帰
エミールはその場に力無く膝をついた。
空へ昇るように霧散した男を見送り、小瑪は腰を上げ、そっとエミールの側へ寄り添う。
「……エミール……」
ルーシャンは立ち尽くしたまま天を仰いだ。太陽は完全に姿を現し、海と大地を柔らかく照らしている。
陽光に手を翳し、海へと視線を移した。翡翠の瞳に、同じ輝きを放つ故郷を映す。
ザザ、と、吹き抜ける海からの風に瞼を落とし、亜麻色の髪を遊ばせた。
「…………」
皆はまだ、ルーシャンの帰りを待っているのだろうか……諦めずに。
瞼の裏には、たくさんの笑顔が溢れている。
ルーシャンはついと目を上げ、一歩、海へと足を踏み出した。
焦らずに、ゆっくりと。焦る必要は、もうない。呪は解かれた。
海は決して逃げない。
ならば、本来の姿を彼に……そして……
汀まで来た時、歩みを止めた。一度瞬き、波の奏でを背にする。
「小瑪」
凛とした清らかなる声音で、愛しい人を呼んだ。
これが、どんなに素晴らしいことだろう。
応じた小瑪は背を伸ばし、またエミールも泪を拭い、振り返った。
「お別れね」
ニコリと、豪奢な笑みを顔中で湛える。
「今まで、ありがとう。貴男のお蔭で、私は今ここに立っていられる。倒れていた私を拾ってくれて、本当に感謝するわ」
真っ直ぐに瑠璃の双眸を見つめ、それからエミールへと顔を向けた。
「ありがとう、エミール。私を館から出してくれて。貴方にどんな思惑があったとしても、私は生きている……それで、いいんだわ」
月長石の瞳が、物言いたげに揺れる。
「お父様と、仲直りできてよかったね。私も帰って、みんなに謝らないといけないわ」
ふふふ、と、苦笑いを零し、けれど愉快そうに口許へ指を宛がった。
「ルーシャン」
「小瑪、大好きよ」
ルーシャンは小瑪が何か言うのを遮る。小瑪の声を聞くと泣きそうだったから。
「だから、エミールを大事にしないと、私がその綺麗な顔を張り飛ばすんだから!」
言って、右手を上げて見せた。
波打つ髪は、背後の波と同調するように揺れ戦ぐ。
「私は、帰るわ。待ってくれているだろうみんなの所へ!」
サアァ、と、長い髪とワンピースを翻し、躊躇いなく海へ身を沈めた。
小瑪もエミールも、煌きの残像を追い、碧い波間を眺める。
「小瑪ー! あの部屋、少し掃除したほうがいいわよー!」
大分距離がある位置に、ルーシャンが腕を振っていた。陽光に透ける黄金の髪が、海面に広がっている。
ルーシャンの、本来の姿。
「さようなら! お幸せにね!」
「──ルーシャンも!」
小瑪とエミールが手を振り返す。
ハープが撫ぜる莢かな音の如く、美しい笑声が響き渡り、尾鰭が海水を弾いた。その一点に、桜の花びらが散ったよう。
乙女はもう見えない。故郷への、帰路についた。
「エミール」
小瑪とエミールも、帰るべく場所へ。
「帰ろうか」
小瑪は、あの館が必要になることはないと思っていた。戻るつもりなど、初めから。
だが、運命は変化する。小瑪の思案など、鼻で嗤うかのように。
「部屋の掃除を手伝ってくれるとありがたい。二人いても、片付くかどうか……」
再び、人生を歩める。
ずっと待っていた、愛しい人と。
生が与えられるとは、思ってもいなかった。
すべてに感謝しなければならない。
小瑪は前髪を掻き上げ、隣でクスクスと唇を震わせるエミールを見た。
……泣いていない。大丈夫。
「エミール」
手を伸べると、エミールはひとつ頷き、手を重ねてくれる。
歩き出す……それぞれが、それぞれの道を。
人魚浜に、点々と足跡が残り、舞う波に溶ける。
けれど、微かに証を残し……
碧い、蒼い、壮大な海。
命の源。
流れ、渦巻く、生きた波。
この世を支える。
見渡す限りの青い世界に、揺れる虹色の輝き……