昨日のそれから3 真夜中の出来事
いつもは少し休憩したら再開する勉強も、今回ばかりは再び机に向かう気力が失せてしまった。
言われた通り今日はもうお風呂に入ろうか。
そして、はたと気付いた。
「お風呂?」
「ああ、そうです。沸いてますよ。もしかして、いつもシャワーで済ませてるんですか? ちゃんと湯船につかったほうが疲れもとれますよ」
「確かに今日はゆっくりつかりたい気分……。いや、そうじゃなくて……」
――今晩、どうするの?
お風呂に着替えに寝床。
一人暮らし前提の部屋なので、もちろんベッドはひとつしかない。服も私のものだけ。
「万十郎は本当にここで寝泊まりするの?」
今更ながら焦ったように言う私に、万十郎は再度瞬いた。
「もちろんそのつもりですが、なにか不都合でも?」
「不都合っていうか、ここは一人部屋なんだよ。他にベッドもないし着替えもなにも用意してないよ」
「着替えを含め必要なものは荷物としてトランクケースに入れて持ってきたので。ベッドも必要ありません」
「じゃあ、どこで寝るの? 床はさすがに硬くて無理だよ」
だからといってシングルベッドを二人で利用なんて却下だ。
夜分遅いけど、やっぱり大家さんに相談したほうがよさそうだ。
携帯電話を取ろうと椅子から立ち上がとると、のんびりとした声がかかった。
「寝床は洗面器に水を張ってくれたら十分ですよ」
「……は?」
何を言っているのだ。洗面器? 言葉のとおり、顔を洗うための道具がなぜ寝床に――。
そこで、目の前の青年がどういった存在なのかに至った。
「寝るときは亀の姿なのね」
「そうです。だから、僕のことはお気になさらず、ちとせさんは自分のことだけを考えてくだされば結構です」
「はあ……」
そこまで断言されたら、私からどうこう言うことはない。
トランクを開ける万十郎を何とはなしに見て瞬く。
「洋服も入っているんだね。着物ばかりかと思った」
「あやかしは和服が基本ですが、現代日本は洋服が主流のようですから。郷に入っては郷に従え、ですよ」
「なら、どうして着物でうちに来たの?」
「きちんとしたお礼伺いをするには正装は当然でしょう」
確かに、アパートを訪れたときの格好は、和装といっても洒落た着流しではなく、質の良さげな羽織りを纏った格式高い服装に見えた。
「律儀だね……。確かに、外で着物姿は目立つから洋服にしてもらったほうがありがたいけど、うちの中では楽な格好でいいからね」
「ありがとうございます」
万十郎は柔らかく微笑んだ。
お礼を言われることでもない気がするけど。
相変わらず腰が低い。
「じゃあ、お風呂入ってくる。……わかってるだろうけど」
「はい?」
無言の圧力は首を傾げてかわされた。
言葉にしないといけないのか。
「この部屋にいること。あの扉――洗面所にも入るの禁止だからね」
「ああ」
彼は納得したように頷いた。
「もちろんですよ。そんな、大家さんが怒鳴り込んできそうなことはしません」
ありえそうで乾いた笑いを漏らすしかない。
「その間、台所用品の説明書を読んでいいですか? 僕が知っている人間の食事の調理法とはずいぶん違っているので」
「いいけど。台所用品って、包丁とか鍋は昔から変わらないよね。ここはIHじゃなく、ガスだし。何がどう違うの?」
「ご飯は薪で焚き、食材は木の容器に氷を入れて冷やしていました」
いつの時代だ。ガスコンロを知っているだけ大したものなのか。
「電化製品全般が未知の世界なのね。テレビ台の中に入っているから読んで」
「はい。では早速……」
いそいそと説明書を漁りだした万十郎だが、すぐに手が止まった。
「どうしたの?」
「埃が……」
「ああ……」
床は掃除機をかけているが、テレビ台の中までは見ていなかった。
「先に掃除を……駄目ですね。埃が舞ってしまう」
「とりあえず、掃除は明日にして説明書を読んでたら? 丁寧に扱ったらそんなに埃も舞わないでしょ」
「そうですね」
万十郎は一番上にある説明書を手に取り、ゆっくりとページをめくる。
これで、ゆっくりお風呂に入れそうだ。
「じゃあ、汗流してくる」
「はい。ごゆっくり。あ、入浴前は水分補給を忘れずに」
母親じみたありがたい忠告を受け入れたのち、洗面所兼脱衣所に入った。
服を脱いで洗濯機に放り込み、お風呂場へ。
かかり湯をして、湯船に身体を沈めると、ほうと息をつく。
湯温は四〇度に届くかどうかといったところか。
日中暑かったので、少しぬるいくらいが丁度いい。
そういえば、お湯の温度で効果は変わるという。
熱いお湯は交感神経が優位に働き身体が活動状態となり、逆にぬるいお湯は副交感神経を働かせリラックスさせる。前者は寝起きにスッキリ目覚める効果、後者は質の良い睡眠を得られるという。
まあ、万十郎がそこまで深く考えているとは思わないけど。
一息ついたところで一度湯船からあがり、全身を洗う。髪にコンディショナーを馴染ませている間に、下着を手洗いし、再び湯船につかる。今度は顎下まで。お風呂のなかでつく「ふぅ~」というため息は一番のリラックス効果がある気がする。
久々のお風呂を満喫しているうち、部屋にあやかしがいることをすっかり忘れた私はやはり警戒心が低い気がする。
コンディショナーを洗い流し、下着を流水で濯いで、お風呂から上がった。
洗濯機の横に置かれた収納ボックスからバスタオルを出して身体を拭き、パジャマを着る。夜はそこまで蒸し暑くないので汗もすぐひくだろう。盛夏だと、下着姿でタオルを首にかけた姿で部屋で涼んでいたので、少し季節が巡っていてよかった。
そして、髪を拭きながら若干赤ら顔で洗面所から出た。
「いいお湯でした」
「それは良かったです」
相変わらず説明書とにらめっこしていた万十郎は、私の声に顔をあげて微笑んだ。
「ちゃんと髪を乾かしてくださいね。入浴後の水分補給も忘れずに」
「分かってる」
甲斐甲斐しい。本当に、お母さんみたいだ。
説明書をしまうと、彼も立ち上がった。
「それじゃ、僕もお風呂をお借りします」
私は瞬いた。
「入るの? というより、入って大丈夫なの?」
「え? どういうことです?」
「いや、亀がお湯に入って平気なのかなと」
「人の姿では平気ですよ。綺麗好きなのは人もあやかしも一緒です」
「そっか。なら、いいんだけど……」
語尾が弱くなったのは、残り湯を使うとは思わなかったから。
垢とか髪の毛とか浮いてないだろうか。私しか使わないだろうと思い込み、かかり湯だけですませて浸かってしまった。
そうして私は、浴室に消えていったあやかし青年の後姿をなんとも言えない気持ちで見送った。
「……今のうちに下着干しとこう」
気分を切り替えて、ハンガーに洗濯バサミも使って下着を吊るす。カモフラージュに百均で買った目隠しカバーをかぶせてカーテンレールに引っ掛ける。これは一人暮らしのときからずっとしているので慣れたものだ。いつもはこの状態で外に干しているけど、もう夜中だし、室内干しになるが仕方ない。
しかし、明日の洗濯物は男物と女物両方があるなんて不思議な気分だ。
クローゼットには羽織りを吊るしたし、他の荷物も空きスペースに収納されるだろう。
本当に、誰かと泊まるなんて何年ぶりだろう。それも、異性と同じ部屋だなんて、幼馴染の陽太以来だ。
まあ、あれは、小学校低学年の子供同士だったから、異性と呼ぶのもどうかとも思うけど。
――彼も、世話焼きなお母さんみたいなあやかしだし、気にする必要ないか。
意外と長湯なあやかしは、私の目がとろんと落ちそうなときにさっぱりした顔をして出てきた。
「良いお湯でした。そして、掃除のしがいがある場所でした」
「……一応定期的に掃除してるんだけどね」
「タイルの隙間とか蛇口とか結構ありますよ」
「……任せる」
「はいっ」
料理上手で掃除好きとはまさに典型的なお嫁さんにしたい女性だろう。本当に性別を間違えている気がしてならない。
もう、下着もお任せにしていい気がしてきた。
投げやりな気分で思っているともう日付が変わりそうな時間だった。
いつもは、この時間まで勉強をしているのに、今はあくびが出る。
「ちとせさんはもうお休みください」
「万十郎は?」
「風呂場を換気したら、僕も休みます」
「本当に何から何まで、申し訳ない気がしてきた……」
「僕が好きでするのですから、ちとせさんは気に病む必要はありませんよ」
「そうかな……」
元々、世話好きなあやかしなのだろうか。
だとしたら、ここはありがたく厚意に感謝しておこう。
「ん。分かった。……ありがとう」
「どういたしまして。あ、寝る前の歯磨きを忘れずに」
「……わかってる」
やはり被保護者に対する扱いだ。
そして若干うとうとしつつ歯磨きをすませ、就寝となった。
なんだか狭くて苦しい。身体を動かそうとしても思うように動かない。まるで簀巻きにされているみたいだ。
ゆっくりと意識が浮上し、眉を寄せながら瞼を開ける。
「――え」
裸体の若い男が私を抱きしめていた。
「ん……」
小さく息を漏らすその男はもちろん万十郎だ。
なにがどうなって現状に至るのか。
身じろぎするも逆に拘束がきつくなる。
私は頭の中が真っ白になって呆然と彼の顔を見やる。
視線を感じたのか、やがて、ピクリと瞼が動いた。
ゆるゆると開く瞼の下から現れたのは金色の瞳。
夢うつつをさまよっているのか、どこかぼんやりした視線が私を映すと、ゆったりと微笑んだ。
「――人間の娘」
針のような瞳孔、金色に輝く獣の瞳が私を捕らえてゆっくりと細められる。
「ご馳走。――いただきます」
「……あ」
吐息が唇に触れる。
私は目を見開き、近づく顔を凝視した。
そして。
「――痛っ」
見事に頭突きが決まった。
「……あれ? ちとせさん?」
私は、茶色に戻った瞳に涙を浮かべて額を抑える万十郎にシーツに被せてベッドから追いやった。
「私は後ろ向いてるから、早く着替えてきて」
「……え? って、あれ。なんで?」
シーツの下の現状を知ったのか、万十郎は戸惑った声をあげた。
「いいから。早く!」
「はいっ」
シーツの擦れる音が聞こえ、脱衣所に向かったのだろう。ドアの開閉音がした。
部屋に人の気配がなくなり、私は深く息を吐いた。
なんだったのだろう。分かることはひとつだけ。
――人間の娘。ご馳走。
「怖かった……」
震える身体を抱きしめた。
「すいません……」
「完全なるセクハラね」
シーツを巻き付けた万十郎が脱衣所に行って戻ってくるまで、私は改めて身体の点検をした。寝る前と変わらないパジャマ姿で、乱れた様子もない。内心安堵の息を漏らして部屋着に着替え、浴衣姿で出てきた彼をテーブルの向かいに座らせた。
「確か、亀の姿で寝ると言ってたよね。服を着てなかったから、そうだったんだろうけど、なぜ人の姿でベッドにもぐりこんだの?」
「……なぜでしょう」
殴りたい。
時刻は午前六時。少し早い起床だが、目覚ましとしては十分すぎた。次はいらない。
唇を引き結ぶ私に、万十郎は首を傾げた。
「確かに、浴室で洗面器の中で眠ったはずなんですが……」
「そうよね。私も見たわ」
夜中に一度トイレで目が覚め、気になって覗いたのだ。
確かに、洗面器の中に亀がいた。
洗面所から漏れ出る灯りに気付いたのか、眠りを妨げられたようで、亀は少しだけ目を開いた。
『――ちとせさん?』
「あ、ごめん。トイレに起きただけだから。まだ真夜中だから寝てて」
そう言って、慌てて電気を消しベッドに戻った。
すぐに睡魔は訪れて、意識は遠ざかり……そして。
「なぜか人の姿で人のベッドにもぐりこんでいたと」
「みたいですね」
「他人事じゃない!」
「ですよね。すいません」
戸惑う彼を許すことはできない。こればかりはきちんと事情が説明されなければ納得できないし、もしかしたら次があるかもしれない。
至近距離で見た金色の瞳を思い出すと、今も背筋が震える。
「ちとせさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないから、こうして理由を聞いているの」
「ですよね。うぅん。……一度寝ている僕を見に来ました?」
「うん。……それが何か?」
「確証はないですが、それで寝ぼけてちとせさんのほうに向かったとか」
「寝ぼけるにもほどがあるっ!」
私は思わず叫ぶとテーブルに突っ伏した。
上目づかいで万十郎を見ると、彼は困惑した様子で首を傾げていた。
ふいに、浴衣の襟元から覗く鎖骨に視線がいき、赤くなって目を逸らす。
――無心に、無心になれ!
あの時の彼の状況を思い起こす。
ご馳走。いただきますと言った。
もしかして――。
私は、そっと彼の顔を窺った。
「あなた、お腹すいてる?」
「え?」
本能で食事をしようとしたのかもしれない。
万十郎は瞳を瞬かせた。
「水さえあればいいと言ったはずですが」
「うん。けど、それだけじゃ、やっぱり足りないのかなと」
彼は思案するように遠くを見る。細めた瞳には金色の名残があった。
「満腹じゃないですが、どうしようもならないほど空腹でもありません。それは、別におかしなことではないでしょう?」
「うん。けど、目の前に好物があったら?」
「え?」
「それが食べたくならない?」
「なりませんよ。言ったでしょう。あやかしの食事は――」
「……そうだね」
けれど、理性と本能は時として違う。
目の前に好物があれば、満腹であっても食べたくなる。
人は好きな食べ物を見れば、胃が働いて、食べる分の空間を作り出す。いわゆる別腹の仕組みだ。
具体的な内容はともかく、好物があれば食べたくなるのは、人もあやかしも変わらないのかもしれない。
人間の娘がご馳走と言っていた。その真偽はともかく、寝ている彼には近づかないほうがいいのかもしれない。
「とりあえず、寝ぼけ癖がひどいので、寝ているときは近づないようにってことかな……」
「そうですね。施錠できればいいのですが……」
「学生の一人暮らしのアパートでそれを求めないでよ」
大学周辺の富裕層向けマンションなら当たり前に設置してそうだけど。
「それに、施錠できても内側からだから、それこそ寝ぼけて開けられたら意味ないし」
無意識でも身体は動くものだから。
だからといってベランダに放り出すことなんてできないし。
やっぱりあやかしと暮らすのは無理がある気がする。
思考が後ろ向きになっていると「そうだ」と声がした。
「灯りとちとせさんの気配で目が覚めたのなら、浴槽の中で蓋をして寝れば改善されるのではないですか。お風呂のお湯が温かいままのほうが汚れも落ちやすいし、浴槽だけでも掃除してしまいます」
「お風呂上りに掃除とか面倒じゃない?」
「入浴中にするんですよ。お風呂に入った時にささっと終わらせてしまえばいいんです。毎日していたら慣れますし、汚れはその場ですぐ落とすのが効率がいいんです」
「……万十郎がそれでいいのなら」
「はいっ」
掃除に関しては、やる気に満ち満ちている彼を止める理由もない。
まあ、妥協点かな……。
「では、今夜からは浴槽のなかで寝ます。真っ暗なのは好きなんですよ。ちとせさんも、夜中に目が覚めても様子を見に来たりしないでくださいね」
「うん。分かった」
トイレと浴室が別の造りで良かった。
とりあえず一件落着というところか。
私は大きく息をついた。
なんだか初っ端から疲れた。




