第十八話 朝の行列
数年後。
――――――
四時にアラームが鳴る。
真琴はそれより先に目が覚める。
変わらない。
布団を出て、台所で顔を洗う。エプロンをつける。自転車のカギを取る。
外に出ると、空がまだ暗い。
五月の空気だ。冷たくはない。でも夜明け前は少し肌寒い。
自転車で走る。商店街まで十五分。
――――――
シャッターを上げる。
電気をつける。換気扇を回す。
冷蔵庫を開ける。昨日の夜に仕込んでおいたものが並んでいる。
真琴は確認する。
田中の分。木曜だから今日は来る。足の具合が最近少しいい、と本人が言っていた。
佐々木の分。火曜と木曜。今日は木曜だから来る。
老婆の分。不定期だが、最近は週に三回来る。
中川の分。夜に来る。
村井は今週夜勤がある。明日の朝だ。
他に、新しい顔が何人かいる。
坂口が別の現場を見つけた。この街の北に、また工事が始まった。坂口は戻ってきた。新しい若い男も連れてきた。
その若い男は、最初の日からご飯を大盛りにしてほしいと言わなかった。黙って受け取った。次の日、真琴が多めにした。男は少し驚いた顔をした。何も言わなかった。三日目から、当たり前のように受け取るようになった。
――――――
仕込みをしながら、今日の弁当を頭の中で組む。
田中に合わせた出汁の弁当。佐々木に合わせた、冷めても旨い弁当。老婆に合わせた、食べやすい大きさに切った根菜。
全員分、顔が浮かぶ。
全員分、弁当の中身が決まる。
変わらない。最初からそうだった。
――――――
七時になると、シャッターの外に人が並び始める。
最初に来るのは、たいてい作業着の男たちだ。坂口が先頭に立つことが多い。
七時半を過ぎると、病院の名札をつけた看護師が来る。夜勤明けの顔だ。
八時頃、田中が来る。杖をついて、ゆっくり歩いてくる。行列を見て、少し困った顔をする。でも並ぶ。
真琴は田中に気づくと、田中の分を先に用意する。
「田中さん、こちらへ」
田中は少し遠慮する。
「並んでるのに悪い」
「先に作ってあります」
田中は受け取る。
「ありがとう」
杖をついて帰っていく。
行列の中の何人かが、それを見ている。文句を言う人間はいない。
――――――
昼前に、佐々木が来た。
タクシーの仕事の合間に寄る日は、たいていこの時間だ。
「混んでるな、今日も」
「おかげさまで」
「俺が来た頃は、閑古鳥が鳴いてたのに」
「閑古鳥は鳴いていませんでした」
「鳴きかけてた」
真琴は返事をしなかった。
佐々木は弁当を受け取りながら言った。
「この店、すっかり変わったな」
「変わりましたか」
「変わった。でも変わってないところもある」
「どこが」
佐々木は少し考えた。
「あなたが、ただ見てるところ」
真琴は佐々木を見た。
「最初に来た時から、そうだった」佐々木は言った。「俺のこと、全部見てた。名前も知らないのに」
「ただ見ていただけです」
「それがここの強さだろう」
佐々木は出て行った。
――――――
夕方、藤田が来た。
月に一度か二度、顔を出す。厨房には入らない。ただカウンターに座って、店の様子を見る。
「繁盛してるな」
「おかげさまで」
「俺がやってた頃より客が多い」
「藤田さんが基礎を作ってくれたからです」
「上手いことを言う」
「本当のことです」
藤田はカウンターに肘をついた。
「桐原さん」
「はい」
「後悔してないか。この店を継いで」
真琴は少し考えた。
「していません」
「借金もあるのに」
「あと二年で終わります」
「冷蔵庫も替えたしな」
「替えました。売上で賄えました」
藤田は頷いた。
「そうか」
しばらく沈黙があった。
「結衣ちゃんは」
「今日は学校です。帰ったら来ます」
「この頃、手伝ってるんだろう」
「土曜日だけ。本人が来たいと言うので」
藤田は少し笑った。
「あの子も、よく見てるな」
「そうですか」
「客の顔を見てる。あなたと同じように」
真琴は少し止まった。
「気づきませんでした」
「親ってのは、子どものことを一番見てるようで、意外と見えてないもんだ」
真琴は返事をしなかった。
藤田はカウンターから立ち上がった。
「また来る」
「待っています」
藤田は杖をついて、出て行った。
――――――
夜、中川が来た。
真琴は今夜の雑炊を出した。春菊と豆腐の、さっぱりしたものだ。
中川は食べながら言った。
「最近、うちの常連が増えた」
「そうですか」
「あなたの店で弁当買って、うちに飲みに来る人間が何人かいる」
「それはよかったです」
「ここと、うちと、はしごするのが楽しいらしい」
中川は箸を置いた。
「桐原さん、あなたのおかげでうちも少し元気になった」
「私は何もしていません」
「してる。あなたがここにいるから、この商店街に人が来る。人が来るから、うちにも来る」
真琴は返事をしなかった。
「素直に受け取りなさい」中川が言った。
「……ありがとうございます」
「よろしい」
中川は残りを食べた。
――――――
中川が帰った後、一人で厨房を片付けた。
明日の仕込みのメモを書いた。
全員分の顔が浮かんだ。
真琴はメモを書きながら、最初の日のことを思った。
工場をクビになった帰り道。信号で止まって、シャッターの隙間から音がした。
老人が倒れていた。
真琴は厨房に入った。ただそれだけだった。
誰かに頼まれたわけではなかった。計算したわけでもなかった。
ただ、弁当が六つ必要だった。だから作った。
その日から、ここにいる。
――――――
翌朝、シャッターを上げると、すでに一人立っていた。
佐々木だった。
今日は非番らしく、私服だった。いつもより早い時間だった。
「早いですね」
「眠れなくてな」
「どうぞ」
佐々木は店に入った。カウンターに座った。
真琴は仕込みを続けながら、佐々木に声をかけた。
「今日は何にしますか」
「桐原さんが選んでくれ」
「わかりました」
しばらくして、外に人が集まり始めた。
作業着の男たち。看護師。近所の老人。
行列ができた。
佐々木はカウンターから、その行列を見た。
「ここ、街の保健室みたいな店だな」
真琴は手を動かしながら聞いた。
「保健室」
「具合が悪い時に行く場所じゃなくて。なんか、来ると落ち着く場所。学校の保健室って、そういう場所だっただろう」
真琴は少し考えた。
「そうですか」
「そうだよ」
真琴は佐々木の弁当を選んだ。
冷めても旨い鶏の照り焼き。最初の日に選んだものと、同じだった。
袋に入れて、佐々木に渡した。
佐々木は受け取った。
「変わらないな」
「何がですか」
「これ」佐々木は弁当を持ち上げた。「最初に来た日と同じだ」
「覚えていましたか」
「あなたが覚えてるんだろう」
真琴は返事をしなかった。
佐々木は立ち上がった。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
――――――
佐々木が出て行った後、シャッターの前の行列が動き始めた。
真琴は弁当を用意した。
一つ一つ、顔を見て、渡す。
その時間、厨房の奥から足音がした。
結衣が来た。
土曜日ではないが、今日は学校が休みだった。
エプロンをつけて、真琴の隣に立った。
「手伝う」
「袋に入れてくれ」
「わかった」
二人で並んで動いた。
結衣は客の顔を見た。真琴が渡す弁当を袋に入れて、渡した。
ある客に、結衣が言った。
「今日の卵焼き、いつもより少し甘いです。甘いの大丈夫ですか」
真琴は少し止まった。
その客は、以前、甘いものが苦手と言っていた。結衣はそれを聞いていた。
客は少し驚いた顔をした。
「じゃあ、交換できる?」
「できます」
結衣は別の弁当を出した。
客は受け取って、出て行った。
真琴は結衣を見た。
「聞いていたのか」
「うん。前に言ってたから」
真琴は返事をしなかった。
結衣は次の客に弁当を渡した。
――――――
朝の行列が終わる頃、外が明るくなっていた。
夜明けだった。
真琴はシャッターの外に出た。
アーケードの向こうに、空が白み始めていた。
桜はもう散っていた。でも街路樹の葉が青くなっていた。
商店街の金物屋のシャッターが上がった。
煙草屋も開いた。
真琴は空を見た。
数年前、この道を自転車で走った。工場をクビになった帰り道。信号で止まって、音を聞いた。
今日も同じ道を走ってきた。
でも今日は、この店のシャッターを自分で上げた。
真琴は厨房に戻った。
結衣が仕込みを手伝っていた。包丁を持って、野菜を切っていた。まだ不格好だったが、丁寧だった。
「お母さん」
「うん」
「今日の昼、何作る?」
「考える。食材を見てから」
「一緒に考えていい?」
真琴は結衣を見た。
結衣は包丁を持ったまま、真琴を見ていた。
「いい」
結衣は頷いて、また野菜を切り始めた。
包丁の音が、厨房に響いた。
外では、街が動き始めていた。
(第十八話・了)
――第六幕 了――
夜明け前の弁当屋 完




