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夜明け前の弁当屋  作者: 八雲 海


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第六幕 夜明け 第十七話 お母さん、最近笑ってる

五月になった。


 坂口たちの現場が終わった。


 最後の日、坂口が一人で来た。作業着ではなく、普段着だった。


「今日で現場が終わりです」

「そうですか」

「次の現場が決まったら、また来ます。この街かどうかわからないけど」

「わかりました」


 坂口は弁当を受け取った。今日は真琴が選んだ。鯖の味噌煮と根菜の煮物。坂口が休みの日に選ぶものだ。


 坂口はそれを見た。


「今日は現場じゃないのに」

「最後だから」


 坂口は少し止まった。


「……覚えてたんですか。休みの日に何頼むか」

「覚えています」


 坂口はしばらく真琴を見た。それから袋を受け取った。


「また来ます。絶対」

「待っています」


 坂口は出て行った。


 真琴はカウンターの前に立ったまま、少しの間、坂口が行った方向を見た。

――――――

 その週の日曜日、真琴は結衣を遊園地に連れて行った。


 電車で一時間の、隣の市にある遊園地だった。


 約束していたわけではない。その朝、真琴が結衣に言った。


「今日、遊園地に行くか」


 結衣は少し驚いた顔をした。


「行っていいの」

「行ける」

「なんで急に」

「春になったら行こうと思っていた。もう春だから」


 結衣はしばらく真琴を見た。


「お母さん、計算してたの」

「してた」

「いつから」

「一月の末から」


 結衣はまた真琴を見た。それから言った。


「着替えてくる」

――――――

 遊園地は混んでいた。


 ゴールデンウィーク(連休)明けの日曜で、家族連れが多かった。


 結衣は入口で地図をもらって、じっと見た。


「どこから行く」

「結衣が決めていい」

「メリーゴーランド(回転木馬)から」

「わかった」


 二人でメリーゴーランドに乗った。


 真琴は馬に乗りながら、隣の結衣を見た。


 結衣は正面を向いていた。真剣な顔をしていた。


「楽しいか」

「うん」


 それだけだった。


 でも耳が少し赤かった。

――――――

 昼を過ぎた頃、二人でベンチに座った。


 買ってきたソフトクリームを食べた。


 結衣はソフトクリームを食べながら、人の流れを見ていた。


「お母さん」

「うん」

「最近、笑ってる」


 真琴はソフトクリームを持ったまま、結衣を見た。


「そうか」

「うん。前は笑わなかった」

「笑っていなかったか」

「たまにはあったけど。なんか違う笑い方してる。最近」


 真琴は少し考えた。


「どう違う」

「なんか、本物っぽい」


 真琴は返事をしなかった。


 ソフトクリームを一口食べた。


 甘かった。


「いつから気づいた」

「炊き出しの頃から」

「そうか」

「なんかあったの」

「いろいろあった」

「何が一番」


 真琴は少し考えた。


「人が来た。店に」

「常連さん?」

「常連じゃなかった人が、常連になった。何人も」


 結衣はソフトクリームを食べながら聞いた。


「それで笑うようになったの」

「そうかもしれない。わからない」

「お母さんがわからないのは珍しい」

「そうか」

「うん。いつもわかってる顔してるから」


 真琴は結衣を見た。


 結衣はソフトクリームを食べ終わって、手を拭いていた。


「次、どこ行く」

「結衣が決めていい」

観覧車かんらんしゃ

「わかった」

――――――

 観覧車の中で、結衣が言った。


「ねえ、お母さん」

「うん」

「お店、続けるの。ずっと」

「続ける」

「藤田さんの店、継ぐって聞いた」

「誰から」

「藤田さんから。この前、店に来た時に話しかけてくれた」


 真琴は少し止まった。


「何を話したか」

「桐原さんにこの店を継いでもらうことになった、よろしくな、って」

「そうか」

「結衣ちゃんのお母さんは、すごい人だ、とも言ってた」


 真琴は窓の外を見た。


 遊園地が下に広がっていた。人が小さく見えた。


「藤田さんがそう言ったか」

「うん」結衣は真琴を見た。「お母さんはすごいの?」

「わからない」

「藤田さんはすごいって言ってた」

「藤田さんの判断だから、藤田さんに聞きなさい」


 結衣は少し笑った。


 真琴はそれを見た。


 結衣が声を出して笑うのは、久しぶりだった。

――――――

 帰りの電車の中で、結衣は真琴の隣で眠った。


 真琴は眠った結衣を見た。


 一月の末、暗い台所で泣いた夜のことを思い出した。


 遊園地に行けるのはいつか、と計算した夜だった。


 あの夜から四ヶ月経った。


 計算通りに来た。


 真琴はいつも計算する。数字を並べて、できるかできないかを判断する。感情で動かない。


 でも今日、結衣が笑った瞬間、頭の中の計算が止まった。


 炊き出しの夜に弁当を食べた老婆が目を閉じた瞬間と、同じだった。


 数字では出てこないものが、確かにあった。


 真琴はそれを、まだうまく言葉にできなかった。


 でも、あると知っていれば十分だと思った。


 電車が走った。


 結衣が少し身じろぎして、また眠った。


 真琴は窓の外を見た。


 夕暮れの空が、橙色だいだいいろに染まっていた。

(第十七話・了)


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