第二校舎での戦い
講堂の入り口に立っていた男二人を瞬殺(といっても本当に殺したわけではない)して戸外に出た蒼雲は、爆発のあった第二校舎に向けて走り出していた。戸外では第二校舎の爆発の方が大きな騒ぎになっていて、来場者が皆、グラウンドの方へと誘導されていたが、そのグラウンドにもバイクの集団が入り込んで来て大混乱を来していた。講堂に教師が来なかったのは、その多くが第二校舎の爆発とこのグラウンドでの騒ぎに集中させられていたからだ。これも、先ほど殴り込んで来たチンピラどもの作戦だろう。
(用意周到だな)
意外と考えられた計画的な犯行だということが分かって、蒼雲は妙に感心していた。とはいえ、展示の校舎の方で騒ぎを起こすのは既定路線だったとしても、この憑依現象は偶然の産物だろうと蒼雲は考えていた。
先ほど歴史文化研究部の展示を見ている間に、自分でも部屋の中に結界を準備して来ていた。印を結んで呪を唱えると、すぐにそれが発動する。下から見上げる第二校舎は、三階から二階にかけての窓ガラスが広い範囲で内側から弾け飛んでいる。
建物の入り口で、教師や生徒会の腕章をつけた生徒達が、生徒や客の避難誘導を行っていた。
走るスピードを落とすこと無く、蒼雲は意識のレベルを変成し潜在意識の扉を開く。体中の霊気を、己の魂の奥へと集中させる。
偏光眼鏡をかけているから傍目には分からないが、蒼雲の目が、より細い猫の眼になる。その眼に、蒼銀色の光が宿る。猫化の深度を高め、感覚を研ぎ澄ます。しかしながら、この作業に弊害が無いわけではない。猫が傍らにいない状態で強引に猫化の深度を深くするためには、神経により強い負荷をかけなくてはならない。通常の倍以上の痛みが、全身の神経を刺激する。
「ぐっっ」
蒼雲は、奥歯を噛み締めてその痛みに耐える。彼の周りから完全に色が消え、音の洪水が耳を、脳を、体を、魂を揺さぶる。周囲の霊的なものの動きが直接感覚として体に流れ込んでくる。痛みとともに襲ってくる情報量の多さに目眩がする。蒼雲はその目眩を、軽く頭を振って追い払った。
蒼雲の足が地面を蹴る。
屋外に設置されている水道上部のコンクリートに軽やかに飛び上がり、建物脇に生えている銀杏の幹を蹴る。
四メートルほどの高さをものともせずに、蒼雲の体は割れた二階の窓から第二校舎の教室に軽やかに飛び込んでいた。校舎から逃げ出す人々は反対側に開いた出口から走り出ていて、彼の姿を目に留めたものは一人もいない。
音も立てずに床に着地した。
眼鏡を外してジャケットのポケットに押し込む。
すぐに廊下に出る。教室の中だけでなく、廊下にも、割れたガラスや、展示品と思われる紙の破片などが散乱していた。ターゲットの位置は分かっていた。裕樹が憑けている式神が、その位置を知らせてくれる。人払いの結界のおかげで、しばらくは三階に人が上ってくることは無いだろう。二階に人の気配が無いことを確認して、階段を駆け上って三階に出る。
階段を上りきったところに、着物姿の女性が立っていた。薄色の表に萌黄を合わせた藤のかさねを纏った、目元涼やかな女性。
「那由他か」
猫風家の庭の藤の花の精霊だ。裕樹がその精霊を使役するようになる前から、蒼雲も何度か出会ったことはある。彼女は、蒼雲が来るのを待っていたようで、優雅な動作で丁寧に頭を下げる。腰まである長い髪が、彼女の動きに合わせてさらさらと背中を流れる。那由他は、瘴気が外へと漏れないように、建物を覆う結界を維持し続けていた。
三階は演舞を行う新体操部の他にも、金魚ガールズのようにコスプレをして売り子をしている女子生徒達が着替えに使っていた。猫化を深めて鋭敏になった耳に、息を潜めている女子生徒達の気配が伝わってくる。何らかの悪意を持って藁人形に触れて呪いの呪法の憑依を受けた男達が、数人の逃げ後れている女子生徒を奥の部屋へと追いつめているところだった。
『憑依しているのは奥の白い服の男ぞ』
那由他の白い指が、廊下の先を指差している。
廊下の中程で、一人の男が、一人の女子生徒を押さえ込んでいた。男の体の下から伸びている素足が、血で汚れている。おそらくは、床に散乱しているガラスで切ったのだろう。
演舞用のレオタード姿のままの、その女子生徒の横顔に見覚えがあった。
(瀧島美知香?)
先ほどまで一緒だった裕樹の幼馴染みだ。一番奥の教室の扉は堅く閉ざされている。他の生徒達が教室の扉を閉めて立てこもりを選択している中で、彼女だけは、廊下の中程に取り残されている。彼女の脇に、金魚のコスプレをした女子生徒が二人、抱き合うようにして倒れ込んでいるのが見える。怪我をしているわけではなさそうだが、恐怖のためか意識を失っているのだろう。そしておそらく彼女は、倒れている彼女達を置いて逃げることができずに、男達の前に取り残されてしまったに違いない。
現場を目にした蒼雲は、一瞬でそう状況を分析した。
彼女を床に押さえ付けている男の表情はこちらからは見えない。ただ、その体から、どす黒い怨念のような瘴気が漂い出ているのは視えている。藁人形の呪いを発動させたのはあの男だ。対象への恨みが、男を操る怨念となって渦巻いている。男の手が、美知香の着ている服に手をかけて破る。薄い一枚の布が無惨にも引きちぎられ、彼女の小麦色の肌が覗く。茫然自失状態の美知香が、それでも意識を保ったまま、男の顔を睨みつけているのはさすがだった。
ターゲットは全部で五人。揃いの特攻服に身を包んでいる男達は、剣道部を襲っている連中の仲間のようだ。先頭の男の後ろに控えている男達は、各々、手に木刀を握っている。あちらの連中の仲間なら、他にも暗器系の武器を身につけているはずだ。
蒼雲の動きは落ち着いていた。
印を結び、口の中で小さく呪を唱える。そして、組み合わせた両手を前へと突き出す。最後尾の二人の動きがピタリと止まる。
小刻みに痙攣するようにしながら、人形のような動きでこちらを振り返る。
死人と見紛うような青い顔をしていた。血の気の感じられない顔に、全く生気は感じられない。虚ろな視線。操り人形のようなカクカクした動きで、手に持つ木刀を振り上げる。直接憑依されているのは一人だけだが、後の四人も、強力な悪霊の影響下にある。
蒼雲は既に走り出していた。
走りながら別の呪を唱える。両掌を、立て続けに左右の操り人形の胸に叩き込む。掌から放たれた気が閃光を放って、軽くはない物質量を弾き飛ばす。霊気を叩き込んで悪霊の支配を遮断したため、文字通り糸の切れたマリオネットのように、左右の壁に叩き付けられた男達はぐったりと頭を垂れて沈黙した。
次の男が、蒼雲目がけて思い切り木刀を振り下ろした。五人の中で一番筋肉質の男だ。隆々と盛り上がった腕の筋肉が、服の上からも透けて見える。空気を裂く音がして、木刀が床に思い切り打ち付けられていた。しかし、蒼雲の体は既にそこにはない。男の背後に回り込んでいる。
そもそも今回ここに来たのは、学園祭を楽しむためだった。仕事の要素は全くなかったために大したものは持って来ていないが、それでも呪符を何枚か、ジャケットの内ポケットに入れて来ていた。
取り出して既に、指に挟んでいる。
捕縛符。
発動した捕縛符から、普通の人間の目に見えない鎖のようなものが放たれて木刀を振りかざした男を拘束する。木刀を振りかざしたままの男の腕ががっちりと拘束されその場に釘付けになっていた。蒼雲の指が、男の首筋に触れる。線香花火のような火花が散って、男はガクッと膝から床へと沈み込んだ。
蒼雲の無防備になった背中を目がけて、最重量級の男が襲いかかって来た。オレンジ色の髪をモヒカンに仕立てたその男は、筋肉の塊ではなく肉の塊。おそらくその大半は脂肪だろう。金属のナックルガードをこれ見よがしに突き出しながら体ごと突っ込んでくる。体重差は倍近い。伸びてくる男の手を抱え込み、その腕を軸に自らの体を空中に跳ね上げた蒼雲は、壁に飛び、垂直の壁を両足の裏で蹴って反転した。蒼雲の回し蹴りが鮮やかに決まったことが確認される頃には、脂肪の塊は廊下の反対の端まで吹っ飛ばされていた。
瀧島美知香の体の上に覆い被さっていた男が、ようやく体を起こした。
「ギギギ…ギ…ザ…バ…」
相当に質の悪いものに憑依されているようだ。言語のコントロールまで完全に奪われている。藁人形そのものの呪いではなく、呼び寄せてしまった悪霊の類いが入り込んでいる可能性が高い。こういうモノに憑依されると予後が悪い。
「自業自得だな」
蒼雲は忌々しげに吐き出す。もともと悪意を持って学園祭に乗り込み、生徒に危害を加えようと企んでいた連中だ。質の悪いものに憑け入られても仕方が無い。しかも、目的の剣道部主将だけではなく、学園祭そのものまでぶちこわしてしまうような連中に情けをかけてやる必要も無かった。
ジャケットを脱いで隅へと放り投げる。
「そんなものに取り付かれている奴は、手加減できんな」
もしこの男達にまともな判断力が残っていれば、「ここまでも全く手加減していなかったのに」と反論したくなるような台詞を平然と呟き、蒼雲は足下に転がっている木刀を拾い上げた。
この場を襲った集団のリーダーと思われるその男は、ポケットからダガーナイフを取り出した。
意識が乗っ取られていても、闘争本能だけはまともに機能しているようだ。いやむしろ、血に飢えた悪霊は、闘争に特化して能力を高める働きをする。
鋲付きのナックルガードにダガーナイフ。
戦い馴れた構え方。
手加減など一切するつもりも無く、男が飛びかかって来た。良心の欠片も持たない状態の人間は、機械兵器と変わりない。
それでも。
蒼雲の動きは人間の動きでは無かった。
しなやかで軽やかで変幻自在な猫の動きだ。
相手の突撃を交わして身を沈める。ナイフの剣線は完全に見切っている。素早く体を入れ替え、ナイフを持つ相手の右手の肘を、最下段から思い切り木刀で打ちつける。気を込めた木刀は、人の腕くらいの物なら容易に切断するほどの威力を持つ。それでも多少手加減したのは、情けではなく事後処理のことを考えての配慮だ。
ゴキッ
という、骨が砕ける嫌な音がして、ナイフが固い音を立てて床に落ちる。同時に跳ね上げた後ろ蹴りが男の顎に決まる。バランスを崩した男の胴を、空気を切り裂く音を立てて振られた木刀が横に薙いだ。男の体はもんどり打って後ろに倒れ、二〜三度痙攣して沈黙した。
泡を吹いて倒れる男の体から、まるでヘドロのような粘性のある液状のものが這い出てくるのが視えた。それは程なく形を成し、倒れている男の体の上に浮かんだ。
ぎっちりと五寸釘が刺さった、先ほど歴史文化研究部の展示室にあった藁人形だ。
クフフフフフ
脳髄を舐め上げるような不快な声で、藁人形が笑っている。目も口も無いのは明らかなのに、藁人形は笑い声を立てる。
フフフフフ
こちらを睨みつけてくる黒々とした視線を感じる。
唐突に、藁人形が蒼雲目がけて飛んだ。
蒼雲は、咄嗟に右手の木刀でそれを跳ね返す。
天井にぶつかったそれが、再びものすごい速度でこちらに飛んでくる。
蒼雲はすぐに床を蹴った。
二回に分けて後ろに飛び退り、三回目に上に飛んだ。藁人形がその動きを見失うほどの素早い跳躍だった。
蒼雲の体は、教室の扉の上、桟の部分にあった。
剣印を結び、唱えるのは魔伏の呪文。
蒼雲の体が宙に舞う。
その指が藁人形に向けられる。
次の瞬間。
不可思議なほどに強い空気の流れが起き、まだ向かってこようとしていた藁人形の周りを取り囲んだ。硬質で高密な空気が高速で回転している。突発的に生じた小さな竜巻の渦のようだ。
風の一族に伝わる、風を操る退魔の呪法。
チャリンチャリン
チャラチャリン
チャラチャラランチャリン
渦が止み、金属音が床を転がった。
藁人形は沈黙した。
正確には、藁人形だった物は消え失せたと言った方が正確かもしれない。人の形を保つ物は既に無くなっていた。藁は霧散し、床には、細かく切断された五寸釘が散乱している。その中央に、堅い種のような形状の黒い物が落ちていた。
蒼雲はそこへと歩み寄り、その黒い物を拾い上げた。ポケットからハンカチを取り出し手のひらに広げ、黒いものをその上に置く。ほんの少し観察した後、それを畳んでシャツの胸ポケットにしまった。
ようやく一息つくように大きく息を吐き出す。
廊下にへたり込んだままの美知香は、相変わらずの茫然自失だ。剥き出しの肌を隠すことも忘れて、ポカンと口を開けたまま、瞬きも忘れてこちらを見つめている。化け物でも見たかのような驚きの表情が顔に貼り付いたままだ。
先ほど放り投げたジャケットを拾い上げ、ポケットから偏光眼鏡を取り出してかける。釘が散乱する床を音も立てずに歩いて、蒼雲は美知香の方へと足を進めた。
「大丈夫か?」
殴られたのだろう、頬が赤く腫れている。口元も切れて血が流れていた。レオタードが破れて、胸元があらわになっていた。
蒼雲は彼女の前に片膝をつくと、手に持っていたジャケットを彼女の肩からかけてやる。
立ち上がって、背後の女子生徒二人の額に軽く手を添える。
「すぐに校舎から出るんだ」
「は、はい!」
意識を取り戻した二人に声をかけると、二人は弾かれたように返事をして、廊下を走っていく。奥の教室のバリケードを解除させ、逃げ後れていた三人も階下に向かわせる。
窓の外から、けたたましいサイレンの音が聞こえる。パトカーだけではなく、救急車、消防車までもが出動しているようだ。重なり合う音が反響して耳障りだ。蒼雲は、猫化を緩めて聴覚を刺激する外音を絞った。
瀧島美知香は、まだ床にへたり込んだままだ。腰が抜けてしまっているのだろう。彼女の口元は、まだ、恐怖でわなわなと震えていた。
本当は、事が終わり次第、窓から脱出してしまう予定だったのだが、当初の予定は変更になっている。美知香に見られている以上、逃げても無駄だと悟っていた。蒼雲には、呪符無しで相手の記憶を操作するほどの呪術は使えない。
(父上には相当怒られそうだが仕方ないか。そもそも、これは完全に不可抗力だろうしな)
もう一度、美知香の脇に片膝をつく。お礼を言いたいのが叶わないのだろう。パクパクと口を動かしているが言葉になっていない。
「大丈夫だ」
蒼雲は、美知香の両肩に優しく手を添える。
「落ち着いて。深呼吸しろ」
蒼雲の眼が、じっと美知香の瞳を覗き込む。美知香は、大きく息をして、ゆっくりと吐きだした。ようやく落ち着きを取り戻す。
「あ、あの…あ、あり…ありがとうございました…」
ペコリと頭を下げた彼女の体を、蒼雲は軽々と抱き上げた。
「え? えっと、あの…」
彼女の頬が朱に染まる。
「掴まっていろ」
美知香をお姫様抱っこで抱き上げたまま、蒼雲は騒然としている一階へと階段を下りていった。