋館の塀の向こうから声がかかった。
「百長さん。おはよう」
朝から元気な声は大家の松木さんだ。
水やりをしていたのかじょうろを片手に私に手を振った。
「おはようございます」
「こんな時間に珍しいわね。散歩?」
「はい」
確かに、早朝ともいえる時間で挨拶をするのは初めてかもしれない。
「昨日はどうだった? よく眠れた?」
「まあ、ほどほどに」
「確かに、世話をしてくれるといっても、百長さんからすれば初対面に近いものね。落ち着かない気分も分かるわ。何かあったらちゃんと言うのよ」
「はい。ありがとうございます」
昨日の玄関先での騒動を思えば、下世話な話題に持ち込まない思慮はありがたい。
そういえば、と思い至った。
「二人暮らしになったのだから、家賃――」
「賃料は一部屋ごとだから、今まで通りでいいわ。もともと一人暮らし用のアパートだからね」
「そうですか」
仕送りで生活している貧乏学生なので、正直ありがたい。
「けど、他の下宿人のひとたちに迷惑になったりしないでしょうか」
「深夜早朝に騒いだりしなければ大丈夫でしょう。むしろ、面白がりそうな気がするわ」
「それは……」
それこそ初っ端から早朝に騒いでしまったけど。隣の部屋に聞こえてないと願いたい。
真っ先に浮かんだのは見た目と内面を裏切る隣人の先輩。彼女に問い詰められたらどう躱そうか。
頭の痛い事柄が増えたが、今から悩んでも仕方ない。
「まあ、臨機応変に……」
逃げの姿勢になった私に松木さんはからからと笑った。
「そうだ。昨日はお茶とケーキありがとうございました。美味しかったです」
「また食べにきてね。他の下宿人たちは甘いもの嫌いな子ばかりだから作り甲斐がないの」
「それは勿体ないですね」
本当に美味しいのに。
心の底からそう思い呟く私に、松木さんはふくよかな顔に笑みを浮かべた。
「好きで作ってるからいいんだけどね。良い素材を使ったら美味しくできるの。ハーブティーもハーブの品質はもちろん、お水でも味が全く違ったものになるのよ。ケーキもご飯代わりにはならなくても、食べるだけで幸せになれるんだから最高よね」
「ご飯代わりにはならなくても……」
松木さんの言葉を反芻する。
その時、登校中の小学生が通りかかった。
「松木のおばちゃん、おはようございますー」
「おはようー。車には気を付けていくのよ」
いつの間にか時間が経っていたみたいだ。私もそろそろ戻って支度しないと。
私は改めて深々と頭を下げた。
「私も、そろそろ戻ります」
「ああ。引き止めちゃってごめんね」
「いえ、こちらこそ、作業の手を止めてしまってすいません。では、お邪魔しました」
「行ってらっしゃい」
アパートの部屋に戻って玄関のドアを開けると炊き立てご飯の匂いがした。
正直な身体は空腹を知らせる。
「――ただいま」
「おかえりなさい」
たすき掛けして前掛けを締めた姿の万十郎が手を拭きながら出てきた。
当たり前のように声が返ってくることが不思議で、なんだか変な気分だ。
「いい匂い」
「まずは手洗いうがいですよ」
「分かってる」
簡単に済ませているうちに、テーブルに朝食の品が並べられた。
白いご飯に、ニラともやしのおかか和え、納豆とお味噌汁という、いかにも栄養がありそうな朝食だ。
見ただけで美味しそう。
なのに、万十郎は若干冴えない表情だ。
「主菜がなくてすいません。ちとせさんは今まであまり食べてなかったので、朝から肉や魚はどうかと思ってしまって」
「謝らないで。これだけあれば十分だよ」
「そう言ってくれるとありがたいです。熱いうちにどうぞ」
「うん。いただきます」
お味噌汁はやはり出汁がきいていて、味噌の風味も相まって思わずほっとする味。ニラの青味ともやしのシャキシャキとした歯ごたえがたまらないおかず。臭いさえ気にしないなら栄養満点の納豆。どれも白いご飯に合う。思わずほころんだ私の表情に万十郎は穏やかに笑んだ。
「口に合っているならよかったです。おかかは出汁で使ったかつお節を味付けしたんですよ。残り物も立派な食材です」
「そうなの? やっぱり万十郎は料理作るの上手だね」
偏見だけど、素人の作った料理はゴミが多く、上手なひとほど少なくなる気がする。
万十郎は照れたように笑った。
「ありがとうございます。やっぱり褒められると嬉しいです」
そういう彼の目の前にはコップ一杯の水だけ。
私はなんともいえない思い出それを見つめた。
口の中のものを咀嚼し終わって改めて聞いた。
「万十郎はほんとに水だけでいいの?」
「大丈夫ですよ。昨日も言ったように、人間の食べ物はあやかしには不要ですから」
「けど、嗜好品って言ってたよね。なら、食べることもできるんでしょ? 害があったりするの?」
「口にしても味覚を感知するくらいで、特に害も益もないです。何か気になることでも?」
「味が分かるなら、万十郎も食べてほしいなと」
彼は首を傾げた。
「なぜ?」
「私一人ご馳走を食べて、目の前で水だけ飲まれるのは、なんというか、虐げているように見えるから……」
「でも、そうじゃないのは分かってますよね」
「分かってる。けど、やっぱりいたたまれないというか。昨日スーパーに行った時たくさん買い物したよね。万十郎が料理上手なのは分かったけど、やっぱり使い切れない気もするし。でも、傷んでしまうのはもったいないし」
「ちとせさん?」
「だからといってカット野菜だと割高だし。例えばキャベツとかも四分の一より半玉のほうが使い切れるならお得だよね。そのぐらいなら、食費もそう変わらないだろうし。私が言えた義理じゃないけど、作るなら一人分も二人分も変わらないんじゃないかなと思うし」
ああ、私は何を言っているのだろう。
戸惑う万十郎の気配がまざまざと伝わってくる。
やっぱり納得してくれないか。
観念して、私は呟いた。
「……たとえ栄養がなくても、美味しいと感じられたら、それだけで十分じゃないかな」
「ちとせさん?」
ああ、もう。
私はやけっぱちになって叫んだ。
「一人で食べるより、二人で食べるほうが美味しいと思っただけ」
見開かれた瞳を見返すことができず、私はそっぽを向いた。
なんだか恥ずかしい。
やがて、彼が喜色をあらわす気配を感じた。
「僕の料理がご馳走に感じるてくれるんですか。嬉しいです」
「いや、そうじゃなくてっ。違う、そうだけど――」
「一緒に食べましょうか」
舌を噛みそうなほど慌てる私の声を、穏やかな声が遮った。
「確かに、嗜好品とは味わいを楽しむものですからね。一緒に楽しめたら嬉しさも倍増です」
彼の穏やかな笑みに、私は戸惑いながら頷くしかなかった。
万十郎を脱衣所に押し込めている間に手早く着替え、キッチンで洗い物をしている間にトートバッグに教材を詰め込み、注意されて歯磨きをして手櫛で髪を整えいざ登校というとき。
「はい。お弁当です」
保冷バッグを渡された。
そういえば、お弁当も作るとか言っていたけど、本当の話だったのか。彼が嘘をつく存在には見えないけど、いざ、渡されると微妙な気持ちになる。それに、いつの間に作ったのだろう。私が散歩に行っていたときか。
「……ありがと。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関先で弁当を受け取り見送られる。なんだ、この新婚夫婦みたいなやり取りは。
夫役の私は口元に笑みを張りつけて逃げるように外に出た。今、振り向く勇気はない。
そうして、数歩歩いて、いつもはチェックする戸締りをまったくしていなかったことに気付いた。
玄関も開けっ放しで、防犯もなにもあったものじゃない。
ため息一つ。肩の力を抜くと、なんだかおかしくなった。
昨日初めて会ったばかりの存在がひとり、私の部屋にいるのだ。私の、完全なるプライベート空間に。
なのに、まあいいかという気になっている。
私は少し笑った。眦を下げて自嘲交じりの小さな笑みだ。けれど、心はほんのり温かい。なんとも複雑な気持ちだ。
好きに帰って良いと言った。島に戻るのは彼の自由意志だ。
けど、当たり前のように側にいようとする彼に、与えてくれた思いが次をと、わがままな私は少しだけ期待してしまう。
帰宅したら、また穏やかな声で出迎えてくれるのだろうか。
また、美味しい料理を作ってくれるだろうか。
――優しい声で名前を呼んでくれるだろうか。
長く続く関係ではないと分かっている。
けれど、ちょっとした刺激もたまにはいい。そんな気持ちなんて二四時間前の私にはなかった。
今からお弁当の中身が気になる。
人とあやかしという、いつ途切れるともしれぬあやふやな関係。
だけど。
私は薄桃色の弁当箱が入ったランチバッグを強く握りしめて、大学に向かって歩いた。
――まさか、数時間後に、隣人の先輩に盛大にからかわれる羽目になるとは思わなかったけど。




